フツウな日々 3 |
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「きゃあ!」
悲鳴は、龍の背中の方向から聞こえた。
彼の体はびくりと跳ね上がり、ベッドの上で弾んだ。
ぐるりと、首を回す。……もちろん、視野の端から図書袋を外さないように気をつけて。
悲鳴の主は、彼の母親だった。
目を見開いて、息子を見下ろしている。
「おとなしいと思ったら、寝ていた? それで、怖い夢でも?」
大人の理論的な推察だった。
龍は首を横に振った。
しかし、自分だけの宝物……だったものが急に恐ろしくなったので、布団をかぶって震えていたとは、さすがに気恥ずかしくて言い出せない。
しかし、親というのはたいしたもので、子供がいくら巧妙に隠し事をしても、大概「秘密がある」ことには気付く。
そして勘の良い者なら、それが具体的に何であるのかまでは解らずとも、悪いことか、危険なことか、叱らなければならないことか、逆に秘密のままにしておいた方が良いことか……ぐらいのことまでは察しが付く。
龍の母親は、軽く部屋の中を見回すと、転げたランドセルからこぼれ出ている文房具や、泥だらけの体操着や、一年以上洗っていない図書袋や、脱ぎ散らかした靴下やらを拾い集めた。
文房具を机の上へ並べ、洗濯物を抱え込むと、彼女は息子に向かって一言だけ言った。
「夕ご飯だよ」
途端、龍の体を締め付けていた緊張の糸が、一斉に断ち切れた。
彼はコクリと頷いてベッドから降り、母親の後について居間へ向かった。
鋳物煮っ転がしの匂いが、廊下に充満していた。突き当たりのガラス引き戸の向こう側で、父親が作業机に向かって座っている。
「父さん、呼ばないの?」
龍のからからに乾いた喉が、小さく震えた。
「帳簿付けが、まだ終わらないんですって。算盤が合わないって、さっきから何度も書き直しているわ。お汁が冷めちゃうって行ってるのにね」
母親は細い眉毛を少々下げて言う。
龍の家は、雑貨屋を営んでいる。
店舗兼住居は住宅街の真ん中にあり、店を出て十歩歩けばそこには学校の裏門、五十歩進めば中学の正門、二分も歩けば町役場やオフィス街にたどり着くという、なかなかに好立地に存在しているから、親子三人食べてゆくには困らない。
難点は、商う物が細かいと言うことだ。たとえれば、文房具や駄菓子は一つ十円からという値段だし、電池や煙草は利が薄い。
勢い「細かい計算」が重要になってくる。
そんなわけだから、父親は毎日毎晩帳簿と睨めっこをしなければならない。
食卓に父親がいない状況に息子は慣れていたし、むしろ彼にとってはそれが当たり前だった。
父親が箸を付けるまで決して食事をしないというのが、母親の信条である。
龍は一人で夕食を採り、風呂に入り、布団に潜り込んだ。
そのころには、彼はすっかり自身が恐れつつ望んでいた非日常のことを忘れきっていた。
翌朝。
朝食を掻き込んで、身支度を整え、ランドセルを背負い、体操着入れと図書袋を両袈裟にかけ、龍は玄関から十歩先に向かって一息に駆けた。
漆喰の壁に木の窓枠。市の文化財に指定されたので、ガラス一枚修繕するにも議会を通すという一手間が掛かるようになってしまった古い校舎が、龍の行く先だった。
文化財指定を受けたとき、この旧校舎は地域の資料館になる予定だった。
それも見越して、元からある「新校舎」の横にさらに四角いコンクリートの「第三校舎」を増築したのだ。
ところが生徒が急に増加して、新校舎と第三校舎だけでは教室の数が足りなくなった。
そのため旧校舎の資料館化は延期となり、龍の学年四クラスがここで授業をすることになったのだ。
クラスメイトの内には
「貧乏くじを引いた」
などと文句を言う者も多いが、龍はこの校舎で学べることが嬉しかった。
すきま風が寒いとか、掃除が面倒だとか、第三校舎に作られた図書館までの移動距離が長いとか、確かに難点は幾つもある。
しかし、新校舎のひんやりとするコンクリートの床よりも、旧校舎の木の床のほうが暖かい。
それに木の床には龍のお気に入りがある。
ちょうど彼の机の足がある辺りの床に小さな木の節があるのだが、これがまるで栓のように抜けたりはまったりするのだ。
龍は、授業中に足先で器用にその節を抜くと、消しゴムかすの丸めたヤツを節穴の中に蹴り落とす、ゴルフもどきの他愛のない遊びをして楽しんだ。
彼一人で遊ぶこともあるが、前後左右両隣の級友達も参戦する。
これはコンクリートの床では楽しめない。(この点に関しては、先に挙げた文句を言う級友も、龍に同意している)