いにしえの【世界】 99
ブライトは答えなかった。顔を背けたまま、無言で立ち上がった。
広い歩幅で、部屋の窓から一番離れた角に向かった。エル・クレールの僅かばかりの手荷物が、整然と並べ置かれている。
小さな背負い鞄、くたびれた革長靴、真っ二つに折れた細身の剣。
「あの小僧、大した馬鹿力だ」
鞘ごと両断された模造刀の鋭利な断面を眺め、ブライトは呆れたように言う。
火山の熱波に飲み込まれたエル・クレールの故郷で、燃えることのなかったローズウッドの細工物だった。木であるにもかかわらず水に沈むほどの重さがある。並の剣士がなまくら刀で打ち込めば、刃こぼれだけではでは済まないほどのダメージで「返り討ち」にされてしまう。
「イーヴァン君は【月】の……真鬼の影響を受けていました。普通であれば出せない、体が壊れてしまうほどの力を出してしまった」
その反動で少年はいま昏睡状態にあるという。見舞いに行ったマダム・ルイゾンが医者に聞いたところによると、全身の筋肉が肉離れのようになってい、骨も所々ヒビが入り、肋骨あたりは潰れたように折れているのだという。体のあらゆる個所で皮下出血がおきているため、顔と言わず四肢といわず赤紫に腫れ上がっている。
当然起き上がることなどできない。薬を与えられてどうにか眠ってはいるが、時折うなされ、うわごとに女の名を呼んでいるそうだ。
「『道具』に振り回されるってのは、全くおっかねぇ話だ」
ブライトは呟くように言った。柄のある方の半身を手にしている。折れた木刀を短剣を扱うように振った。
風が切れた。エル・クレールの耳に空気の悲鳴が聞こえた。
「私も、彼と同様です」
エル・クレールは左の手の甲を暗い目で見つめた。紅差し指の付け根が疼く。
「なら、俺も同類だ」
ブライトの重い声に顔を上げたエル・クレールの眼前に、尖った硬い木の棒の先端があった。
切っ先に血曇りが薄く広がっていた。イーヴァンの血潮だ。当然、刀身は拭われている。それでもエル・クレールは折れた模造刀の先端から、血の臭いを嗅ぎ取った。命の臭気を感じた。
ブライトを振り仰いだエル・クレールの顔は、青ざめていた。
「お前さんの言うとおりだ。認めたかぁねぇが、俺達はそのちっこいのに翻弄されている」
ブライトは木刀の先をエル・クレールの左手薬指に向けた。
「そいつは相当に強い魂の欠片らしい。どうやら【月】のバァさんもどうやらそいつに引き寄せられて来たようだ」
「そうなのですか?」
「座長とかいうのが、バァさんに言われて奈落の底にそいつを探しに行ったそうだ。もっとも、座長自身はそいつの正体を知らないままにバァさんの前で口を滑らしたらしい」
「これが何であるのかを知らずに?」
エル・クレールは左の掌を窓辺の光にかざした。陰となった手の甲で、赤い一筋の痣が鈍く暗く輝いている。
「末生り瓢箪から『貰ってきた』モノがある、程度のことを、何の気ナシにぽろりとな。それだけのことから、【月】がそいつを何だと推察したのかまでは、もう知りようもないが」
ブライトの脳裏に、階下の机の上に放り出したままの「双龍のタリスマン」が浮かんだ。
その「裏面」には刻まれた文字とも文様とも付かぬ彫刻の中に、小さく赤い石がいくつか填められている。【月】もそこにいる。
かつて人の形をしていた存在が、無念の高まりにより自らを握り拳ほどの結晶に凝縮させた物質【アーム】。タリスマンはそれをさらに小さな枠の中に押し込めるために存在する。タリスマンに施された豪奢で細かな彫刻は、ギュネイ帝室の紋章も含めて、命の結晶を封印するための呪詛に他ならない。
同じ【月】という言葉が、エル・クレールの脳裏には別のイメージを思い浮かばせている。
痩せた、若い女性だ。親から男の名を与えられ、親に男の装いを強いられ、親により男として生きる決心をさせられた、ヨハネス=グラーヴという女性が、怒気を含んだ悲しげな眼差しをおのれに向けている。
若いヨハネスの背後に、また別の人影があるように思えた。
容姿は判然としない。男のようでもあり、女のようでもある。顔貌も解らない。ただ碧色の瞳だけが、やはり、怒気を含んだ哀しげな光を放っている。
真っ黒な闇の中で揺れる眼光は、別の心像をも想起させた。それは一つの言葉だった。
『私の【世界】』
エル・クレールの頭の中で、男の声がこの言葉を繰り返す。何を意味するのか解らなかった。
『この【アーム】の、銘?』
導き出した一つの回答例を、彼女自身の感覚が否定した。
彼女が普段【アーム】の正体を見抜くときに見える景色と、今自身の脳裏で繰り返される心像は、どこか異なる気がする。歴然とした違いではなかった。ただ、どこかが、何かが違うのだ。
心の耳をそばだてて、「声」を聞いた。
『私の【世界】』
――呼びかけている。
この命の欠片は自身の正体を明かしているのではない。誰かの名を呼んでいるのだ。誰かを捜しているのだ。
『私の【世界】』
この「声」を、知っている。
夢現にその声で呼ばれた気がする。
夢幻にこの声を聞いた気がする。
尖った爪と、尖った角と、尖った視線を伴って、胸を締め付ける声音だ。
低く、落ち着いた、男の声。
エル・クレールは気付いた。
夢で聞いた声ではない。
幻に聞いた声ではない。
現実に聞いたことがある。
この声は耳に馴染んでいる。
エル・クレールは日にかざしていた左手を、指を開いたまま移動させた。彼女に向けて突き出されている折れた剣の切っ先に、紅差し指の付け根をあてがう。
剣を持つ男が、言う。
「兎も角……そいつのおかげで、俺もお前さんも狂わされちまっている」
聞き馴染んだ声に、エル・クレール=ノアールの鼓膜が振るわされた。
青白い顔を上げて、声の主を見た。
ブライト=ソードマンはローズウッドの短い棒の先端に目を落としている。
その顔は相変わらず硬く冷たく凍り付いていた。笑みも怒気も沈鬱も安慮も、大凡表情の類は一切見えない。
『この人は、こんな顔立ちだっただろうか?』
ふ、とエル・クレールは心細さを感じた。
窺うように彼の顔を覗き込んだ。
瞳が赤く光っていた。
背筋に冷たいものが走った。
エル・クレールの心臓が、一瞬、停止した。
自身の白い指の付け根に残された細い一筋の刻印が、彼の瞳の中に映り込んでいるのだと気付くまで、そして得体の知れない不安に塗れた安堵が心臓に力を与えるまで、瞬き一つの時間も掛からなかった。
頬の肉が強張り引き攣れていると感じながら、エル・クレールはようやく一言、
「本当に……」
吐き出した。
「テメェの浅慮が悪ぃってのは確かだが、幾許かはそいつの所為だってことにしてくれれるンなら、いくらか気が楽になる……。情けねぇハナシだ」
ブライトの頬がゆるむのが見えた。エル・クレールの心臓を取り巻いていた不安が、僅かに晴れた。
「そういうことにしていただければ、私も自分の不甲斐なさが幾分気にならなくなります」
強張った笑顔のまま、エル・クレールが言うと、ブライトは顔を上げ、笑みを大きくした。
どこかはにかんだところのあるその笑顔は、エル・クレールの不安を晴らすのに充分な力を持っていた。
ブライトが利き手に握っていた模造刀を左の手に持ち直したことに、他意を感じ取れなかったのはそのためだった。
単に、仕舞うつもりなのだろう、程度の認識しかなかった。彼らしく、乱暴でいて無駄のない所作で、部屋の隅に放り捨てるような格好で始末しようとしているとしか思えなかった。
鋭利に切り落とされた木切れの切っ先が、彼の手によって彼自身の右腕に突き立てられるとは、毫も考えつかなかった。