「トラゾルテオトル?」 主税の語尾が上がった。それは、そういった自分自身に対する疑問からだった。 目の前にいる者のその姿は、彼自身が知っていて、今口をついて出た名を持つ神話の女 神とは、大きくかけ離れている。 よく言えばダイバースーツ。いや、はっきり言ってしまえばアメリカンコミックのミュ ータントだ。体にぴたりと張り付く薄い生地が、蓄光塗料でも塗られているかのように、 薄ぼんやりと光っていた。 「またずいぶんと古い名で呼ばれますな」 白ずくめの人物は、古い人工喉頭か、受信状態の悪い携帯電話から聞こえるようなノイ ズ混じりの音でしゃべる。 長刀状の長柄物の切っ先を地面に下げ、彼女…かどうか判然としないが…は主税の前に 跪いた。 「シロネンから古き名で呼ばれて困惑なさったあなた自身が、他の者をその古き名で呼ば れるのは、いかがなものでしょうや。私自身が困惑するとは思われませんか?」 「名前で困惑する以前に、その服装でパニックに陥らないのかい?」 主税は優を抱いたまま立ち上がり、自身と優の体にまとわりついた埃を叩き落としなが ら、疑念の視線をその人物に投げた。 「最初は、確かに。しかし、慣れてしまえば快適ですよ。…試してみますか?」 白ずくめが言うのと同時に、主税の目の前に白いたおやかな手が差し出された。 掌の上に、金の枠に填った大振りな赤い石が載っている。 顔を上げると、シロネンがにこりと笑っていた。 「あなた様の物です。あなた様だけの物」 受け取らざるを得ない雰囲気があった。 右手を伸ばす。赤い石に指が触れた…瞬間。 指先の赤い石が、光の粒子に変化した。それが猛烈な勢いで主税に向かって吹き付ける。 両耳元で轟音が鳴った。嵐のただ中か、渦潮の中心に放り出された気がした。 今着ている衣服は、まるで防波堤の役目をしなかった。全身に、何かが張り付いてゆく。 眩しさと、息苦しさに、主税は目をつむった。 額の中心が酷く痛む。そこから何かが体の中に流れ込む感触がする。 強い日差しを浴びているのと同じ痛みだった。 耳元の轟音は、やがて高い耳鳴りに変わり、ついには消えた。 主税は恐る恐る目を開けた。 指先が肌色を失っていた。 指を覆う白い物は、手袋と言うには薄すぎる。恐ろしく細かい粒子が極薄い層を成して 体の回りを漂っている感覚だった。 白い指先に繋がる腕は、先ほど差し出された石の色そのものに赤い。 腕だけでなく、胴も足もその色で覆われている。脹脛から下はまた白いブーツの様だっ たが、全体的に彼の体は深紅に包まれ、その色に輝いていた。 「今の世の衣服と違って、何の拘束感もない」 白ずくめの声が、酷く遠くから聞こえる。先ほどの轟音で耳がおかしくなったのかと、 主税は自身の耳に手を伸ばした。 耳たぶがなかった。 確かに、それらしい役目をする機関には触れた。四角くすり鉢状になった堅い物…それ が彼の耳を覆っている。 いや、覆われているのは耳ばかりではない。頭も顔も、堅い物に覆われていた。 フルフェイスのヘルメットをかぶっているのに近いが、その堅い物は、顎の下も、首回 りもしっかりと囲んでいる。 それに、ヘルメットをかぶっているときのような息苦しさがない。 視界も狭まっていないし、むしろ周囲がはっきりと見えた。 手足を曲げの伸ばしてみた主税は心地よい違和感を感じた。 筋肉が、自分の出した力以上の動きをする。 「まるで裸でいる様でしょう?」 白ずくめの声は相変わらず機械的に響くが、どこか楽しげでもあった。 「確かに何も着ていないみたいに軽いし、拘束されるどころか、逆に動きやすそうだ」 主税は自分の体を眺め、さすり、素直な感想を漏らすした。 白ずくめは小さくうなずいた。 「それでいて、丈夫で、刃も弾丸も通さない」 ざらついた声に、主税は顔を上げた。 白ずくめが先ほどまで刃を下に携えていた長柄物の切っ先が、彼の頭の上にあった。 「あっ!」 悲鳴を上げたのは、優とシロネンだった。 切っ先が、主税の赤い体を袈裟懸けに切り下ろした。 主税は微動だにしない。体に斬られた跡もない。 「テストにならないんじゃないかな」 刃が通った跡をなで、主税は白ずくめを見た。顔を覆う仮面で表情が漏れることはない が、白ずくめには彼が微笑んでいることが判ったらしい。 「良く、おわかりで」 白ずくめは再び刃の先を下に向けると、主税の前に跪いて頭を深く下げた。 優には何が起こったのか判らなかった。 恐る恐る主税に近づき、おずおずと彼の体に触れた。 「暖かいや」 ほっと笑顔を浮かべ、少年は主税に抱きついた。 「白い人に斬られたのに、怪我をしていないの? 黒い蟻のお化けみたいなのは、あの刀 で…死んじゃったのに…?」 優はちらりと闇の奥を見た。 彼が「蟻のお化け」と評した正体不明の者たちが、ぴくりとも動かずに折り重なって倒 れているのが、ぼんやりと見える。 「あれは、斬ろうと思わないと人を傷つけられないんじゃないかな。どういう理屈なのか はまるで判らないけれど、そう思ったんだ」 「非科学的だなぁ」 少年はそういって、白ずくめを見た。 「理屈で説明できないこともある。たとえばなぜ今になって彼らが動き出したのか。そし てなぜそれを止めるのが我々でなければならないのか」 今度は白ずくめが視線を動かす。その先にはシロネンがいた。 「彼女が説明してくれましょうが、おそらくは納得できないでしょう。何分にも、私にも 納得できない破天荒な内容であるし、むしろするつもりもない」 シロネンの顔に不安と驚愕が満ちる。彼女は救いを求めるまなざしを主税に向けた。 主税は首を横に振った。 「もし君が、僕のことをアステカの神か、そうでなければ偉大な王様の生まれ変わりだと か、よみがえった悪魔と戦うことを宿命づけられた戦士の転生だとか、そんな風に説明し ようと思っていて、だからこそ僕たちを襲った奴らやあそこで倒れている連中と戦わなけ ればならなくて、そのためには他の仲間を捜し出す必要がある…みたいな話をするなら、 僕も多分信じないだろうね」 そういいきった途端、彼の耳元でまた強い風の音が鳴った。 赤い光が彼の体から浮き上がり、今度は一カ所に集結してゆく。 主税の右の手首あたりに、それは集まり、再び赤い石の形となった。 先ほどと違うのは、その石を取り巻いていた枠がブレスレットへと変化して、彼の右手 首に巻き付いていたことだった。 主税はその様を、さほど不思議だとは思わなかった。思わなかったが、思わなかったこ とを不思議だとは感じている。 周囲を見回す。 白ずくめの表情は、仮面の下で判らない。 シロネンを名乗る娘は、困惑しきりだ。 そして優は、主税にしがみつきつつ視線をシロネンに向けていた。 「シロネンさん、チカラの言ったみたいに説明しようと思っていた?」 彼はキラキラと輝く瞳で、シロネンを見つめた。彼女はおどおどしながら小さく頷く。 「すごい、すごいよ、チカラ! ものすごくかっこいい話だよ! チカラが、正義のスー パーヒーローなんだよ! それでボクはヒーローの無二の親友なんだ!」 途端、彼は天才学者どころか小学生以下の幼さで、飛跳ねてはしゃいだ。 瞳は大きく見開かれ、口元も大きく開く。 さながら、大好物を目の前にしているかのような表情だった。 「ボク信じる。チカラがなんていっても、ボクはシロネンさんの味方するからね!」 …ボクの意見を否定することは許さない…優はそういう意味合いのこもった口調で言い、 そういう意味合いの輝きを帯びた目で主税を見上げた。 主税は肩を落とし、大きくため息を吐いた。 はしゃぎ回る優にシロネンが同調しているのも、彼の気分を重くさせている。 ちらりと、白ずくめの方を見た。 彼女…だと思われる…は、背を向けて洞窟の奥へ向かって歩いていた。 「待ってくれ、君は…」 「どうするかは、あなたが決めることです。私の意見も、シロネンの言い分も、あなたに とっては『材料』に過ぎない」 「それは判っている。ただ…君をどう呼んだらいいのかだけ教えてくれないか? 古い名 で呼ばれるのが嫌だというのなら、新しい名を教えて欲しい」 一瞬、白ずくめの足が止まった。 「お好きなように。『白いの』でも、『ホワイト』でも、何とでも呼ばれるがよろしい」 「判ったよ、ホワイト」 主税が答えると、白ずくめは満足したように頷き、再び歩き始めた。 やがて、彼女の影は漆黒の中に埋没して、消えた。 序章・了 |