皆の視線が彼に向けられた。レオンは胸元に手を置いていた。手の中には、小さな金の細工が握られている。
金細工は、激しく震えていた。その震えは空気を揺るがし、鼓膜を引き裂くような音を生み出している。
レオンとガイア以外の者達は、思わず耳を塞いだ。
紅い珠が一つ、床の上を転がった。
転がって、レオンの足下に達し、その後、物理と自然の法則に反する動きを始めた。
ふわりと浮かんだのである。
そしてレオンの手の中に消えた。……正確には、彼の手の中の小さな金細工の中に吸い込まれたのだ。
音が止んだ。そして新たな音がした。
「ビロトー将軍、それを捨てなさい!」
ガイア・ファテッド=クミンの叫び声だった。
ガイアは言うなりビロトーの腕を掴んだ。
彼の手には紅い珠があった。……しかしそれは真円ではなかった。珠の半分が、掌の中に埋没している。
「チッ!」
ヴェールの中で舌打ちすると、ガイアはマントの中で左手を動かした。
と。
《動くな》
声のする方へ振り向いたガイアの目に映ったのは、彼女の夫と、その傍らに立つ化け物の姿だった。
枯れ木のような皮膚だった。濁った赤い目をしている。髪の毛は火炎のように逆巻いていた。指の先に尖った爪が生え、その切っ先がレオン=クミンの喉元にぴたりと宛われている。
化け物の足下には、ポルトス伯爵がいた。
ぺたりと尻餅を突いた形で床に座り込み、顔を上に向け、化け物の脚にすがりついている。
「デートリッヒ……?」
伯爵は喉仏をひくつかせた。
返事はない。代わりに、脚が動いた。
ポルトス伯爵の身体は勢いよく転がった。
椅子と机と、幾人もの兵士達を吹き飛ばし、壁に穴を開け、廊下に飛び出して、ようやく止まった。
「我が君!」
マルカスが矢の勢いで主君を追いかける。
幾人かの兵士がそれに続き、幾人かの兵士はその場に立ち尽くした。
「ずいぶんなことをなさるものですね。仮にも伯父御でありましょうに」
レオンは喉元の凶器を気にしながら、しかし平静と変わらぬ声色でつぶやいた。
《有益な人間か、あるいは無益な人間か。それ以外は、あまり必要でない情報なのだよ》
穀物が腐敗し糸を引いているのを思わせる、耳障りの悪い声で、デートリッヒ=ユリアンであったモノが答えた。
「情報……と、きましたか」
《そう。情報は重要だよ。情報が無ければ、私は貴君らの戦法に対策を練ることができなかったからね》
「私が引き、ガイアが剣を振るう……ということを、どなたからお訊きになったのですか?」
化け物の頬の肉がぴくりと動いた。
《貴君らが森の賊どもにとどめを刺さなかったことに、感謝している。まあ『旨い』情報は少なかったがね》
遠くで大きな物音がした。
悲鳴や叫びが立て続けに起こり、次第に食堂に近付いてくる。
ドアが開いた。
幾人もが室内に文字通りなだれ込んで来た。
血の臭いがするその人間たちには、頭がなかった。
恰幅の良い農夫の「身体」、猟師や木こりらしき姿をした「身体」。それらがいくつも折り重なり、這いつくばって進む。
目も耳も鼻もない死体が、いかにして目標物を見つけるのか知れない。だが連中は確実に生きている人間ににじり寄ってゆく。
足首を掴まれた一人の兵士が、悲鳴を上げ、やたらに駆け出した。連鎖的にほかの者達も駆け出す。
「出た! また、死体が、動く死体が!」
パニックが起きた。唯一無二の出入り口には首なし死体が群がっている。どこにも逃げられない。
レオンは動く死体……グールであるとか喰人鬼であるとか呼び慣わされている物体……を見、さらに化け物の口元を見た。
化け物の口の中には、鋸を思わせる鋭い歯が並んでいる。その歯の間に、髪の毛であるとか面の皮の一部であるとかが挟まっていた。
「なるほど。あなたにとって『食事』と『情報収集』は同義語なのですね」
《で、あるから、できるだけ『旨い』情報が欲しいのですよ……例えば、貴君の脳味噌。【アーム】を封印するその器具の情報などは、一体どのような味がすることだろう》
尖った爪が、レオンのこめかみにあてがわれた。
「レオン殿!」
ガイアはビロトーを突き放し、あの長大な剣を引き抜こうとした。
当然、化け物が彼女の行動を許すはずもない。
《その物騒な鋼を捨てなさい。でないと今すぐこのおとがいを噛み砕いて、ぎっしり詰まった『情報』を残さずいただくことにしますよ》
レオンのこめかみから、鮮血の滴が一粒、流れ落ちた。
ガイアの足下で、ガランと、鋼鉄が鳴いた。
《その衣装も捨てなさい。あの剣も最初はそのマントの下に隠していたくらいだから、まだ別な武具を隠しているかも知れない》
ガイアは無言でヴェールを取り、フードとマントを脱ぎ捨てた。
布は、確かにその中に金属質のものを包んでいると知れる形状で、床に広がった。
ガイアは、寸鉄帯びぬ肌着姿でその場に立っていた。
白い皮膚の下、みっしりと付いた筋肉の鋭角さが、薄く乗った脂の柔らかさですっかりと失せている。
化け物はにんまり笑った。
《そうだ、フランソワ。【アーム】を手にした感想を聞こう》
名を呼ばれ、ビロトーは改めて己の両手を見た。
紅い珠を握った筈の右の手に、珠がない。掌には、赤黒い円があるばかりだ。
その赤黒い円が、そこに心臓が移ったかのようにズキッズキッと脈を打っている。
驚愕に痙攣していた頬が、愉悦に引きつりだした。
「ああああああああ」
血管が浮き出た右の拳から、ミシミシ、ビキビキと音がする。
筋肉繊維が断千切れる音、骨の砕ける音である……その音を立てている本人は、まるでそれに気付いていないが……。
「力が、力が、漲るっ!」
網の目に浮かび上がった血管は、拳から腕、肩口からやがて首、顔から頭まで覆い尽くした。
フランソワ=ビロトーは、化け物になった。