《うぁぁるぁぁぁっ!》
 化け物が遠吠えをあげた。
 腕の五指が一塊りの肉に変じた。更に肉は切っ先を尖らせ、なまくらな剣の形に変わり果てた。
 それを、振り回す。
 椅子が砕けた。テーブルが吹き飛んだ。床を覆っていた安物の絨毯が煽られて裂け、薄い敷石が割れ散った。
 空気も、空気以外のものも構わず薙ぎ払い切り裂く勢いで、ビロトーであった化け物が剣の形をした腕を振り回す。
 その切っ先が、激しくガイアに触れた。
 ガイアは弾き飛ばされ、動く首なし死体の中へ落ちた。
《あはははは、あぁはははぁっ!》
《ふははははぁはははははっ!》
 2つの高笑いが、二匹の化け物の口から溢れ出た。
 そしてもう一つ。
「くくくくく」
 笑っていた。レオン=クミンが、うつむいて、肩を揺すって、地に響く低いうねりで、笑っている。
 彼の妻の身体に、首のない死体どもが群がっている。絹が引き裂かれる音が、確かに聞こえている。
 レオン=クミンは笑っている。
 化け物はレオンの細い顎を掴み、強引に持ち上げた。
《人間という生き物は、おしなべて脆い。大切なものを失うと、例外なく精神が崩れ落ちる。伯父上も、そして貴君も。
……残念でならない。どれほど知識に満たされていても、狂った脳髄は途端に味が落ちる》
 レオンは逆らわない。ゆっくりと顔を上げた。
 穏やかな笑顔だった。瞳は透き通り、口元は引き締まっている。
 その、いささか薄目の唇が、はっきりと動いた。
「デートリッヒ=ユリアン卿……いや、むしろ、オーガ【魔術師マジシャン】とでもお呼びした方が良いようですが」
 人食い鬼の親玉が顔をしかめた。
 レオンの笑顔は、いっそう強くなった。
「どうやら、間違ってはいなかったようですね。どうにも私は他人様の【アーム】の『なまえ』を読みとるのが下手でして……。どうやらあなたもご同様のようですが」
《何……?》
 【魔術師】のこめかみの皮膚の下で、どろりとした液体が脈を打った。濁った目で、レオンの顔をまじまじと見回した。
 道化の踊りを見ているときのような彼の笑顔のまま、彼は唱えた。
「古の仁者よ、私と共に人を救い給え」
 赤い光が【魔術師】の左目に斜め下から射し込んだ。
 暁の陽光に似た強く暖かなその光は、レオンの右肩から、長い竿状に伸びた。
 レオンはその光を……掴んだ。光の一端がほぼ直角に折れた。
 それは麦を刈る巨大な鎌、絵本に描かれる死神の鎌そのものの形状だ。ただし、鮮血のように赤い。
《貴様っ、人鬼狩人オーガハンター!?》
 目の前にいる痩せた男が、己のような存在を駆逐することを目的としている人種であることを知った【魔術師】は、生きの良い海老の勢いで飛び退いた。
 彼の足先に、赤い光がまとわりついた。
 レオンの振るった巨大な鎌であった。切っ先が【魔術師】のくるぶしを捕らえた。何の手応えもなく、【魔術師】の両足先は脹ら脛から切り離された。
 血飛沫は無い。悲鳴も無い。
 【魔術師】は足の失せたその切断面で着地した。茶色い腐汁が、床の上に広がっている。
 しかし痛みを訴えることも無い。
 ただ、憤怒だけがあった。
 【魔術師】は生臭い息を吐き出しながら、口を大きく開けた。
 口蓋が裂け、顎が外れ、頭は横真っ二つに割れた。舌なのか触手なのか解らないものが真ん中で蜷局とぐろを巻き、鎌首をもたげている。
《ビロトー! 女を捕らえろ! 死骸を引きずり出せ! この下司ゲスの目の前で、頭から喰らってやれ! この末成りを絶望させろ!》
 どこから声が出ているのか知れないが、確かに【魔術師】は喋っている。
 かつてビロトーと呼ばれていた一匹のオーガが、鞭打たれた馬の勢いで、グールが山と群がる一点へ駆けた。
 死体の山は、もそりと蠢いてはいる。が、その動きから包括物に対する攻撃性は感じない。
 新米オーガが死体の山を掻き分けると、その中からガイアがゆっくり立ち上がった。すっかり衣服を剥がされ、すべらかな白い肌を晒してる。
 普通なら、惨めななりであるはずだ。だが彼女からは憐憫さが感じられない。
 さながら大理石の像のようであった。右腕が欠けているところ、そして顔に広がる堂々たる微笑など、古い都から掘り出された気高い狩猟の女神を思わせる。
 女神の左手が、対峙する化け物の背後を指し示した。
「【剣の従者ペイジ・オブ・ソード】殿」
 驚愕した。……グールの群の中から無傷で現れた女が、己のすらまだ実感していない【なまえ】を看破したのだ。
「どうやら、間違ってはいないようだ。全く、他人様が持っている【アーム】は、その人間の身体を変化させなければ正体を表さないと来ている。……兎も角。【剣の従者】よ、私を喰らう前に、そちらとケリをつけた方が良いと思うのだが」
 ビロトー……いやオーガ【剣の従者】は、左の肩口に背後から加えられた衝撃を感じた。
鋭い切っ先の金属の棒切れが、肩に深くめり込んでいる。
 よどんだ目で、その先をたどり見る。脂汗を額に吹き出させたアトスの、蒼白とした顔があった。
《アンドレイ、勅命だぞ。俺が遂行しているのは、皇帝陛下からの命令だ。お前は何故、逆らう?》
「その首なし死体が、我らの故郷にどのような害を加えたか、ビロトー、忘れたとは言わせないぞ。町を破壊し、人々を襲い、主君の心を打ち砕いた化け物を、今誰が操っている!? そいつのもたらしたものが勅命だと? そんな勅命など、知ったことか! そんな勅命に従っている者のことなど、知ったことかっ!」
《この不忠ものめが!》
 【剣の従者】は肩に食い込んでいたアトスの剣をいとも簡単に払いのけ、大上段に振り上げた両腕の剣を、迷い無くアトスの脳天めがけ振り下ろした。
 アトスはその場にすとんと尻餅を突いた。
 何の傷も負ってはいない。
 【剣の従者】は、剣を振るえないでいる。
 理由は、後ろから彼の顔面を鷲掴みにしている屈強な右腕にあった。
 隆と筋肉の付いた逞しいその腕は、紅い光を放っていた。
 【剣の従者】は目玉を極限まで動かして、この紅い腕の正体を探ろうとした。
 視線が背後に回らぬと悟ると、今度は耳をそばだてた。小さな声が、かすかに聞こえた
からだ。
 声は言う。
「我が身を突き動かす怒りよ、我が力となりて我が敵を討て! 【ストレングス】!」
 紅い腕が、高熱を発した。
 肉の焼ける臭いと音が、【剣の従者】の顔面から立ち上った
「と、溶ける! 顔が、溶ける!」
 【剣の従者】はがくりと膝を落とした。
 焼けた鉄棒のような指の間から、彼を見下ろす顔が見える。
 ガイア・ファテッド=クミンであった。殺げ落ちた肩口から、透き通った紅の腕が生えていた。
「助けて、顔が、頭が、融ける!」
 ガイアは腕の形をした武器……ビロトーをオーガに堕としめた、あの紅い珠と同じ【アーム】と呼ばれる、変幻自在な物体……に力を込めた。
「案ずるな。貴公が『生きた人間』の心を失っていなければ、死ぬことはない」
 【剣の従者】の身体が、床に叩き付けられた。
「ひ、人のっ、心ぉっ?」
 床の上をのたうち回る【剣の従者】の身体は、本人がいう「融ける」という状態とはかなり違った変化を始めていた。
 縮んで行くのである。
 見えぬ手が、その掌で出来損ないのパン生地を丸める……そんな変化であった。
「あるいは、揺るぎない信念」
「信……ガッ……念?……ッグァ」
「大切なものを自分の命を懸けてでも守りたいと願う心。理不尽な出来事に決して屈服しない心」
 縮み行く【剣の従者】を見下ろして、ガイアは静かに言う。
「栄達のために故郷を捨て、長年使えた主君を見捨て、友人の言葉に耳を貸そうともしない貴公は、残念だが、両方とも持ち合わせていないようだ」
「がぁっ!」
 声なのか、音なのか、区別の付かない空気の震えを残し、フランソワ=ビロトーは消滅した。
 床に、紅い珠が一つ落ちている。
 ガイアはそれを拾い上げ、投げた。
 金属製の鋭い音がして、珠は、レオンの持つ金細工の小さな孔の中に吸い込まれた。
「さて」
 金細工を胸に止め、レオンは顔を【魔術師】の方へ向け直した。
「あなたに、お訊きしたいことがあります」
 レオンは深紅の鎌を肩に担った。
 【魔術師】の目玉らしきモノは、自分から離れてゆく刃の先を追い、動いている。
「皇弟フレキ殿下が、ミッドのクレール姫を保護しておられるそうですが、本当ですか?」
 答えは返ってこない。
 変わりに、粘膜に覆われた触手が、レオンの眉間めがけて勢いよく伸びた。
 触手はレオンの頭があった場所を突き抜け、壁をぶち破った。
「お答えいただけないのですね」
 レオンの声は、床近くから聞こえた。
 しかし、【魔術師】は彼の姿を完全に見失い、再び見付けることができなかった。
 湾曲した刃が、化け物の身体の真ん中を下から上へ通り過ぎていた。
 そしてやはり、紅い珠だけが残った。

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