フツウな日々 18 |
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「『トラ』君は多分、蒸し暑いところに長い間いたものだから、喉が渇きすぎて倒れてしまったのだろうね。汗が出なくなるくらいに体の中に熱がこもってしまったんだよ。だから君も、麦茶が温くならないうちに飲んだ方が良い」
龍は唾を飲み込んだ。いや、飲み込もうとしたのだけれど、口の中はカラカラで、喉の奥には何も流れてゆかなかった。粘膜がギリリとねじれて、痛い。
あわてて、目の前の応接テーブルに目を落とす。水滴をいっぱいにまとった大ぶりなコップに、濃い茶色の液体が満ちていた。
両手でコップを持ち上げ一息に飲み干す。ほんのりとした甘さが、口の中に残った。
空っぽになったグラスを龍はもう一度口元で逆さにした。コップの端っこにシャブリ付いて、少々下品な吸い込み音をたて、底にこびりついていた最後の一滴までも口の中に落とし込もうとした。
「オカワリはまだあるよ」
校長先生に言われて、龍は少し気恥ずかしくなったのだけれど、それでもコップを前に差し出した。
切り子細工のポットから注がれた二杯目もあっという間に飲み干して、龍はまたコップを前に出す。
それでも四杯もオカワリをすれば、さすがに喉の渇きは治まる。気が付くと、バクバクと音を立てていた心臓が、すっかりと静かになっていた。
それまで体中を締め付けていた奇妙な緊張がすとんと消えて、龍は重力が半分くらいに減ったのではないかと思うほど、自分の体を軽く感じた。
深呼吸して、顔を持ち上げる。校長先生は椅子に浅く座って彼を見ていた。
そうして、龍の顔面からごわごわした感情が消えたのを確認すると、体を前に倒し、静かな声で訊いた。
「君は、学校が好きかい?」
龍は、少々面食らった。校長先生の質問は突然で、前後に脈絡がなかった。
もっともこのころの彼は「脈絡」なんて言葉はしらなかったので、単純に「今日起きたこととは関係なさそうな質問を急にされたので驚いた」だけだったのだけれども。
兎も角、龍は驚いて少し体を後ろに倒した。本能的反射的に校長先生と……いや、多分自分以外の総ての人間と……距離を取ろうしているのは、脳みそが極度に疲れているからなのだろう。
それでも訊かれたことにはちゃんと答えなければならないと思い直して、体の位置を戻しながら
「好きです」
と、一言だけ言った。
「じゃあ、学校に来たくないと思ったことはあるかい?」
龍はまるでシャンプー後の子犬みたいな激しさで、首を横に振った。
厳密に言えば「そう思ってったことがない」のではなくて、そういうことを「考えたことがない」のだ。
龍にとっては学校に行くのは「当たり前」の事で、好きとか嫌いとか、良いとか嫌だとか思ったりするモノではなかった。
もっとも、学校の真ん前(正確には裏門の前だから「真後ろ」だけど)という、窓から覗けば否応なく学校が目に飛び込んでくるというところにあるお客さんの半分以上が生徒や先生な雑貨屋兼文房具屋という環境に住み暮らしているの彼は、いくらか「特別」なのかも知れないが。
校長先生は無言でうなずいた。
ほんのり笑っている顔は、満足しているようにも、逆に困っているようにも見える。
龍はほんの少し不安になった。椅子の上で背中を丸めて、校長先生の顔を下からのぞき込んだ。
すると校長先生はまた質問する。
「学校は楽しいかい?」
「算数の時はつまらないけど、他は楽しいです」
すると今度は、間髪入れずに新しい質問がだされる。
「友達はたくさんいるかい?」
龍はかなり悩んだ。
「たくさんってどれくらいですか? 百人とか?」
校長先生は苦笑いした。
「そんな歌があるねぇ。百人いれば学年の半分と友達と言うことか……。
ちょっと訊き方を変えよう。同じクラスに友達はどれくらいいる?」
龍は教室の中の様子を思い出した。
「クラスのみんなは、全部友達ってことだと思うんですけど。あ、女子とはそんなに仲良しじゃないけど。でも友達は友達だし」
彼は窓際の前の方から、一人ずつ顔を思い浮かべた。木造の教室は少し手狭で、横に六列、縦に六列か七7列並んでいる机の間隔は、新校舎の教室よりも狭い。
龍はクラスメイトの顔を思い出しながら、指を折って人数を数えた。
全部で四十三人。