フツウな日々 11文章書きに送る50枚の写真お題
「翌日、お侍さんの家来が池に行ってみると、お侍さんの姿も、当然お姫様の姿もなく、まだ水を引き込んでいないはずの池には、なみなみと澄んだ水が満ちていた……とさ」
 水を打ったような静けさの教室に、校長先生の声と、授業の終わり時間を知らせるチャイムの音が、同時に響いた。
「さて、社会の時間は終わりだ。次の時間は……図書室で自習。三時間目にはI先生が戻ってくる予定から、普段通りの時間割に戻るよ」
 日直が声を張り上げて号令をかける。
 スチールの椅子と木の床がぶつかり、こすれる音が教室中に響いた。
 龍は頭を机の上に残したまま膝を少しだけ伸ばした。お尻だけが持ち上がったものだから、日直が
「礼!」
 と怒鳴る前から礼をしているようだった。
「着席!」
 の声を聞いても、龍は座る気にならなかった。だからといって立ち上がる気にもならない。
 中腰で、しかも変な角度に膝を伸ばしたままの、まるきりつまずいて転んだみたいな格好のまま、しばらく彼は机に顔を埋めていた。
『僕は頭をぶつけたセイで、変になっているのかも知れない。校長先生の話を本当の風景みたいに想像してしまうし、お姫様の顔は「トラ」の顔に思えてしまうし』
 このごろ雨が降らなくて、本物の「トラ」に会えないのがいけないのに違いない……龍は自分を納得させるためにそう思うことにした。
 思いこんで無理矢理に納得して、ようやく龍の腰は椅子の上に落ち、頭が机から離れた。
「図書館に行けっ言われても、次の時間、他のクラスが使っていたりしないのかな?」
「校長先生が行けって言ったんだから、大丈夫なんじゃないの? 他のクラスがいたって、元々図書館では私語はいけないんだから、話さなきゃいいんだよ」
 誰かと誰かが話している。
 教室の後ろのドアのないロッカーや、机の横のフックから、生徒達はそれぞれに図書袋を引っ張り出した。そうしてそれを肩にかけたり、手に持ったりして、ぞろぞろと教室から出てゆく。
 龍も机横のフックから袋をとって、袈裟懸けにして立ち上がった。

廊下(学校じゃないけど…)

 廊下では、学級委員と日直が、生徒達を二列に整列させようと躍起になっていた。
 龍のクラスは行儀が良いほうなのだけれど、先生という箍(たが)がはまっていない状態での今は、まっすぐな列を組んでおとなしく歩くことすらできなかった。
 それでも始業のチャイムが鳴るまでには全員が図書室にたどり着いていた。
 若い女の司書の先生は、ぞろぞろやってきた生徒達の顔を見回し、声を立てず、ただ唇の前に指を一本立ててみせた。
 生徒達も同じように指一本で唇を押さえて、無言で本棚の間に散っていった。
 しゃべらずに普通に歩けば充分静かなのに、なかには忍者のように忍び足で歩く者がいて、それを見た数人が声を殺して笑っていた。
 校長先生が「何の自習をしろ」という指示を出さなかったものだから、生徒達は思い思いの本を手にとって、思い思いの席に着いて、思い思いに読書を始めた。
 中に一人、書架から本を取り出さずに長い机の端っこに座る者がいた。
 頭が良くて小柄なAという男子生徒だ。
 そいつは、ふう、とため息を吐いたり、ぼりぼりと頭を掻いたり、しばらく椅子の上で落ち尽きなくしていたが、やがて、図書袋から算数のドリルとノートを取り出した。
『あ、算数の宿題』
 龍は口の中でつぶやいた。四時間目に答え合わせをする予定の分数の足し算を、今から解こうとしているのだろう。
 Aは一所懸命に数字の世界に入り込もうとしているのだけれど、どうにも集中できないでいる風で、握りしめている鉛筆はちっとも答えを書けないでいる。
『めずらしいなぁ。あいつが宿題わすれてくるなんて。でも運がいいや。自習の時間ができたんだもの』
 龍はその生徒の隣の席に自分の図書袋をおいて、書架に向かった。
 低学年用の絵本や、絵本ではないけど同じくらい絵の多い本が詰まった低い棚の向こうに、伝記や課題図書が並んだ棚があって、そのまた向こうに百科事典が並んでいる。
 龍の足は、その重たそうな棚よりももっと向こうへと進んでいた。
 そのあたりの冷たい空気は、少しほこりっぽくて、ほんのりと甘い匂いがする。
 棚の柱のところに「地方史(ふるさとの歴史)」と書かれた、茶色にくすんだシールが貼ってあった。
 天井までぎっしりと本が詰まった棚だった。
 詰まっている本は、どれもこれも古くさくて、どれもこれも読めない漢字の並んだ題名が書いてあった。
 龍は、住んでいる町の名前が書かれていて、できるだけ薄くて、できるだけ新しそうな本を選って、ぎゅうぎゅうの本棚から抜き出した。
 相変わらず算数ドリルをやっているAの隣の椅子に戻ってくると、龍は持ってきた本の一冊の、目次のページを開いた。
 算数ドリルの回答ページよりも小さな文字がズラズラ続いている。
 龍の目は、その読みづらくて読めない文字の上を直滑降で滑っていった。

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