いにしえの【世界】 73
策を弄するのは止めだ。やるだけのことをやってみようじゃないか。
全力の芝居だ。筋は先ほどやりかけた方で行こう。
たしかにやっつけ仕事の改変をしたが、踊り子達はマイヤーの意図の通りに演技をしてくれていた。それを観た「二人の観客」は、芝居に文句を付けていない。いや、むしろあの芝居を楽しんでさえいた風もある。
『確かに若様と旦那は物わかりの良い捌けた方だった。その分、頂いたのは糖蜜みたいな甘い評価だと思ったがいい。下駄を履かしてもらっているのと一緒だ。丸々信用しちゃぁならない』
彼は若い貴人のほそやかな顔立ちを思い起こしながら、痩せこけた雲客をじっと見た。
グラーヴ卿は真っ黒なマントで体全体を、黒い帽子の大きな鍔で顔の上半分をすっかり覆い隠している。
見えるのは、冷たい微笑を浮かべる真っ赤な口元だけだ。
『この白塗りオバケが「芸術」を理解してくれるかどうかは、分の悪い大博奕だが……その分当たり目が出れば、政府お墨付きというとんでもない配当が戻ってくる。どのみち退路はすっぱり断たれているんだ、大勝負に出てみようじゃないか』
覚悟を決めた。
笑みを満面に広げた。
グラーヴ卿を見、フレイドマル座長を見、小さく会釈をして後に、楽団溜まりに顔を向けた。
「さっきの調子で頼むよ、マエストロ」
マイヤーの声は小さく、言葉は強かった。
迷いのない眼差しには、白髪頭の指揮者が抱いていた不安を振り払うのに十分な力があった。
指揮者はうなずきを返し、楽士達を配置につかせた。彼自身も指揮台状で背筋を伸ばす。
彼らは普段は使うことのないぼろぼろに破けた楽譜を、おのおの譜面台に広げ、音符に神経を注いだ。
次いでマイヤーは舞台袖から様子を窺っていた裏方衆と踊り子達に鋭い視線を投げる。
「位置について。稽古の通りにやっとくれ」
団員達は一瞬、ざわめいた。マイヤーの顔が見えない場所にいる連中が、前方の仲間の背に声をかけている。
振り向いた踊り子達の安堵した顔を見ると、彼らの不安も消えた。
団員達が舞台裏に消えたのを確認したマイヤーの視線は、フレイドマル座長の顔の上に戻ってきた。
途端、それまで座長の顔面に広がっていた、弛んだ笑顔がかき消えた。
マイヤーは微笑している。清々しく笑っている。
吹っ切れた彼の、いっそ麗らですらある眼差しが、フレイドマルにはむしろ恐ろしげに見えた。
戯作者の瞳が、澄んだ鏡の面に思えた。
それも、覗き込む者の真の姿を写す魔鏡に。
己の薄汚い保身を見透かされた気がする。
「座長」
マイヤーが穏やかな声で呼びかけた。
小太りの体が小さく震えた。
「申し訳ありませんがね、どうにも人手が足りませんで。奈落の柱押しの員数が不足していると、以前にも言ったと思いますがね。それを手伝っていただけますかね」
言葉は要請のそれだったが、フレイドマルには逆らうことの許されない命令に聞こえた。
「あ、それか。分かっている、分かっている」
座長は小刻みに頷きつつ、ちらりとグラーヴ卿の顔色を窺う。
勅使様がこの場に残れとお命じにならないかと期待していた。傍らに座す光栄を与えてくださることを願った。
そうすれば、辛い奈落の肉体労働をせずに済む。
だが、卿は一言も発さない。そればかりか、顎で通用口の方を指し、彼に奈落行きを促しさえした。
座長は力なく頭を垂れ、とぼとぼと楽屋裏へ向かった。
粛々と準備が進む様子を、マイヤーは全身の神経で感じ取っていた。
『万全の体勢で芝居をするとなれば、シルヴィーを若様の所に置いてきたのは、我ながら失策も良いところだが』
一瞬、弱気が頭を持ち上げた。
マイヤーはそいつを臓腑の奥底へ押し込めた。
「小汚い椅子で申し訳のないことでございますが、どうぞそちらへ掛けてお待ちくださいませ。すぐに幕を開けましてございます」
殊更丁寧に言い、マイヤーは深々と頭を下げた。エビのように、腰を曲げたまま後ずさりする。
『若様、旦那、お願いだ。上手いことシルヴィーを連れて逃げておくれよ。この一座に万一のことがあったとして、あの娘なら別の劇団でも十分にやっていける筈だから』
下げた頭をちらりと横に振り、マイヤーは楽屋の方角を見た。