フツウな日々 12 |
|
目次のページを端から端まで見ると、彼はその本を閉じて、べつの本を開いた。
それも目次のページの文字だけを追いかけて、おしまいまで来ると閉じてしまった。
次の本も、やっぱり目次のところを開いた。
端の方を触るとぱりぱりと音を立てる茶色く変色した紙に、細くて少しでこぼこした文字が印刷されている。
まるで、上級者コースのゲレンデのようだ。龍の目玉は、掠れた文字にコツコツと躓きながら、目次の上を三分の二ほど滑っていって、突然止まった。
「姫ヶ池」
彼はそこに書いてあった文字を口の中で読んだ。
その文字の下には「……」がいくつも、一直線にページの端の一センチ手前まで並んでいて、その最後のところに数字がちんまりと書いてある。
龍はものすごい勢いでページをめくった。そして注意深く、その数字と同じ数字が隅ッコに書かれているページを探した。
所々破けたり、外れ掛かったりしているページで何度か引っかかったのだけれども、幾度か行ったり来たりしているうちに、そのページは見つかった。
『○○平は降水量が少なく、古より旱魃に苦しんできたが、××氏の頃に盛んに普請された溜池が功を奏して、現在では水田地帯となっている。』
龍は何度もまぶたを閉じたり開けたりした。
何しろその本と来たら、漢字は難しいし、文章は解りづらいし、読み進んでゆくのがつらかった。
それでもボーゲンみたいに慎重に文字を追いかけてゆくと、やがて目次で見付けたのと同じ文字にたどり着いた。
『……以上がよく知られた姫ヶ池の伝承であるが、また異説も数種口伝されている。姫が埋められてすぐに水が張られたという説では、池の真ん中から白い龍が現れて、姫を抱いたまま昇天したとされ……池側の無人の社が辰寅神社と呼ばれているのはこの説と、姫の名がその生年から「寅」であるととる言う説とが融合したものか……。』
龍の目玉は抜け出せないくぼみにはまったようにぴたりと止まった。お姫様の名前が、読めない。
今までは読めない文字は全部読み飛ばして済ませていたのだけれど、こればかりは「読まない」ワケにはゆきそうもない。
彼は辺りを見回した。
このなかで難しい漢字の読めそうなヤツは……クラス委員の女子か、隣に座っているAだろう。
女子に漢字を聞きに行くのは、少しばかり気恥ずかしい。
となるとAに聞くのが一番早そうだった。
ところがAは、宿題を終わらせたのか、あるいはあきらめたのか、ともかく、ノートの類をばたばたと図書袋の中に押し込むと、ぱたぱたという大きな足音をさせて、児童書の棚に向かって駆けていた。
しかも翻訳物の児童文学のハードカバーを幾冊も抱え込み、そのまま本棚の前に座り込んで、それきりその場から動こうとしない。
司書の先生が怒ったような困ったような顔でAをにらみ付けている。
龍は立ち上がって、司書の先生が居る受付のカウンターまでそぉっと歩いた。
「すいません、国語の辞書はありますか? 難しい漢字が調べられるヤツが良いんだけど」
龍がようやっと聞こえるくらいの小さな声で言うと、司書の先生はちょっと吃驚したようなでも嬉しいような顔をした。
それから、龍の顔と、今まで彼が座っていた席のテーブルの上で広げられている本を見比べて、ちょっと考えた。
龍の眉毛が不安で八の字になりかけた頃、司書の先生はカウンターの中の棚から、ずいぶんと使い込んであるらしい分厚い辞典を取り出した。
「難しそうな本を選んだみたいだから、小学生用の漢和辞典には載っていない文字も調べられるものの方が良いでしょうから」
受け取った龍は、その場でぺらりとページをめくった。その瞬間に不安になった。
彼や彼のクラスメイトが普段使っている、文字の大きくて挿絵の入った辞典とは、まるで違う。
文字が小さいのは仕方がない。でも、漢字の意味を、もっと難しい漢字で書いてある理由が、龍には解らなかった。
龍が持ち上げた顔を見て、司書の先生は苦笑いをした。
「どんな文字だったの?」
言いながら、司書の先生はメモ用紙と事務用のボールペンを差し出す。
龍は滅多に使わない筆記用具に緊張してたけれど、それの透明でギザギザした軸をギュゥっと握って、頭の中に残っていた文字を書いた。
ボールペンの先はメモ用紙の中にめり込みながら、黒い線を引いてゆく。
うろ覚えだから、書き順も形も変だった。書いている途中から、龍は「間違っているかも知れない」と思い出した。
席に戻って本を持ってきた方が早かったかも知れない。そうすれば難しくてまるきり解らないあの本の内容そのものを、先生に教えて貰えたのに。
龍は後悔しながら漢字を一文字書き上げた。
彼がメモ用紙から顔を上げると、司書の先生は先ほどの難しい漢和辞典のページをめくっていた。
お目当ての文字はすぐに見つかったらしく、先生は辞書を龍の方に向け直してページを広げてくれた。
「干支って解るかな? 年賀状に今年は何年です、みたいに動物とかの絵が描いてあったりするでしょ?」
先生が突然的はずれなことを言い出した、と、龍は思った。
思ったけれど、一応干支という言葉は聞いたことがあるし、商売をやっている両親がお客さんに出す年賀状に毎年動物の絵を添えていることも知っていたから、一応コクリとうなずいた。
すると先生はにっこりと笑った。
「で、この字は干支の三番目の動物の『トラ』のことで……」
先生の言葉を聞いた龍の耳が、急にきーんと鳴った。そして目の前が白くかすんだ。
その白の中に、見たことのある大きくて黒目がちな瞳と赤い唇が、微笑みながら浮かんでいた。