フツウな日々 15 |
|
『朝、正面玄関にいた人だ』
龍がそう気付く直前に、そのお婆さんは細い体付きからは信じられないくらい強引に人垣をかき分けて、年格好からは想像できないくらい素早く彼のそばを駆け抜けた。
スピードを落とさずに三つの降り段をトトトと駆け下りると、お婆さんは倒れている「トラ」を抱きかかえた。
大柄な「トラ」を小柄なお婆さんが抱き上げようとするその姿は、まるで角砂糖を持ち上げようとする小さな蟻のようだった。
蟻ならば角砂糖を背負って歩けるだろうが、このお婆さんは「トラ」の体を持ち上げられなかった。
ただ、ほんの少し「トラ」の体を動かすことはできた。体が揺れて頭ががくりと落ちた。
龍は一瞬、そのまま頭が外れて床を転がるのではないかと不安になった。
もっとも、実際はそんなことはならなかったのだけれど、そんな不安に駆られるくらい、「トラ」の体には力がなかった。
普段青白い「トラ」の顔や手足が、真っ赤になっているのが気にかかる。
それなのに、汗でシャツや髪の毛が濡れている風はなく、むしろ皮膚はからからに乾いているように見える。
お婆さんは何度も「トラ」の体を揺すった。頬の辺りを叩いたり、耳元で名前を呼んだりしている。
しかし、「トラ」は動かなかった。
龍には息さえしていないように見えた。
幾人かの先生方が事務室に駆け戻った。その中の誰かが、大声で消防に電話をしているのが、開け放ったドアの向こうから聞こえる。
保健室の先生が廊下を駆けてきた。
半地下に駆け下りた保健室の先生は、「トラ」の首筋辺りに手を添えた。
ほんの数秒後、先生は回りの先生方に何かを言った。幾人かがうなずいて、ばたばたとどこかへ駆けてゆく。
保健室の先生は、次にお婆さんの体を押しのけた。そうして「トラ」を仰向けに寝かせると、顎をぐいと上に持ち上げた。
半開きに開いた「トラ」の口元に、保健室の先生は自分の耳を近づけた。
先生の視線は、「トラ」の胸元に注がれている。全神経を目と耳とに集中させている。
十秒経ったか経たないか、とにかくすぐに先生の集中はとぎれた。
頭を上げた先生は、「トラ」の鼻をつまんだかとおもうと、半開きの口のに自分の口をかぶせた。
「トラ」の胸が、二回上下した。
先生は頭を上げて、今度は「トラ」の胸に耳を押し当てる。
そしてすぐにまた頭を上げると、恐ろしいほどのスピードで、「トラ」の上着のボタンを外した。
白いシャツの中で、「トラ」の胸は真っ赤に腫れ上がっていた。
その胸の真ん中に、保健室の先生は両手を当てた。掌の硬いところで強く激しくリズミカルに、二回胸を押す。
骨が折れたのではないかと思うほど、胸の真ん中のところが深く沈み込んだ。
保健室の先生はこのあわただしい作業を何回か繰り返した。
その間にどこかに駆けて行っていた先生方が、バケツやタオルを持って戻ってきた。先生方は協力して「トラ」の体を拭いたり、脇の下や膝の裏に冷たい水で冷やした濡れタオルを挟んだりした。
そのうちに校庭に面した出入り口の方から、足音と台車を転がす音と、金属のパイプがぶつかったり軋んだりする音が聞こえてきた。
人垣になっていた先生や事務員さん達が二手に分かれた間を、白いヘルメットをかぶって白っぽい灰色の服を着た人たちが通ってゆく。消防署の救急隊員だった。
保健室の先生がそれに気付いて、言う。
「意識レベルIII-200、自発呼吸は非弱、熱中症だと思われます」
龍はこのこの小難しい言葉だけは、何年経ってもはっきり覚えていた。保険の先生や他の人たちが言っていたであろう他の言葉はすっかり忘れてしまったのに、この部分だけは忘れられず、時々何の脈絡もないのに思い出したりもする。
おそらく「それが酷く悪い状態を示している言葉なのだ」という直感めいたモノが、彼の記憶にこの言葉を刻み込んだのだろう。