フツウな日々 1 |
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子供の頃、彼は大雨が降った翌々日には、必ずその川瀬に行った。
細いが、暴れ川だった。
特にその場所は急に水の流れが変わる場所で、木も草も皆、川から逃れようと体をねじ曲げて立っている。
大雨が降った翌日は、赤茶色に濁った水が勢いよく川岸を洗っているものだから、近づきようがない。
だから彼はそのまた次の日にそこへ向かう。
水が澄み、流れも落ち着いた川岸の、ネコの額のような瀬に降り、彼は捜し物をする。
ゴミと砂利ばかりの漂流物から、彼は紙切れを探す。
それは、人の形をしている。
最初は激流に流されてその形にちぎれたとかと思ったが、型抜きしたように同じ形の物が10枚も20枚も見つかれば、さすがに最初からその形だと言うことが判ってくる。
それに、その紙切れはぬれても破れないのだ。そして子供には読めない難しい文字がぎっちりと書き込まれている。
その難しい文字の中に、彼に読めるものが一つだけ混じっていた。
『龍』
……それは彼の名前でもあった。
龍は雨の降った翌々日に、自分の名前を拾っている。
「それはヒトミゴクウのそのまた代わりだよ」
龍が小学校の四年生だった時分の、ある大雨の翌々日。学校帰りに河原に寄った彼は、「トラ」からそう教えられた。
「トラ」は、龍より一つか二つ年上らしい大柄な子供だ。龍と同じように雨降りの翌々日になるとこの河原に現れる。
河原を隅から隅まで走り回る龍と違って、「トラ」はおとなしかった。
たまに石ころを拾ってポケットにしまい込んだりはしたが、動き回るよりも、ただぼんやりと川の流れを見ていることの方が多い。
真っ白な顔をした「トラ」は、龍の手の中のしわだらけの紙束を指し、真っ黒な瞳を細くして、にっこりと笑っていた。
『ヒトミゴクウって何だろう?』
龍は拾ったばかりの紙束を握りしめて、ほんの少し考え込んだ。
『ヒトミは目玉のことだよな。ゴクウって孫悟空のことかな?』
孫悟空の目玉の代わり……というのは、さすがに変だし、違う気がするのだけれど、龍は「トラ」に質問する気にはならなかった。
なにしろ「トラ」ときたら頭が良すぎる。大概の質問にはすらすらと答えるし、それが間違った試しがない。
出逢って時間が余り立っていなかった頃……つまり、まだそれほど「トラ」のことを信用していなかった時分に……龍は「トラ」に訊ねた質問を改めて辞書で引いたことがあった。
辞書には「トラ」の応えたとおりの言葉が、その 百倍は難しい言い回しで書いてあった。
その時何を訊いたのか、辞書に何が書いてあったのか、肝心なことはすっかり忘れているのだけれど、「トラ」に訊いた方がよほど判りやすいと思ったことだけはしっかり覚えている。
だから、素直に
「ヒトミゴクウって何?」
と訊ねれば、「トラ」がかみ砕いて教えてくれるだろうというのは、龍にはよくわかっている。
解っているのだけれど。
『いつでも訊いてばかりなのは、ちょっと癪だ』
反抗期なのかも知れない。龍は
「ふーん」
と生返事をして、紙切れの束を図書袋の中に押し込んだ。
「トラ」の苗字や、本当の年齢や、住んでいる家を、龍は知らない。
少なくとも龍のクラスメイトではなく、両隣のクラスにもいない。
体が大きいから、多分年上だと思っているが、全校集会で上の学年の列を覗いてもそれらしい生徒は見かけない。
国道の向こう側は学区が違うから、たぶんそっち側に住んでいて、学校も違うのだろうと考えている。
大体、妙に色白で、いつでも長袖と長ズボンで、髪の毛はきれいに刈上がっていて、物知りで、口数が少ない、石ばかり拾っている変なヤツ……であることさえ解っていれば、それで充分だと思っていた。
その日も「トラ」は一、二個の石を拾って、ズボンのポケットに入れていた。
そして、その倍くらいの石をポケットではなく川の流れの中に投げ入れもしている。
「前から訊こう思ってたんだけど、どういう基準で拾うのと拾わないのと、決めるのさ?」
龍は水面に消えてゆく小さな波紋を見ながら訊ねた。
「トラ」はポケットの中に手を入れて、大切に持ち歩いている小石を全部取り出した。
大きさも色も様々だった。黄色みの強い茶色のもの、赤茶色のもの、黒みがかった青のもの……。おしなべて、透明感のある良く光る石ばかりだ。
「トラ」はその中から、明るい茶色で縞のある石を指して、恥ずかしそうに言った。
「虎目石」
「他のは?」
掌をのぞき込む龍に、「トラ」は
「牛血石、鷹目石。名前は違うけど、結局虎目の色違い」
と言い、うっすらと笑った。
「龍と同じ。自分の名前と同じのは拾う。そうじゃないのは……川に返す」
「僕と同じ」
龍は何となくほっとした気になった。