いにしえの【世界】 90
「哀れな人」
潤んだ緑色の瞳から雫があふれ、白い頬をつたって流れ落ちる、怪我と埃にまみれた乙女の顔を見た【月】は、
「そう……哀れな男の、つまらない昔話よ」
薄い唇で大きな弧を描いた。
「ねぇ、男の服を着せられた、可哀相なエル坊や。男の子が欲しかった、男であれば良かった、女など要らない……そう言われて育った不憫な鬼子のお前だもの、そんな女の子のような顔は要らないでしょう?」
落ちくぼんだ眼窩の中で【月】は目玉を見開いた。
「要らないお前の姿なら、アタシに映し盗られたって、ちっとも構わないでしょう? お願いだから、もっとしっかり見せて頂戴。その目も、髪も、体も声も、全部よ」
得物の顔貌姿形を、己に映し、己の姿とするために、彼女はエル・クレールを睨め付けた。
ボンヤリと曇った黒い石には、痩せた中年男のような顔をした老嬢の、落ちくぼんだ灰色の目玉が映った。
この世で一番見たくないものだった。
「何故!」
【月】は叫び、顔をそらした。
頬のこけた横顔を見、エル・クレールは呟く。
「お前は私を『親が男でないことを憾み、男の服を着ることを強いられ、無理矢理男のように育てられた、不幸な女』だと思いこんでいる。お前が見ているのは都合良く勝手に解釈した私の上辺。いいえ、お前自身の姿に他ならない」
エル・クレールの首に巻き付いた『腕』の力が強くなった。
「憎たらしい子! 形を映しても、生かしておくつもりだったのに……もちろん鏡を植え付けてお人形にして、だけれども」
【月】の総身から殺意が噴き出ている。
気道が狭まり、頸動脈が圧迫された。
「憎らしいから殺してあげる。命がなくなったら、さすがに体は要らなくなるでしょうから、全部頂戴ね」
【月】の眉間の当たりに、赤い色が浮かんだ。黒く濁った赤は、欠けた円の形をしている。円は高さを帯び、やがて半球をかたどった。
【月】の、石像の顔から表情らしき物が消えた。それらは額の半球に移動していた。
ひび割れた半球の中に黒い炎が揺れている。女の顔のような男の顔のような獣の顔のような黒い影の、口らしき部分が歪んだ笑顔を作っている。
エル・クレールは喘ぐように息を吸い込んだ。
左の掌で左の腰に触れると、そこに確かな「力」を感じる。
『戻ってきた』
エル・クレールはその「力」を掴んだ。
「我が愛する正義の士よ。赫き力となりて我を護りたまえ……【正義】!」
一条の赤い光が、彼女の左手の中で一筋の刃に変じた。
下から上へ、跳ね上げざまに【月】の両腕を切断した。
その腕の張りで自らの体を支えていた【月】は、バランスを崩した。仰向けに体を反らし、よたよたと下がりながらどうにか立っている。
そのおぼつかない足取り以上にエル・クレールの体勢は崩れていた。
彼女の足に何かがからみついている。人の形をしていた。仰向けに倒れつつ、彼女はその何かの顔を見た。
「君は……!?」
イーヴァンだった。
青白い顔に脂汗を浮かべ、肩で息をし、地面に這い蹲った若者が、エル・クレールの足首を細い指で握っている。
弱り果てた彼の姿からは想像できない程の握力が、エル・クレールの自由を封じていた。 予想だにしない出来事だった。驚きのあまり、彼女は受け身をとることを忘れた。
運の悪いことに、彼女の体は骨の折れた右腕の側へ向かって傾いていた。
衰弱した若者の傍らの、粗末な敷物の上に、彼女は倒れた。
「くっ!」
痛みに苦悶の声を上げた。
イーヴァンは彼女の左腕を押さえ込み、叫んだ。
「ヨハンナ様っ! 早く!」
泥酔者の千鳥足に似た足取りが、後退から前進に転じた。
【月】は上半身を倒れたエル・クレールのそれに重ねるように身を投げ出した。額の半球をエル・クレールの額に打ち付けようとしている。
半球は【月】のアームだ。死した人間の魂の結晶だ。ヨハネス、いや、ヨハンナ=グラーヴの怨念だ。
生きた人間の体に取り憑けば、生まれ変われると信じる、死人の執念だ。
無機質な黒い顔が、エル・クレールに迫った。赤い半球が彼女の額に重ねられようとした。