いにしえの【世界】 94
彼があてがわれた宿屋の別の一室で村の役人と対峙したのは、それから小半時ほど後のことである。
小さな木のテーブルの上に質の悪い紙の束が積み上げられた。たどたどしさすらある筆跡で、細かくぎっしりと文字が書き込まれている。
気の弱そうな若い村役人は、背もたれ無しの粗末な椅子の上で身を縮めて、上目遣いにブライトを見ていた。
「諸々の証言を一言残らず正確に書きましたら、あまりにも常識外れな調書になりまして。このまま郡の上役や領主様に見せても、信じて貰えないでしょう。かといって、事実を曲げることはできません。でそこで、貴殿のご主君にご助力を願おうと思い至った次第です。つまり、ここに書かれていることに目を通した、といった具合の文言を、若君に一筆添えていただければ……」
「検閲済み、ってか? なるほど、テメェの要領の悪さを、ウチの姫若に押しつけようってけ魂胆だな。だがな、ウチの姫若のサインにそんな神通力があるとは、俺には思えねぇよ」
「グラーヴ卿が、そちら様を『同業』と仰ったとか。都の皇帝陛下の直属であられるなら、ここの貧乏領主などより余程格上です」
役人は真面目な顔で言った。頬には、都であるとか皇帝であるとかいう言葉に素直に憧れている、田舎者らしい笑顔があった。
「白塗り婆さんが、余計なことを言ってくれたもンだぜ」
ヨハネスという通り名の老嬢ヨハンナ=グラーヴにその言葉を言わせたのが自分の行動であることが口惜しい。
ブライトは天井を睨み付けた。薄っぺらな板の向こう側に、エル・クレールの病室がある。
「面会謝絶でね」
「ご家臣でも、お会いになれない?」
ブライトは返事の替わりに舌打ちをした。
「そうですか。ではお怪我の加減は相当にお悪いのですね」
役人は肩を落とし、机上の書類を眺めた。弱り果てているというのは、背中の丸みを見ればわかる。
「俺は医者じゃねぇンだ。診立てようがない」
態とがましく棘のある物言いだった。役人は、若い貴族に付き従う忠義者が主の身を案じ、苛立っているのだと、強く感じた。
「こんな片田舎にお寄りになったがために、わけのわからないものに襲われて、せずとも良い怪我をなされて……。なにやら、自分が申し訳ないことをしでかして、方々にご迷惑をかけたような気がしてまいりました」
若い田舎者の役人が益々縮こまる様を見たブライトは、小さなため息を吐き出た。
「全く面倒なことをしてくれる」
椅子を蹴るようにして乱暴に立ち上がった。
役人は肩をびくつかせた。目をつぶって、顔を伏せる。この腕っ節の強うそうな大柄の男が、嵩に懸かって怒鳴りつけるか、力任せに殴りつけるかすると思ったらしい。
ブライトは、もう一度ため息を吐いた。
「テメェにゃ関わりのないことの責任を勝手に背負い込むような青臭い莫迦の尻ぬぐいするなんて厄介事は、ウチの姫若の分だけで手一杯だっていうのに」
床を踏みつけ大股に部屋の隅に向かうブライトの声音には、呆れはあるが不機嫌がない。少なくとも、若い役人にはそう聞こえた。
彼は硬くつぶった目をそっと開いた。
部屋の隅の床に、古びているが頑丈そうな革袋が無造作に投げ置かれている。ブライトはその口紐を足先に引っ掛けた。鞠のように蹴り上げられた革袋を、彼は胸の前で無造作に受け止めた。袋の中から、金属が触れ合う高く重い音が漏れる。
「知ってるかい? およそ雲上人ってのは、やたらな書類のための文字ってものはご自分じゃあお書きにならないもンだ」
革袋の中に手を突っ込み中を漁りつつ、壁際の小テーブルに置かれていた燭台を掴むと、彼は元いた机の前に戻ってきた。革袋にしたのと同じように、足先で器用に椅子を立て直し、どかりと座る。
卓上に燭台を乱暴に置いた。革袋の中から火口箱と大振りな金属の円盤を取り出して、これも無造作に置く。
使い込まれた火口箱には磨り減って消えかけた焼き印が押されていた。
若い村役人は、その文様がハーン皇帝の徽章であることに気付かなかった。正確に言うと、知らなかったのだ。彼が物心ついた頃にはハーン最後の皇帝は「都落ち」していたのだから仕方がない。
だが、もう一つの金属盤に刻まれている、二匹の鬣のある蛇が絡み合う文様の「貴さ」は彼にもすぐにわかった。
生唾を飲み込む役人に一瞥をくれると、ブライトは火口箱から燧石と黄鉄鉱を取り出し、火口炭を燻らせた。火種はすぐに蝋燭に移され、小さな炎となった。
その動作の間、ブライトは口をへの字に曲げていた。しかし目には笑みがある。
若い村役人は痙攣に似た瞬きをした。ブライトの言わんとしていること、やらんとしていることが理解できていない。
きょとんとした顔で己を見上げる役人の鼻先に、ブライトは手を差し出した。
「ペンとインクと封蝋」
「あ……」
ようやく理解した様子だった。
村役人は携えてきた筆記具を彼に手渡しすと、自身が書きまとめた書類の最後の一葉を卓上に広げた。