柔らかい腐葉土に、人間を上から押しつけたような形の『穴』が開いている。
その中に、身体の前半分を地面にめり込ませた人間が、ぴったり填っていた。
―1―
「峠を越えたあたりで、不味い弁当を喰うような案配か」
「あの宿の食事と女将さんが持たせてくださったお弁当の品質が同様ならば、それほど酷いものではないと思うのですが?」
「かわいそうに。お前さんは舌もバカらしい」
「ずいぶんな仰りようですね……。だいたい舌『も』とはどういう意味ですか? 何か別に恐ろしく愚かな部分があるとでも?」
「その恐ろしく愚かな部分に気づかないところが、『も』ってことさ」
その朝早くに、エル=クレール・ノアールととブライト・ソードマンは、パンパ山を登り始めた。
山道はほとんどが落葉松の葉に埋もれていた。針葉樹の油っぽい落ち葉は急峻な坂をより滑りやすい物にしている。
山裾の宿場町から山を迂回して進む新道ではなく、山に分け入って峠を越える旧道を選んだことにさしたる深い理由はなかった。
強いて云えば、こちらの方が幾分か人通りが少ないであろう――その程度のことだった。
だが「その程度のこと」が、エル=クレール・ノアールと名乗る若い貴族とっては、ほんの少しばかりの意味のあることだった。
色素の薄い亜麻屑色の下げ髪がふわりと揺れる。僅かに目尻の下がった眼窩の中には翠の瞳がはめ込まれていた。丸い頬は日に焼けているが、首元あたりの肌は白い。
その体躯は、男子として見れば「小柄」とまでは云い切れぬが、かと云って「大柄」とは全く云い難かった。手足も首も体の線も全体に細く、華奢な印象を受ける。
ただし、まとっている古びた上着や膝丈の半袴と膝まである長靴に包み隠されているその身が「亡国の皇女」であるという出自を知れば、彼女が決して小柄ではなく、むしろ同年代の娘達と比べればかなりの長身だと云うことが判る。
身元を隠さねばならない事情を持っている男装した姫は、できうる限り人目を避けたいのだ。
ブライト・ソードマンと称する巨躯の男にも、彼からすればそこそこ重要な思惑があった。
針金のごとく硬い髪は無造作に切られており、整えようのない有様だった。その乱髪頭一つ分はエル=クレールよりも背が高い。
肩幅も胸板も、胴着に詰め物を入れて上げ底した貴族でも及ばなない広さであり厚みである。
太い脚を包む長袴袴と、大きな脚を覆う踝丈の革靴は貧しい人夫の装束だが、それにしてはこの男の体は筋肉質に過ぎる。
肉の付き方はを見れば、誰でも彼を兵隊崩れか剣客崩れに違いないと言い切るだろう。そして主持ちでないことも断言できる。
今、エル=クレールという貴族の子弟(を装っている貴族の子女)の傍に立っていることで、ようやく彼は、この上品な若者の護衛として雇ってもらえる程度には氏素性の悪くない人物、といった案配に見えている。さもなくば破落戸と思われても仕方がない。
なにしろ顔つきが悪い。目鼻立ちは、どちらかというと整っていいる部類だった。しかし、頭髪の乱れは先に述べたとおりだし、顎は無精ひげにまみれている。口元はにやけた風であり、目つきは逆に鋭すぎる。
その上、態度が悪い。言葉遣いが悪い。
主人らしいエル=クレールに対しての口ぶりが、辻立ちの下級娼婦に対するそれとがほとんど同じだった。何気なく尻を触りに行くあたりも区別がない。
実際のところ、ブライトはエル=クレール、あるいはその親族の類に雇われている訳ではない。
ただ付いて歩いているだけだった。あるいは彼の後を彼女が付いて歩いているだけであるとも云える。
つかず離れず、それでも常に彼女の傍にある。
彼女に張り付いて、彼女が「世が世なら皇帝冠を頂き玉座の上に座しているほど高貴な、そしてこの世に存在しないはずの姫である」という秘密が、暴かれることを防いでいる。
その秘密を自分の胸の内にだけしまい、急峻な山道で男装の下の白い肌にうっすらと浮かぶ汗を妄想し、苦しみ喘ぐ吐息の甘美さを独り占めにしているという歪んだ優越感を抱いて、鼻の下を伸ばしている。
さて――。
まず当てが外れたのはブライト・ソードマンの方だった。
道は確かに急峻だった。だがエル=クレールの――そしてブライト自身の――健脚の前には、平地よりは幾分難儀なだけ、という程度であった。
エル=クレールは額に汗をすることも、息を喘がせることもない。
『そういやぁこいつの故郷は、ここよりも酷い大釜山地の底だった』
箱入りに育てられてしかるべき幼い姫君は、しかし箱を突き破って故郷の山中を飛び回る御転婆であったのだ。
ブライトは舌打ちをした。
空は青い。胃袋が唸った。
「この際、味に文句はつけられん。早いとこ胃に物をぶち込まにゃ、脚に力が入らねぇ」
「ご自分で峠を超えたあたりでと仰ったじゃありませんか」
エル=クレールは苦笑した。
彼女も自分の考えがいささか甘かった事に気付いていた。
落ち葉に埋もれた坂道は、彼女の想像していた「人も通わぬ悪路」ではなかった。最近も人の往来があったらしく、僅かに落ち葉を踏み分けた形跡が見て取れる。
今この瞬間も、山中に人気がある。
エル=クレールは小さく息を漏らした。
左右前後の木々の間、茂みの中から、複数の「殺気じみた気配」が立ち上っているのを感じる。
「どうやら、山犬の類ではないようです」
二歩ほど先で、なぜか残念そうに肩を落として歩くブライトの背に向けて、かすかな声を投げた。
彼は振り返ることも、立ち止まることも、辺りを見回すこともしない。歩調を乱すことなく、
「そいつが鬼だの化け物だのなんてことは言わねぇだろうな?」
小さく言った言葉の端に、そういった物共の登場への期待が感じられる。
「残念ですが、そういう気配でもありません」
力無く落ちていたブライトの肩が、ふっと持ち上がった。
「人間なら、ちゃぁんと手加減してやらねぇとなぁ」
エル=クレールには彼が「笑っている」のが判った。唇の端から牙のような八重歯をこぼした、楽しげで悪そうな微笑が目に浮かぶ。
だから足を止めた。
ブライトも立ち止まった。
上体をかるく捻る。
途端。
右手の山肌の側から金属の光と人の形をした影が落ちてきた。
幅広ではあるがさほど長くはない剣が、ブライトがいた場所の空間を斬った。
頬当付きの兜を被った男は慌てて襲撃対象を探そうと顔を上げた。その横っ面に、体幹の捻りという加速を得た、石塊のような裏拳がめり込んだ。
兜男の手から片手持ちの喧嘩段平が離れて、宙を舞う。
男の身体は三間ばかりも後ろに吹き飛ばされ、立木に背から叩き付けられた。
彼の剣は積もった落ち葉の中に落ち、彼の意識は深い闇の中に落ちた。
ブライトは山頂側へ半歩ばかり踏み出し、身を沈めた。
左の崖側の茂みから飛び出してきた輩はからすれば、突然姿が見えなくなったようなものだったのだろう。
立派な胴鎧を着込んだその男はバランスを崩した。自身が大上段から振り下ろした、恐ろしく長大で目方のある両手持長剣の、行き場を失った破壊力に引きずられている。剣は地面に深々とめり込み、男はそれに引き倒され、大地に伏した。
ブライトの古びた靴が、見事な彫金の施された胴鎧の背中を踏みつける。
咳払いのような音を口から吐き出し、胴鎧の男は動かなくなった。
山裾へ振り向いたブライトの左手には、最初に殴り倒した兜男が放った喧嘩段平が拾い上げられていた。
彼の頬には微笑があった。エル=クレールは彼の脇をするりと抜け、背後に回り込んだ。
彼らにしてみれば、そうするのが当たり前のことだった。合図の言葉も、目配せも必要がない。水が高いところから低いところへ流れ落ちるのと同様に、あるべき場所へ身体が動く。
結果、エル=クレールの背中をめがけて左右から突き出された二本の刺突剣は、目標物を失うこととなった。
突撃兵は急には止まれない。
あわてる二人の男の眼前でブライトが段平を一閃した。
側面から殴られた二本の細い鋼は、美しい金属音を上げて折れ飛んだ。
澄んだ高い音が木霊した。枝間の鳥共が激しい羽音と悲鳴じみた鳴き声を立てて飛び立った。
二人の男達の手の中には豪華な透かし彫りの護拳が付いた柄だけが残された。
刺突に特化した剣は正面からの力には強いが、側面を叩かれると存外もろいことは、剣術をよくする者達には既知の事実であった。
とは云っても、側面から打撃さえすれば誰でも剣を折れる訳ではない。突き込まれた剣の横腹を正確に殴りつける等という芸当が容易にできる者は、そうは居るまい。
彼らは焦点が合わない目を、巨躯の男の覆い被さるような影の中で泳がせていた。
突撃兵達は気付いた。自分たちが斬りかかったのは、到底叶わない相手であったのだ。
彼らの腰は身体を支えることを放棄した。
二つの尻が地面へと真っ直ぐに落ちた。
ブライトは段平を肩に負うように構え、尻餅コンビを見下ろした。
「さて、ちょいと訊かせてもらおうかね」
彼の足の下と後方の木の下で寝ている男達は、問うたところで答えてはくれまい。この腰抜け二人より他に、話を聞ける相手はない。
「お見受けするに、皆様方は俺なぞよりもずっとご立派なお召し物を着ておらる。お刀もたいそうご立派だ。太刀筋もいずれ良い師について納めたと一目でわかるご立派なものだ。そんなすこぶるご立派な方々が、こんな無体な真似をする狙いは何だね?」
態とらしく、嫌みたらしく、幾度も「ご立派な」と繰り返してはいるが、口調そのものはすこぶる丁寧であり、顔つきはあくまでにこやかだった。
その優しげな声音が、人好きのする笑顔が、細められた瞼の奥で光る金に近い色をした瞳が、口元から覗く白く尖った歯が、恐ろしい。
彼の穏やかな声は続ける。
「方々、よもや俺様の薄汚い背嚢や、あるいはウチの可愛い姫若様の隠しを狙ったこそ泥では……あるまいや?」
答えようによっては、この大男は躊躇なく段平を振り下ろすに違いない。
吸い込んだ息を吐き出せないほどの恐怖が、彼らの肝を握りつぶした。
尻餅コンビは、二人同時に、仲良く仰向けに倒れた。口元からは白い泡が、股座からは黄色い液体が零れている。
「全く、これだから強いつもりの人間はつまらん。運動不足も疑問も、どっちも解消させてくれねぇときてやがる」
ブライトは段平を大地に深々と突き立てた。
こういったときに妙に勘の働くエル=クレールには、戦意を喪失したらしい数人分の気配と、逆に殺気を強めた様子の複数人の気配とが感じられた。
「まだいくらか残っているようですが?」
「全部俺に片づけろ、と? お前さんも人使いが荒いな」
ブライトは大げさに肩をすくめてみせると、胴鎧の男の背から足を外した。
足を広げて立つ。腰に手を置く。胸を張る。大きく辺りを見回す。
勿体をつけた大振りな所作は、どこか芝居じみている。
ブライトも勘働きが悪いわけではない。茂みに隠伏する者の数を推察するに、
『片手に剰る程度か……』
彼らが寝転がっている四名と同程度の力量であるならば、物の数には入らない。
「ご用が有れば承りますがね」
大きくはないが、よく通る声だった。
茂みの中から、若く逞しい男達が尻を鞭で打たれたように跳ね上がった。六名ほどいる。
再び隠れたところでどうにも成らぬことは理解しているらしい。跳ねた勢いのままに山道へ飛び出してきたが、剣を抜く者は一人としていなかった。
それどころか、二人の風変わりな旅行者に目を向けようともしない。
「何も……何もありません」
ようやく絞り出した震え声で言うと、彼らは倒れている連中の元へ駆け寄った。気を失っている連中の手足を引っ張り、身体を引きずり、あるいは背負うと、連中は転がるように坂道を逃げ下って行ってしまった。
残されたのは、片手持ちの剣と恐ろしく長い両手剣が一降ずつ、折れた軍用剣二振、失禁の痕四つ、そして、突然理由もわからずに見ず知らずの剣術使い風に襲われた二人連れの旅人だけであった。
いや、厳密に言うと、
『あと二、三人……いる』
エル=クレールは小さく息を吐いて、視線を下り道側に向けた。気配は逆の方向、つまり山頂へ進む道の側からする。
わざと隙を見せている形なのだが、隠れている気配の主が動く様子は見受けられない。
「放っておくさ」
ブライトは小さく言った。目下、彼の興味は地面にめり込んだ鉄塊にあるようだ。
もとより両手持長剣と呼ばれるその武器は、刀身だけで並の人間の背丈以上の長さがある。
襲撃者が残していった物は、肘一つ分の長さの柄と、同じ長さのの茎とを加えれば、大柄なブライトの身長を優に超えるほどの長大さであった。
当然重量も並はずれている。膂力自慢のブライトが、めり込むように突き刺さったそれを引き抜くのに両手を用いる用心をしている。あるいは二十斤近くあるかも知れない。
本来は正規の軍が戦場で屈強な歩兵団に装備させる代物である。
長さで遠心力を加え、重さで叩き斬る。遠距離から突き通し、力任せに押し斬る。
そうやって敵の先陣を槍衾ごと壊滅させるのがこの剣の役目であった。彼らが陣形も作戦も関係なく敵陣を崩壊させて作った進路に、後続の騎兵隊が突入するのだ。
これを一対一の戦いで用いることなどないと言って良い。
もしこれを一対一の決闘などで用いたとして、恐るべき破壊力を持つ初太刀が万一よけられたならどうなるだろうか。
結果は先ほどの襲撃者の失態を見ればわかる。
「隙」であるとか「間」であるとかいう言葉では言い表せないほどの無防備な時間が発生する。次の攻撃に転ずる余裕どころか、敵の攻撃を防ぐ手段すらない。
自ら好んで危殆に瀕するような真似をするような者は、よほどの自信家か、よほどの莫迦者だけだ。
それに、そもそもこれは「歩兵」のための兵器だ。すなわち兵器である。民間人が個人所有できるはずがない。
喧嘩段平にしても同様の事が云える。
この物騒な名前の武器も、鍔から柄から鞘から、時として刀身までも美しく飾り立てられるのが常であった。武器であるのと同時に、所属と身分を示す一種の身分証でもあるからだ。
神殿聖騎士団の装備品なのである。
従ってこれも個人が所有することはない。
確かに刺突剣は宮仕えの持ち物とは限らない。
この両刃の剣は、血気盛んな貴族の子弟ばかりか、小金を持った商人から銭を持たない破落戸までが「護身用」として腰からぶら下げている。細身で軽く、他の長剣に比べれば扱いやすいからだ。
刺突剣の特徴は、鍔と柄とが一体となった護拳にある。
護拳は所有者の立場によって装飾が施される。逆を云えば、護拳の造りを見れば所有者がどのような身分の人間であるかが解るのだ。
件の二振りの護拳は、複雑な曲線を組み合わせた籠のような形をしていた。
繊細で優美で豪奢な意匠をよく見れば、それが絡み合う二匹の蛇を描いているものであると知れる。
ギュネイ帝国官軍の騎兵部隊の装備品である。
襲撃者共は山賊でも破落戸でもない。むしろそういった輩を取り締まるべき役目を負っている筈の連中であった。
「官軍を敵に回すようなことをした覚えはありません。少なくとも、私は……ですが」
エル=クレールは少々意地悪く言った。
ブライトは巨大な剣を掲げ上げ、光にかざし、その刃紋を眺めていたが、視線をわずかにエル=クレールの少々悪戯な顔に送り、
「俺も表立って盾突いたこたぁねぇよ。ただ根が正直だからな。『嫌いだ』とか『虫唾が走る』とか……口が滑ったとしても『帝位泥棒』か『変態糞野郎』とか、まあその程度のことを言うかも知れんがね」
にたりと笑った。
「その程度ですと、私には大変に危険な発言に聞こえます」
エル=クレールが苦笑を返すと、ブライトは口元に微笑を残しつつ、眼にわずかに険しい色を浮かべた。
「だからって、さすがにいきなりぶった斬ろうなんざ、まず真っ当なニンゲンならやらんな。万一こっちに切り捨て御免の非があったとしても、徒手空拳の相手に延べ十人で掛かった挙げ句に仕留め損ね、終いにゃぁ騎士の剣をほっぽり出して尻尾を巻いて逃げるなンざ、武人の風上にも置けねぇ。破落戸にも悖るってもんだ」
軽口じみた口調であったが、わずかに憤りの色がある。
理不尽に攻撃されたことに対する瞋恚なのか、あるいは、騎士道精神に悖る彼らの行動に対する義憤なのか。
エル=クレールには後者のように思われた。
彼女は同意を微笑と頷きで表した。
途端、ブライトの眼光から険しさが消えた。
「つまり、だ。俺様が足蹴にしたのは身なりだけ立派な羽織ゴロ。そいつらを追い払ったところで、誰に文句を言われる筋合いがあるかってぇハナシさね。即ち、こいつを迷惑料代わりに頂戴しても何の問題もない」
彼は両手持長剣を肩に担ぎ上げた。背丈を超える長さの鉄塊である。剣先が天を刺した。
「論理が飛躍しています」
エル=クレールの声には呆れと諦めが混じり合っている。
ブライトは下り坂の彼方をちらりと見た。
「連中が捨てていった物をわざわざ片づけてやろうっていうんだ。この莫迦でかくてギラギラした、道ばたにあっちゃ危なくてしょうがない粗大塵を、だ」
ブライトは肩の上の両手持長剣を顎で指した。
「よくぞ掃除をてくれたと褒められこそすれ、咎められる道理がない」
実に真面目な顔で言う。
エル=クレールはできる限り表情を変えぬようにつとめていたが、結局笑みを押さえ込むことができなかった。
「素直に『欲しいから貰う』とおっしゃれば良いのに」
ブライトは我が侭を咎められた子供のように下唇を突き出した。
「違うな。『まだ使えそうでもったいないから貰ってやる』だ。お前さんはそっちで我慢しろ」
顎先が地面に突き立てられている喧嘩段平を指し示す。
「その辺を探れば鞘が落ちている筈だ。気づいたか? あの莫迦野郎、腰に鞘がなかった。抜き身で持ち歩いてたンじゃなければ、ヒトを斬ろうって直前にそのあたりに鞘を投げ捨てやがったんだろう」
正直なところ、エル=クレールは彼の者が鞘を佩いていなかったことに気づいていなかった。
騎士は剣を佩用する……つまり腰に下げる……ものだ。刀身を抜き払えば鞘は腰に残るに決まっている――というのが彼女の認識だった。その思いこみじみた認識のために、いきなり飛びかかってきた人物を細かく観察する事をしなかった。
これは失態だった。故に気づかなかったと正直なままに口にすることは憚られた。ブライト・ソードマンに「不注意」であると指摘され、「修行不足」と小バカにされるのがイヤだった。
話を別の方向に逸らしたい。
「私は幅広の剣は不得手です」
エル=クレールの腰には細身の剣が下がっている。わずかに湾曲した外見から軍刀と見受けられる。
「得手不得手はこの際問題じゃねぇよ。偶にゃあ本身を差しとかないと、腰が鋼の重さを忘れちまうっていうのさ」
ブライトは左手で自分が下げている長短一振りずつの双剣の柄頭を叩くようにして指し示した。
鞘の中で樫材がぶつかる音がする。
模造刀だ。
それと同じ材がエル=クレールが佩いている細身の鞘の中にも収まっている。
「できるなら、そんな重さはすっかり忘れてしまいたいくらいなのですけれども……」
エル=クレールは眉の間に浅いしわを刻むと、一人目の襲撃者が飛び出した茂みのあたりを探った。
背中の側で、金属音がする。
ブライトが自ら叩き折った二振りの刺突剣の残骸を、谷底へ蹴り落としていた。
◆◇◆◇
ピエトロ青年は道化のような衣装に道化のような鍔広帽を被り、道化のような覆面を付けさせられていた。
上衣は胸元が大きく開いている。胸板はほとんど隠されていない。
南瓜のようなシルエットの半袴は、前時代的であるうえに酷く丈が短い。長靴下も半袴の裾との間に太股の一部が露出するほどに短い。
顔の上半分は大きな羽根飾りの付いた仮面で、下半分は絹地の覆面で覆われている。
奇妙であり奇怪であり、破廉恥だった。
そんな格好の人物が、もう一人いた。
「どう? やっぱりあのいい男二人の方が強かったでしょ?」
アンリエッタは声を押し殺した。大きな乳房が上衣の胸元からこぼれそうになっている。
「ええ。しかし想像以上ですよ。あれほどまでとは思いませんでした」
同様に押さえた声で答えながら、ピエトロはせわしなさげに辺りを見回した。誰か探しているものらしい。アンリエッタにはその尋ね人がすぐに解った。
リボンで飾り立てられた鍔広帽と、燃えるような赤毛がわずかに動いた。爪紅で美しく染められた指で頭上を指さす。
太い横枝が、山道の上に差し渡すように張り出し、一人の人間の重みにようやく耐えていた。木の葉が無風の中で喘ぐように揺れてている。
小柄な人物であった。やはり派手派手しい衣装を着ている。樹下のピエトロのそれは黄色を基調としてい、アンリエッタは濃い紅、樹上の人物のそれは鮮やかな桃色だった。
鍔広帽子も濃い桃色で、その鍔の中に収まりきれない苺金色の巻き毛が、ふわふわ、ゆらゆらと揺れていた。
「ちょっと! あの人たちはまだ来ないのっ?」
樹上の人物が甲高く大きな声で騒ぎ立てた。アンリエッタがあわてて唇に指を当てた。
「姫様、シーです。シー!」
「なんで!?」
姫様と呼ばれた人物の音量は下がらない。こんどはピエトロが両手を下に向けて、物を押さえ込むような仕草をしてみせる。
「不意打ち、という作戦ですよ。相手に気取られては困りますから、どうかお静かに」
「不意打ちなんてしなくても、この美少女剣士ろぜったちゃんが勝つにきまっているのに!」
語気を強めながら、それでも音量を抑えた声だった。姫様はすねて唇を尖らせた。
樹下の二人は頭を抱え込んだ。
この姫君が誰を不意打ちにするのか。誰に勝とうというのか。
今まさに峠を目指してパンパ山を登り来る、華奢な少年と大柄な中年である。つい先ほど、十人掛かりの襲撃者を――実際に斬りかかったのはその内の四名だったが――たやすく追い払った二人連れの旅人である。
朝早く、麓の旅籠屋付属の酒場でこの二人連れを見かけたときから、姫様は彼らと戦って倒すことを考えていた。
そのために、山賤が通うあまり知られていない山道を先回りして、峠を越えてすぐのこの木の上下に潜んでいるのだ。
近郷の天領に駐留している軍属の血の気の多い連中が、姫様と同様に彼らを打ち倒そうと考えているらしいと……そしておそらく無理であろうと……気づいたのはアンリエッタだった。
ピエトロも同意見だったが、姫様は納得しない。
「あのデカいおじさんはともかく、かわいい男の子の方は、ぜったい弱弱よ。だってピエトロちゃんよりもヒョロヒョロしているじゃないの。楽勝よぉ」
姫様はにんまりと笑う。
確かにピエトロ青年は小柄だが筋肉質であった。大きく開かれた襟元から見える胸筋や、南瓜袴から突き出た脚の筋肉は、逞しく太い。
もっとも、それくらいの肉体を持っておらねば、姫様の剣術指南役など務められようか。……たとえ脅肩諂笑たぐいの道場剣法であっても。
「あたしがあの子をあっさり倒すでしょ。傷を負って、白い肌に血が滴るでしょ。で、あたしはいうのよ。
『坊や、上には上がいると云うことを知りなさい』
で、手当をしてあげるのよ。そうするときっと、あの子あたしの手を取って言うわ。『強くてお優しい方。どうか僕をお婿さんにしてください』
って。うっとりと笑ってあたしを見つめるのよ」
にやけた唇の端からよだれがあふれそうになっているのを、姫様は危うくすすり上げた。
「いやぁん、すてきぃ。あたし困っちゃうぅ」
不安定な木の枝の上であると理解した上か、あるいはすっかり忘れ惚けているのか、姫様は自分の体を抱きしめて身もだえした。
アンリエッタは軽蔑と哀れみの混じった眼差しを、あからさまに姫様に向けた。
「剣を佩いている身で自分を倒した女性の婿になりたがる男子は滅多にいないだろうし、自分の血を見て卒倒するような姫様が怪我人の手当なんかできるわけがないし、そもそも姫様程度の腕前じゃたとえ奇襲を掛けたとしてもあの少年に勝てるとは思えないし、色々つっこみたいんだけど、まあこの際は置くとして」
「はぁ、置いちゃいますか」
ピエトロは覆面の下で苦笑いした。
「もうここまできちゃったら姫様にあきらめて貰うという選択肢は無いだもの。わたしたちだけでどうにかせざるを得ないのよ」
「姫様をあの者達に叩きのめして頂く、というのはダメですか? それこそあの少年に、
『お嬢さん、上には上がいると云うことを知りなさい』
とでも言ってもらえれば、さすがの姫様も性根を入れ替えるかもしれないと……」
「あんた、本心そう思ってるんなら、なんで今までわざとらしく勝ちを譲るような稽古の付け方をしてたのかしら。姫様を『お強い、お強い』をと持ち上げて、ナルシシストにするようなことを!」
アンリエッタは自分の語気が強まっていることに気づき、あわてて声音を弱めた。
「だいたい、こっちの事情なんか知るはずもない通りすがりの旅人が、姫様を殺さない程度に叩きのめしてくれるような、そんな都合の良いことが起きるとでも? 手加減してくれるような相手だったわけ?」
音量を押さえながらもまくし立てるアンリエッタに、ピエトロは小さく首を振って見せた。
「理由もなく手加減はしてくれないでしょうね。特に大柄な男の方……」
「無骨な感じの、逞しくていい男の方ね」
「なるほどああいう感じがお好みですか……それはともかく。彼は自分の差両を抜くこともなく兵隊達を文字通り叩きのめしてしまった。おかげで少年の方の力量は見極め切れませんでしたよ。身のこなしからして、あちらも相当できると思うんですが」
「ウチの姫様と違って?」
「ええ、ウチの姫様と違って」
二人は頭上を見た。
太い横枝が大きくゆさゆさと揺れていた。
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