フツウな日々 2 |
|
ひとみごくう〔人身御供〕
いけにえとして神に供えられる人。
犠牲となる人。
夜中。龍はあわてて辞書を閉じた。
甘いインクの風で、机の上のシャーペンが転がる。
いけにえとか犠牲とかいう言葉に、「命をなくす」と言う意味があることを、彼はつい最近読んだ漫画で知っていた。
『人身御供のそのまた代わり』
頭の奥で「トラ」の柔らかい声がした。
龍はいきなり氷を背に投げ込まれたように椅子から跳ね上がり、そのまま床に落ちた。
しばらくうずくまっていたが、不意に「ガサガサ」という音を聞いた……ような気がして、彼は四つ足でばたばたと這いずった。
向かった先は、ドアの横に頼りなく立つ鞄かけだ。細いポールから飛び出たフックを手がかりに、ようやく立ち上がった彼は、一番上に掛かっていた図書袋をひっ掴んで外した。
その中に詰め込んだものが、急に恐ろしく思えてきた。
そのひもが、静電気を帯びたビニル袋のように指に絡み付く気がして、龍は小さく叫びながらそれを遠くへ投げた。
あの白い漂着物以外のものは一切は言っていない袋は、ざわざわ音を立てて壁にぶつかり、部屋の隅の薄暗いところへ落ちた。
龍は息を殺して鞄かけにしがみつき、しばらくじっとその袋を眺めていた。
どちらかというと、積極的に注視していると言うよりは、体がこわばって目が離せなかった、と言った方が良いのかも知れない。
袋の中で何かが動いている……ように見える。
それがもぞもぞと袋から這いだしてくる……ような気がする。
龍はその方向をにらみ付けながら、もう一度四つン這いで動き出した。
ジリジリと、部屋の中で袋から一番遠い場所へと動く。
幸いというか偶然というか、一番遠いところはベッドの上だった。彼は足先で布団をめくり、尻の方からその中に潜り込んだ。
頭まで潜行すると、カレーパンの形の隙間が目の前にできた。その隙間から、部屋の隅の袋が見える。
袋は、壁をずり落ちたそのままの形で、床の上にだらしない姿晒している。動いたり唸ったりはしていない……今のところは。
それなのに、龍の耳の回りでは、ジーという音が鳴っている。そこに自分の心臓の音と、呼吸の音が重なる。
酷く耳障りで、不気味だ。龍は頭を抱え込んで両耳を押さえた。
そうすると今度は、耳の下の、顎の関節あたりの内側が、キィキィと引き攣れる感じがした。
無理矢理、生唾を飲み込んでみた。口の中がぱさぱさに乾燥して、余計に引き攣った。
指先で耳を強く押さえ、足の指をぎゅっと縮める。手足の指先が血の気を失って、冷たくなっていった。
それでも彼は、布団の隙間を閉じようと思わなかった。そして目もつぶらない。
恐ろしいのだ。光がなくなることも、見えないところで何かが起きることも。
たとえ一瞬でも、目を離したその時に、図書袋が動き出しそうな気がする。だから瞬きすら恐ろしい。
開けっ放しの目玉から、水分が抜けてゆく。
目頭はきりきりと痛んだ。
五分か十分か、あるいはもっと短い時間、龍は石ころのように固まったまま目を見開き続けた。
みつめる内に、龍の体の中の緊張は、次第に落胆めいた物に変わっていった。
少年は心のどこかで、何かが起きることを期待している。
朝起きて、ご飯を食べて、学校へ行って、勉強をして、給食を食べて、勉強をして、掃除をして、校庭で遊んで、帰り道にあちらこちら寄り道して、夕ご飯を食べて、テレビを見て、風呂に入って、寝る、そんな日常の連鎖を断ち切りたいという希望が、意識するともなくあるのだ。
白い呪文(らしき物)の書かれた紙が、むくむくと合体し、大きくなり、ざわざわ動き出す様を、彼は期待していた。
しかし待ち続けても、図書袋から得体の知れないものが出てくることはなかったし、図書袋そのものが得体の知れないものになることもなかった。
息を殺し続けた龍だったが、元来がどちらかというと行動的で積極的な質である。やがて黙っていることにも動かないことにも、そして期待することにも落胆することにも我慢しきれなくなった。
「うわっ!」
大きな呼気の固まりを吐き出して、彼は布団をはねのけた。