いにしえの【世界】 89
男装した姫の太刀筋は、彼らの急所から微妙にずれていた。
彼らは即死しなかった――そう、不幸なことに。
城塞都市の法律執行職を司る城伯は、本来は戦争の最前線施設の司令官だった。故に戦乱の時代にはその職にふさわしい人材、すなわち特に武に優れた者や、兵法に達者な者がその称号を得、職を任じられ、城を守っていた。
大きな戦の無くなった太平の世では戦争の司令官という職務の部分は完全に形骸化している。城伯の称号だけが他の爵位同様に漫然と世襲されていた。少なくとも、他の城塞都市では。
グラーヴ家はいささか違った。
初代は武を持ってハーン帝国の始祖ノアール=ハーンに仕え、武によって取り立てられた人物とされている。
武によって与えられた領地の、武によって守り抜いた城の中で、彼を武功を讃える数多のモニュメントが人々を睥睨していた。
「武人として得た地位は、武人として守らねばならない」
肖像画が、胸像が、レリーフが、壁画が、天井画が、無言の言葉を発し続ける。
時が流れ、平和な世となっても、歴代の当主達は「武人であること、軍人の誇りを持つこと」を己と己の子孫達に強いた。
ヨハンナ=グラーヴの父親ヨハネスが、一人娘を娘として扱おうとしなかった理由も、その血の妄執にある。
「グラーヴ家の総領は、勇猛な騎士にして苛烈な戦士でなければならない」
ヨハネス=グラーヴ城伯は娘に己の名を継がせた。父も家人達も「彼」をヨハネスと呼んだ。
母親だけは時折ヨハンナと呼んだ。ただし、その女名前を口にできるのは、夫の目と耳が届かぬ場所に限られていた。
兎も角。若いヨハネス=グラーヴは、父親の望む通りの剣術使いになった。城下で「彼」に敵う者は数えるほどしかいないほどの手練れになった。
父が急死するまでの間、若いヨハネスは「理想的な領主の嫡男」であり続けた。
すなわち――。
花婿の友人達が即死しなかったのは、攻撃者の技量が足らなかったためではない。ヨハンナはあえて急所を突かず、思うところあって止めを刺さなかった。
それは慈悲によるものでも憐憫からのことでもない。城伯の娘は彼らの命を惜しんでなどいなかった。
彼らは長い間悶え苦しみ続けた。血潮が流れ尽きるまで、彼らは生きていなければならなかった。
彼らの霞む目に、花嫁と花婿の最初で最後の儀式を見せつけること。それがヨハネスと呼ばれたヨハンナの望みだった。
友人達の血に足を取られ、花婿は汚れた床の上に尻餅をついた。
「酒の上の冗談だ。羽目を外しすぎた。許してくれ」
花婿が声を震わせる。ヨハネス=グラーヴは小さく笑った。花婿の顔に安堵の血の気が戻ったのは一瞬のことだった。
彼の妻となるはずだった娘は、微笑を湛えたまま長剣を振った。彼の胸板は薄く斬られた。
長剣の切っ先にまとわりついた花婿の血を、花嫁は左の紅差し指で拭った。鉄の匂う朱の液体が指先からどろりと流れた。
「卿が主君を弑したことについてだが……」
ヨハネス=グラーヴの声は、暗く、低い。
花婿は頬を引きつらせた。
彼の主君とは、老ヨハネス=グラーヴであった。いま彼の眼前で抜き身をぶら下げている「若いヨハネス」の、彼が花嫁と決めた「気の毒なヨハンナ」の父親である。
彼は自分の計画を秘密裏に立て、秘密裏に実行したつもりだった。城伯殺しの犯人は誰にも知られていないと信じていた。
震え上がった。同時に疑念が生じた。
「君は、それを知った上で僕との婚礼を?」
掠れた声で反問した。
「父を謀殺した仇を探さない者がいるかえ?」
当然のこという口ぶりの答えと、血濡れた剣の切っ先が花婿の胸を指し示す。
剣先は空中で停まり、動かない。花婿は固唾を呑んだ。
「そのことだが、私は卿に謝辞を述べようと思っていた。実は私も、廃された皇帝に対する感傷を忠誠と履き違えるような人物は、新しい皇帝が治める国から取り除くべきだと、常々思っていた」
ヨハネスと呼ばれていたヨハンナの言葉は花婿を驚愕させた。彼の知る「若いヨハネス」は父親に対して忠実であり、不平不満を述べることなど微塵も無かったからだ。
「僕は、つまり、君の望みを叶えたということになる」
花婿は硬い笑顔を作った。だがヨハンナは彼の言葉に対して返答しなかった。
「私は卿のとった手段については非難している。夜陰に乗じた暗殺は、騎士道に反する」
剣の先が花婿の左胸にあてがわれた。
「老伯の側にはいつも君がいる。君はこの城下で並ぶ者のない剣士だ……僕が正面から斬り掛かって、君に勝てるはずがない」
花婿は引きつった声で弁明した。
「だから卿は、あの年寄りが愛妾の所へ忍んでゆく夜道に襲った。『悪所』通いの父親を軽蔑した『倅』が、その時ばかりは護衛をしないと知って……。良い作戦だと思う。私が卿であったとしたら、やはりその策をとる」
「そうしなければ……老伯を殺さねば、君と結婚できなかったからだ。あの方は、あくまで君を男として扱っていた。あの方が生きている限り、君は婿を取ることができなかった」
まくし立てる花婿の胸元から、剣先が僅かに引かれた。花婿は息を吐き出し、
「妻よ」
小さく呼びかけた。ヨハンナは灰色の目を細めて彼を見つめ返した。
「そのことを……君は誰かに調べさせたのか」
「否。我が身一つで」
「では、知っているのは、僕と君だけか?」
「他の誰にも漏らしていない」
「では、夫婦の秘密だ」
ヨハンナは頷いた。彼女の唇に浮かぶ微笑は、しかし嘲笑だった。
「卿に美しい愛人がいることも……」
花婿は息を呑んだ。その場から逃げようにも、腰が立たない。
ヨハンナ=グラーヴは血に濡れた指先が薄い唇をなぞった。
土気色の生き生きとした赤に色づく。
指先は頬骨の上を滑る。
青白い頬が赤く輝いた。
「さようなら、愛しい人。私ではなく、城伯の爵位に恋した人」