フツウな日々 16 |
|
ともかく、保険の先生は「トラ」の容態が良くないと言うことを救急隊員に告げた。
隊員達は横たわる「トラ」の体を運んできた車の着いたパイプ製の細いベッド(それがストレッチャーという名前らしいと龍が知ったのは、もうしばらく後のことだった)にそっと乗せた。
ぴくりとも動かない「トラ」は、素早く、そおっと、救急車の中に運び込まれた。
呆然としていたお婆さんの肩を、保健室の先生が抱きかかえる。二人が隊員達に促されて乗り込むと、救急車の後ろのドアはばたりと閉まった。
救急車の天井で赤いランプがぐるぐる回り、サイレンが鳴った。
タイヤが埃を巻き上げて回り出し、やがて救急車は校門から出て行った。
乾いた熱い風が土埃を巻き上げて、校庭をぐるりと巡っていた。
校舎中の全部の窓から、生徒達の頭が突き出している。
皆、いい加減で中途半端で興味本位な話をしている。一人一人が何を言っているのかはまるでわからない。
でも、むしろ龍は判らなくて良かったと思っていた。
もし誰かが、『「トラ」は死んでいる』と言ったのが(それが本当のことでなくても)聞こえたとしたら、自分はショックでまた昏倒してしまうに違いないのだから。
救急車が二つ向こうの四つ辻を左に折れてゆくのを見送ったとき、龍は自分のすぐそばに校長先生が立っていることに気付いた。
他の先生方は職員室に戻っているか、自分が受け持つクラスの騒がしさを沈める為に校舎中に散っているかどちらかで、すでにその辺りにはいなかった。
「よく見付けてくれたね」
校長先生はニコリと笑って龍に話しかけた。
ホッとしたような笑顔は、龍を褒めるために浮かべたと言うよりは、「トラ」が見つかったことに対する安堵からのものなのだろう。
龍が黙り込んでいるので、校長先生は彼のの顔をのぞき込んだ。
龍は下を向いた。何を言えばいいのかさっぱり判らないからだ。
あんな処に「トラ」がいたのは何故か。
外側から鍵がかかっていたのは何故か。
自分があそこに誰か(厳密には「トラ」が)いるように思ったのは何故か。
そもそも、なぜこの学校に「トラ」がいたのか。
『学校で見かけたことなんて、一度だってないのに』
龍は心の中でつぶやいた。
でも実際は黙り込んでいる物だから、校長先生は少しばかり心配になったらしい。彼の肩に手をかけて、優しく言う。
「君は、I先生のクラスの生徒だね。ちょっと前に図書室で倒れて、あの子と同じように救急車で運ばれた」
龍の背筋が、ギュンと縮んだ。
頭の奥で「トラ」の声がする。
『龍と同じ』
頭の奥の「トラ」は、嬉しそうに笑っている。
龍は急に恐ろしくなった。「トラ」の顔を思い出すのも、声を聞くのも、全部が怖くなった。
下を向いて、拳を握る。上履きの中で、足の指もグーにする。
龍は「トラ」の事を考えないようにした。
耳の中で、うわぁんという音が鳴っている。
遠いところから、ブラスバンドが練習している音が聞こえる。ずいぶんと上手だから、道路一つ向こうにある中学校の生徒が演奏しているのだろう。
もっと向こうから、野球の試合の音が聞こえる。甲子園に出場することが決まったという近くの高校の生徒が、市営球場を借りて練習試合をしているのに違いない。
もっともっと向こうから、大きな機械の動く音が聞こえる。線路の向こうにある煙草工場が生産量を増やしていると父親が言っていたから、多分たくさんの大人が一生懸命働いているに違いない。
『もっと遠くのことを考えるんだ。ずっと遠くのこと。この学校の事じゃないこと』
奥歯をかみしめて、唇を力一杯結ぶ。まぶたも痙攣するくらい精一杯閉じた。
「Y君のことは、やっぱりY先生から聞いて知っていたのかい?」
校長先生の質問は、できるだけ遠くの音を聞こうとしている龍の耳には、よく聞こえなかった。
返事をしないどころか、そこから一歩だって動きそうもない龍を、校長先生はかなり心配したらしい。
「麦茶を飲まないかい? 砂糖を溶かしたヤツが、校長室の冷蔵庫に入っているんだよ」
そう言うと校長先生はちょっと強引に龍の手を引っ張り、歩き出した。