銭王ドゥニエ・デ・ロワ


 エル=クレール・ノアールは停止した。
 立ったまま気を失ったと云っても良い。
 旧街道を上り詰め、今まさに下りだそうというその場所で、彼女の脚は一歩も動かなくなっている。
 眼下には小規模だが美しい大釜山地が広がっていた。
 外輪山が円を描いて丸い盆地を取り囲む。中心に小規模な大釜湖カルデラこがあり、その真ん中に小さな島が浮かぶ。湖から放射線状に道筋が十二本、外輪山の山裾に向けてまっすぐに伸びる。湖はハブさながらであり、道はスポークのようであった。
 道筋には町や村が点在し、その先にはそれぞれに古めかしい建物が建っていた。
 建物のない平地はほとんどが耕作地となっている様子で、植物の葉や花や実が様々な色を発している。
 町々、村々の家屋の煙突からは盛んに煙が上がっていた。それは人々が住まい、生きている証である。
 山に杣人がおり、湖水に漁師がおり、田畑に農民がおり、町に工人がおり、街道に商人がおり、屋敷に貴人がおり、神殿に聖人がいる。
 大釜山地カルデラの底に、生きた人間達がうごめき、ざわめいている。
 エル=クレール・ノアールはこの景色を見たことがある。厳密に言うと、これに相似して倍ほども大きい大釜山地カルデラをよく見知っている。
 その土地は今眼下に広がる風景の、幾倍も美しく光り輝いて、彼女の心の奥底に焼け付いている。
 エル=クレール・ノアールは……いや、クレール・ハーンは、前のめりに倒れかけた。ブライト・ソードマンが襟頸を掴んで引き上げなければ、下り坂を麓まで一息に転げ落ちていただろう。
 拾われた猫のように持ち上げられている彼女の、蒼白となった額には脂汗がにじみ、暗い紫を唇は小刻みに振るえていた。
 ブライトもこれとよく似た景色を見たことがあった。
 ただし彼が実際に目にしたのは、色のない世界だった。
 焦げ臭く、土臭く、硫黄臭い空気が充満し、この世のあらゆる物の残骸をざらついた火山灰が覆い尽くす、精気の無い場所だった。
 彼の土地の名はミッド。
先の皇帝にして、その地位を臣下に禅譲した大公ジオ=エル・ハーンが捨て扶持として与えられた土地。
 ジオ=エルと若い後妻ヒルデガルトとの間に公女クレールが誕生し、十三歳まで暮らした場所。
 数年前に灰の下に埋もれ去り、永遠に失われてしまった、彼女の故郷。
 実のところ、ブライトはパンパ山とその大釜カルデラの底の盆地パンパリアについて、わずかながら予備知識を持っていた。もっとも、それを得たのは昨夜の事ではあったが。
 麓の宿屋の亭主から、外輪山を縦走する古い登山道は特に人気が少ないことと、パンパリア盆地は存外人口が多いこと、そのために盆地の中抜ける旧街道は人通りが多いのだが、
「でもねぇ旦那。もし本当に人目を避けたいって仰るならね、木の葉を隠すなら森の中、人を隠すなら人混みの中、てぇヤリカタもあると思うんですよ。なにしろあすこは今、祭りの盛りですからね」
 という、如何にもな言葉を引き出すのにエール三杯分の無駄金を使ってしまっている。
 パンパ山がその胎内に丸い盆地を有する古い火山である事は、亭主の口の端に掛かっていたのだ。
 それをエル=クレールに内密にしたつもりはない。言う必要を感じなかっただけだ。
 その判断は、間違っていたようだ。
『地形だけじゃなく、街の造りに至るまで、これほど相似形だとは思わなかった。こんな物を急に見せつけられたら、俺がこいつの立場でも失神する』
 ブライトは心中で舌打ちをした。
 エル=クレールがその白い顔をわずかに持ち上げて、眉間にしわを刻む彼を見上げ、微笑した。
「ちょっと意外だったので、驚いてしまって」
 本人は平素と変わらず明るく頬笑んだつもりであったが、ブライトの目には苦悶の表情としか映らない。
「そうか。俺も驚いた」
 吐き出すように言うと、彼はつまみ上げていたエル=クレールの襟髪をさらに後ろへ、勢いよく、高く引き上げた。

◆◇◆◇

 これほど不意打ちに適した好機があろうか。
 襲撃対象の少年は前後不覚となっている。抱え歩いていた喧嘩段平カッツバルゲルも、落とさぬようにするのが精一杯の様子だ。
 付添の大男の方はと言えば、右腕で半病人を支えている状態だ。左腕一つでは担いだ両手持長剣ツヴァイヘンダーを扱うことも、元々持っている佩剣を抜くこともできまい。拳を振るにも不自由だろう。
 剣術指南役のピエトロと護衛兼務女官のアンリエッタが二人がかりで大男に立ち向かえば、勝機はあるかもしれない。
 彼は二人を相手にするためにやむを得ず少年から手を離すだろう。少年はようやく立っているような状態であるから、
『へたれな姫様でも何とかなるかも知れない』
 ピエトロ青年とアンリエッタは茂みから飛び出した。
 そのとき、頭上で生木の折れる鈍い音がした。
 直後、緑の葉が付いたままの細い枝と、鮮烈で派手派手しい桃色の固まりとが、耳障りな騒音を上げながら大地に降り注いだ。
 つい先ほどまで少年……エル=クレールがふらつきながらも立っていたその場所に、土埃が舞い上がる。
 柔らかい腐葉土に、人間を上から押しつけたような形の『穴』が開いた。
 その中に、身体の前半分を地面にめり込ませた人間が、ぴったり填っている。
 提灯袖の上衣、南瓜のようなシルエットの半袴、中途に短い長靴下。
 まとう物すべてが濃い桃色をしている。
 リボンで飾り立てられた、これも桃色の鍔広帽が、本体よりやや遅れてふわりふわりと下降し、枝や枯れ葉が絡まり付ついてくしゃくしゃになったい苺金色ストロベリーブロンドの巻き毛を覆うように着地した。
 ピエトロはその帽子の上を飛び越えた。
 アンリエッタは南瓜袴を踏みつけて跳び、前へと踏み込む。
 柔らかい腐葉土に半ば埋まった姫様が、
「んぎゃ!」
 といったような悲鳴を上げたような気がしたが、二人はそのまま刺突剣レイピアを突き出した。
 ねらいは大男……ブライト・ソードマンの上半身だった。
 刺突剣レイピアの剣先は、巨大な鋼の板に突き当たって止まった。
 十斤の鉄塊がピエトロとアンリエッタの眼前に横たわるように浮いていた。ブライトの左腕がそれを支持している。
「今日は厄日か」
 彼は唸った。言った、というふうではない。獣のように唸っていた。
「俺は今、猛烈に機嫌が悪い。おかげで手加減の仕方を忘れている」
 両手持長剣ツヴァイヘンダーの切っ先が勢いよく跳ねあがった。ピエトロとアンリエッタの刺突剣レイピアははじき飛ばされた。
 二人は後方へ――うつぶせで倒れ込んでいる姫様を跨いで――跳んだ。両手持長剣ツヴァイヘンダーの攻撃範囲から逃れなければならない。
 ピエトロは着地すると、身を屈め、鞠のように後ろへと二転がりばかりした。
 アンリエッタは着地に失敗した。足首を捻ったようだ。立ち上がることができない。その場にしゃがみ込んだ。
 すぐにも巨大な剣が唸りを立てるだろう。二人は予感して身震いしたが、追撃は無かった。
 代わりに力無く優しげな声がした。
「先程来、私たちは人々から刃を向けられてばかりです。先ほどの方々も、あなた方も、盗賊の類ではない様子ですが……。私たちに何か落ち度があるとでもいうのでしょうか?」
 しまい込まれた操り人形のように、襟からつり下げられ、爪先立ちになっているエル=クレールが、悲しげに彼らを見つめている。
「いえ……あの……」
 ピエトロは言葉に詰まった。
「つまり……その……」
 アンリエッタは言葉に窮した。
 思い沈黙は、一瞬でかき消された。
「ちゃーんす!」
 人間の形の穴から桃色の人間が飛び出した。その桃色が片手半剣バタールドを大上段に振りかざし、エル=クレールに打ち掛かる。
「ナニが『チャンス』かー!!」
 たいそう勇壮な姫様の、足形のくっきり付いた尻に向かって叫んだアンリエッタは、頭に血が上りすぎて倒れるのではないかと感じた。初太刀を外されてしまった今、誰がどう考えても機は逸している。
 しかも姫様はあちこち膨らんで風を孕みやすい桃色の装束に、足下は高跟鞋ハイヒールという出で立ちである。加えてその装束の中身たるや、たいそうな小柄であった。
 仮面で顔を覆っているので面体から年齢を推し量ることができかねたが、エル=クレールは『子供ではないか』と疑った。
 それが子供の背丈ほどもある片手半剣バタールドを振り回そうと云うのは初手から無理な相談だ。
 振りかぶった剣の重さで、仰向けに引き倒された。
 転がった姫様は、起きあがろうともせず、
「えーい、ひきょうものー!」
 手足をばたつかせた。
 その場にいる者達全てが呆れ返っていた。
 しばらく皆黙り込んでいたが、ややあってようやくブライトが酷くいらついた声を上げた。
「おい、これは何だ?」
 両手持長剣ツヴァイヘンダーの切っ先がばたばたと駄々をこねるピンク装束の人間を差し、針のように細く鋭い視線が頭を抱え込んでいる赤い服の人間に刺さる。
 殺気が全身から吹き出ていた。
 エル=クレールが驚愕の眼差しを彼に向けた。彼が生きた人間、、、、、に対して殺気を向けるなどということは、彼女が知る限り今までほとんど無かった。
 しかしこの時ブライトは、返答次第によっては本心両手持長剣ツヴァイヘンダーで駄々っ子を突き通そうと考えていた。相手が子供であろうが何であろうが構わない。次第によってはこの気にくわない生き物を本気で殺すつもりでいる。
 殺意は十分にアンリエッタに伝わっていた。しかし殺意を向けられている当人はまるで気づいていない様子で、手足を振り、頭を振っている。
 アンリエッタは眉間のあたりに手を置いて、
「何と言われると……その、つまり……そう、一言で言えば『バカ』と言いましょうか」
 姫様の動きがぴたりと止まった。
「バカとはなにようっ!」
 起きあがろうにも眼前に鋭い剣先が見える。姫様は顎を天に突き上げるようにして、顔だけを背後に向けた。
「姫様が本当にバカだからバカと申しているんですよ! 掛け値なしの大バカです。ああ、こんなバカに仕えたセイでこんなところで死ぬなんて、こんなバカなことがあるものか!」
 アンリエッタは自分の顔を覆い隠していた仮面をむしり取って投げ捨てた。
 二十代前半の娘の顔が現れた。
「さあ、そのバカを殺してください。すっぱりとひと思いに。バカは死ななきゃ直らないと言いますけど、ここで死ねばバカの数が減る。バカが減れば、相対して利口が増える計算だ。この世のためにこんな良いことはない」
 ある種「意表を突く」答えだった。ブライトもエル=クレールも呆れ返っている。
「で? 俺がそのバカを斬ったら、あんたはどうするんだね?」
 ブライトは切っ先を「バカ」の喉元に突きつけている。
 アンリエッタの目が据わった。腰から差し添えの受け流し短剣マインゴーシュを引き抜く。
「主君の敵を討ちにかかります」
「死にますよ」
 こう言ったエル=クレールの声は、穏やかで、落ち着き払っていた。
「これでも騎士の端くれなんで」
 アンリエッタは脂汗をかきながら笑って見せた。
「くだらねぇな」
 両手持長剣ツヴァイヘンダーは相変わらずバカ姫様の喉元に突き付けられたままだ。アンリエッタは背骨に緊張感をたぎらせ、受け流し短剣マインゴーシュを構え続けた。
「貴公も、もしそちらの若君に何かあれば、命を賭すでしょうよ」
 ブライトがにやりと笑う。
「御免だね」
「ふぁっ!?」
 アンリエッタは目を見開いた。
 傍らでつり下げられている若君に目をやれば、少々困ったような顔で小さく笑んでいる。
 アンリエッタの瞼は痙攣したように上下した。
 両手持長剣ツヴァイヘンダーの切っ先が動いた。アンリエッタの眼前でぴたりと止まる。
「俺はこの可愛い姫若様の家臣じゃねぇんだ。命掛けのご奉公なんて義理はねぇよ」
 ブライト・ソードマンの唇が引き吊れあがる。上下の唇の間から、獣じみた犬歯が覗き見えた。
 あ、死ぬ。
 アンリエッタはそれが当たり前の事に感じられた。動かせない事実と思えた。覚悟して、目を閉じた。
 だがどうしたことだろう。両手持長剣ツヴァイヘンダーが振るわれる気配がしない。
 わずかに片目を開いた。
 巨大な剣の切っ先は相変わらず眼前にある。しかしどういった訳であろうか、この巨躯の総身から吹き出していた殺気が、すっと消え去っている。
「主持ちてぇ生き物は、全くくだらねぇなぁ」
 この声を聞いた途端、アンリエッタの全身から緊張感が抜けた。
 助かった。
 そう察した途端、背骨が体を支えることをやめてしまった。
 前のめりに倒れ込んだアンリエッタは、腰のあたりに何かの力を感じた。
 短い南瓜型の半袴が後ろに猛烈に引かれた。
 地面が遠ざかる。巨躯の剣士と細身の若君の姿が遠ざかる。だが姫様のアホ面だけはきっちりとそばある。
 気づくとアンリエッタは荷馬車の荷台にいた。運転台にピエトロの背中が見える。
 足下で目を回しているバカ姫様の胸元と自分の腰に、細手の縄が付いた大きな鉤が引っかかっている。
 馬車は急な坂道を、荷台の人間達ばかりか馬の蹄の安全さえ考慮されないほどの猛烈な早さで駆け下りていった。
 激しく揺れる車内では、何か喋ろうにも舌を噛みそうになる。アンリエッタは無言で自分と姫様の体が外へ飛び出さぬように、車体にしがみつくより他のことができなかった。
 そして峠に置き去りにされた旅人達は、呆然とそれを見送ることより他にすることがなかった。
 馬車の影が見えなくなった頃、ようやくエル=クレールが声を出した。
「何が起きたというのでしょう?」
「知らんな……」
 ブライトの返答の声は、また不機嫌の色を増している。
 エル=クレールが彼の横顔に視線を投げると、
「畜生。あの男、いつの間にここを抜け出して、いつの間に馬車を持ってきた?」
 眉の間に深々と縦皺が刻まれていた。
「食わせ者だ」
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