いにしえの【世界】 95
 書類の制作者の署名、彼の直接の上役の署名、村長の署名が、紙の上方三分の一に、押し込められるようにして並んでいた。
 残り三分の二の空間に、所見と署名を記載せよということだ。
「用意のいいことだ」
 ブライトは使い古しの鵞ペンをインク壺に漬けると、卓上の用紙を極端に斜めに置き直した。
 強い筆圧で押し潰されたペン先が、起伏が少ないく平べったい続け字を、右肩上がりに記してゆく。
 書き上げられたのは僅か二行。
『関係者の証言を一言一句間違えることなく記したものと認むるものなり。
 なお、この地に訪れし“彼の者”はしかるべき場所にしかるべき如く在るなり。』
 一行目は兎も角、次の行が何を意味する言葉であるのか、若い役人には理解できなかった。小首をかしげて書き手の手元をじっと見つめる。
「これかい?」
 ペンをほ放り出すと、ブライトは唇の端に柔らかい小さな笑みを浮かべた。
 もしこの場にエル・クレール=ノアールがいたなら、すぐさま、この笑顔が彼の感情から自然と湧き出たものではなく、物事を有利に進めるための狡猾ですらある作り笑いであると見抜いただろう。
 蝋燭の炎の上に禿びた封蝋の先端をかざしつつ、ブライトは空いた手で卓上の銀色の円盤……すなわち「双龍のタリスマン」などと呼ばれるものに手を伸ばした。
 絡み合う龍が描かれた表面も、いくつかの赤く丸い小さな石の象眼された裏面も、その細工は豪華で美しい。ブライトはそれらの文様を全く見ていなかった。
 銀色の円盤を親指と中指でつまみ上げ、人差し指で分厚い外周に刻まれた文字の凹凸を弾くようにして転がし、指の腹で文字を読んでいる。
「その御託の意味なンざ、この俺だって知るものか。聞くところによりゃぁ、解る人には解る決まり文句みたいなもンだそうだ。例えばウチの姫若様や、お宅のゴ領主サマぐらいにゴ身分が高い方だけが、こいつをゴ理解なさるってものさ。俺達のような下々の者にゃ、関係のないことなンだろうよ」
 厭味と卑下と慇懃無礼いんぎんぶれいを練り混ぜたブライトの言葉に、村役人は素直な感嘆を返した。
「そういうものですか」
 大きく何度もうなづいている。
「上つ方々の考えることなんてもなぁ、下っ端には到底理解できないものさ。くだらないといやぁ、とことんくだらないこったがね」
 ブライトは鼻先で笑った。彼の言う「上つ方々」に向けた嘲笑だった。同時に、素直さも純朴さも欠片すら持ち合わせていない自分に対する冷笑でもあった。
 やがて、ブライトの手の中の、銀の盤の回転がある一点で止った。節くれ立った太い指の先が小さく動く。金属の留め金が外れる小さな音が鳴った。
 ブライトは「双龍のタリスマン」を卓上へ放り捨てるようにして置いた。彼の掌の中には、銀色のメダルの意匠はそのまに大きさだけ十分の一に縮めたような、丸い金属片が一つあった。
 充分に熔けた封蝋を炎から取り出し、書類の上に滴らせる。あまり質の良くない蝋が赤黒く滲んだ円を描いた。低く盛り上がった蝋の上に、ブライトは小さなメダルを乗せた。
 指先で軽く押しつけた後にメダルを退けると、蝋の上には印影がくっきりと残っていた。
 しばらく書類を眺めていたブライトは、蝋が冷え固まったと見ると、紙の束を役人の前へ少々乱暴に押しやった。
 受け取った若い村役人は、浮き彫りに描かれた「貴い紋章」に恭しく礼をしつつ、
「ご署名は、いただけないのですか?」
 遠慮気味に訊ねた。
「そのハンコがありゃ、余計なモノいらねぇよ」
 ブライトは唇の端に柔らかい小さな笑みを浮かべた。これも作り笑いだ。
 役人も笑った。こちらは心から湧き出る晴れ晴れとした笑顔だった。肩の荷が消えたなくなった気軽さが、おのずと表に出たのだろう。
 役人は、書類の束を大事そうに抱持し、幾度も頭を下げた。いそいそと出口へ向かった彼は、ドアを閉める直前室内へ振り返り、深々と頭を下げた。
 廊下の靴音が聞こえなくなった頃、ブライトの顔の上に貼り付いていた笑顔がすっと消えてなくなった。
 彼は椅子の上で大きな伸びをした。立ち上がり、窓辺によると、役人が大通り(というほど広くないのだが)を足早に行き去るのが見えた。
「あの手の小役人が一番厄介だ。ぶん殴るわけにも罵り倒すわけにもいかねぇ分、あしらうのがとんでもなく面倒臭ぇ」
 独り呟いた後、彼は窓枠に足をかけた。
 身を乗り出した頭の上に、上階の窓が空いている。
 直後、ブライト=ソードマンの巨躯はその場から消えた。

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