いにしえの【世界】 98
「俺ぁ、てめえの脳味噌はもう少し働きモンだと思ってたんだがな。とんでもねぇや。目も当てられねぇ愚者だ」
これが普段どおりの軽口なのか、あるいは本心の吐露なのか、エル・クレール=ノアールには解らなかった。
伏せられた彼の顔は、口元の小さな笑みだけを見せている。目の色は全く覗わせない。
彼の「ブライト=ソードマンに対する軽蔑」がどれほど深刻なものであるのか、判断が付きかねた。
エル・クレールは左腕を伸ばし、彼の顔の下へ手を差し入れた。
「それこそ、これの所為ではありませんか?」
薬指の付け根を取り巻く赤い一筋の痣が、エル・クレールの心拍と同じタイミングで脈動した。
「そのはすっぱな出来損ないの【アーム】が、お前さんの感覚と俺の脳味噌を鈍らせた、ってか?」
「はい」
エル・クレールは笑った。精一杯の笑顔を作った。ブライトの視線が自分に向けられていないなことは百も承知だ。
それでも笑った。
明るく、そして深い考えのない愚かな子供の笑顔を作った。少なくとも、自分ではそういう顔をしたつもりでいた。
エル・クレールは表情を「作る」ことが苦手だった。この点だけでいえば、彼女は権力者の卵として(大帝国の皇太子としても、小国の跡取り姫としても)、あるいは旅人としても「不器用」であると言わざるを得ない。いや、「不適格」と断じてしまっても良い。
臣民のために尽くさねばならない為政者であれば、時として自我を殺して感情を封じ、心にもない笑みで顔を満たさねばならないことが必要となる。
おのれのことを知らぬ人ばかりの土地に旅するものであれば、自分の身を守るために人なつこい笑顔を浮かべるべき場面に遭遇することもあるだろう。
山間の、少なくとも表面上は平和な小国の幼い姫君クレール=ハーンは、幸か不幸か無理矢理に作り笑いを浮かべなければならない状況に巡り会ったことがなかった。
嬉しいときに笑い、不機嫌なときにむくれ、哀しいときに泣いた。それで不都合はなかった。
姫若様は子供だった。老王に溺愛され若い母に偏愛された幼子だった。我が侭とは呼べない小さな無邪気を、彼女は許されていた。
そのためにハーンの姫若は作り笑顔の必要性を実戦的に学ぶことができなかった。経験のないことはできようがない。
国を失って放浪するエル・クレール=ノアールが社交辞令のため努力して笑顔を浮かべても、ブライト=ソードマンによって
「児戯」
と小馬鹿にされてしまうできあがりにしかならない。
エル・クレールは知らないことだが、実際のところ、彼は本心では彼女の笑顔の出来を否定していなかった。
彼女の「硬い笑顔」は芸術的な美しさを持っている。普通の人間に好意を抱かせるには十二分の威力を発揮した。事実、フレイドマル一座の構成員達のほとんどが、中性的な若い貴族の笑顔に魅了されている。
その実力を認めて尚、ブライトは彼女の作り笑顔を否定する。
作られた微笑は「嘘」であるというのが、彼の考えだった。
例え人々の心を打ち、幸福感を与えるものであっても、それは「贋物」に過ぎない。
ブライト=ソードマンはクレール=ハーン姫が「嘘吐きの贋者」になって貰っては困ると思っている。手中の宝を穢したくない、可愛らしいモノに可愛らしいままでいて欲しいという、歪んだ大人の汚れた独占欲がそこにある。
兎も角。
エル・クレールには今自分がどのような顔をしているのか、客観的に判断することはできない。自分の顔を自分で見ることはできぬし、この部屋にある鏡は寝台の上を映す角度にはなかった。
彼女は、自分が相当にぎこちない顔をしているであろうと確信している。酷く醜い表情をしているに違いない。
僅かに顔を上げたブライトが、すぐに視線をそらしたことが、その思い込みを一層強くした。
窓際の寝台の上で青白い顔の上に精一杯の作り笑いを広げる、世間知らずの若い娘の背後に輝く柔らかな春の陽光は、彼にはまともに見つめられぬほどまぶしかったのだ。
「姫若サマ、ご冗談はそのお顔だけになさいな。そいつは少しばかり都合の良すぎるご解釈ってもンだ」
ブライトは軽口じみたことを少しばかりうわずった声で言った。
そうやってはぐらかしでもしなければ、エル・クレールの顔から恐ろしく妖艶な色が消えてくれないだろう。
彼の策略は図に当たった。エル・クレールは
「そんなに酷い顔をしていますか?」
小さく拗ねて、唇を尖らせた。