フツウな日々 21文章書きに送る50枚の写真お題
 左足が川の中にはまった。
 バシャリと音がして、澄んだ水が跳ね上がる。しぶきの一滴が顔のあたりまで跳んだ。
 深さは足首のあたりまでだった。ひんやりとした水が、靴の中にしみこんでくる。
 それとは違うなま暖かい何かが、踝の上にぺたりとまとわりついた。
 人の形に切り抜かれた紙。
 難しい文字がぎっしり書かれている真ん中に、自分の名がある。
 龍はあわててそれをむしり取り、反対岸の方へ思い切り投げた。
 しめった紙切れがべたんと茂みの中に落ちたとき、龍は気付いた。
「雨なんかこれっぽっちも降ってないのに、あの紙切れが川にあるのはどういうことだろう?」
 あの御札は「雨の降った翌々日に川岸に打ち上げられている物」だった。それ以外の場所で目にするはずがない。それが龍の中の常識だった。
 確かに川上から流れてくるのだろうとはぼんやりと想像してはいた。
「もしかして、ここが出発点?」
 ゆっくりと、恐る恐る、「川上」に目を向けた。
 鉄の柵で塞がれた、暗い穴。
 龍は唾を飲み込もうとしたのだけれど、口の中がカラカラに乾いていて、へんてこな空気が喉の奥を通っただけで終わった。結局、気持ちが落ち着くどころか、胸のあたりまでひりひりと痛くなって、余計に心臓がドキドキしてしまった。
 そのドキドキが、体中に血液を運んでいる。
 頭のてっぺんから足の先まで、大動脈から毛細血管まで、ドキドキとうずく。
 カラカラの喉から熱い息を吐き出しながら、龍はもう一度鉄の柵に近づいた。近づいたけれど、今度は鉄の柵にしがみつくようなことはしなかった。
 鉄の柵の脇の壁に、蔓草に覆われた鉄のはしごがかかっている。はしごは少し古い感じがしたけれど、さび止めの白い塗料が塗られているから、あまり汚れていなかった。
 壁高さは龍の背丈より1mくらい高い。まっすぐ伸びる鉄のはしごも、やっぱり同じくらいの高さがある。
 龍の足は自然に壁に向かい、手は当たり前のようにはしごを掴んだ。
 鉄のはしごの、葉っぱの影に隠れていたところはひんやりと冷たく、隠れていないところはほんのりと熱い。
 腕で体を引っ張り上げ、足で体を持ち上げて、彼ははしごをよじ登った。
 やがてはしごがとぎれた。その先の、草と地面を掴んで体を持ち上げる。
 熱い汗が額から瞼に流れて目玉にしみこんだので、龍はあわてて目を閉じた。
 水草の生臭い匂いがする風が、顔の上をなで、汗を冷やした。彼はひりひりする目と瞼をなんとか開いた。

溜池

 目の前で、まん丸い大きな池が、なみなみと水を湛えていた。
 龍は立ち上がって、辺りを見回した。
 左を向くと、そこはなだらかな傾斜地だった。段々畑と千枚田と果樹園が、ゆっくりと山肌を上ってゆく。その先に、大きな青空が、入道雲を抱えて広がっていた。
 右を向くと、やっぱりなだらかな傾斜地だった。段々畑と千枚田と果樹園が、ゆっくりと山肌を降ってゆく。その先で、盆地の底を流れる太い川が、キラキラと輝いていた。
 龍は池に近づいた。長くとんがった雑草が、すねにちくちくと当たる。
 池の端には大きなハンドルの付いた機械のような(でも何なのかよくわからない)ものがあり、そこに取水口注意、とか、危険、とか、遊ぶな、とか書いた看板が立っていたのだけれど、龍の目にはそんな物は見えなかった。
 彼の視線は、対岸に釘付けだったから。
 背の高い木々。その下に、石の鳥居と、小さなほこら。それが彼の視線の中に入る総ての物だった。
 龍の足は雑草をかき分けて進んだ。
 地面はしっとりとしめっていて、柔らかい。
 まっすぐ、まっすぐ。
 水草の生臭い風が吹き出す方向へ、どんどん進む。
その先の林と、その下の鳥居と、その下のほこらに向かって、まっすぐ。
 やがて龍は、足の裏に柔らかい感触がない事に気付いた。
 その時にはもう、彼の体は少し濁った池の水の中に落ち込んでいた。
 頭の上に緑がかった薄い黄土色が広がっている。
 それは空とは違って、べったりと刷毛で塗ったような一色ではなくて、細い筆で何度もぽつぽつと塗り分けたような、濃淡のある色だった。
 その濃淡の中に、金色の光がはじけている。銀色に光る泡が浮かんでいる。緑の藻が揺れている。
『落ちたんだ』
 そのことに気付いたとき、龍は妙に冷静だった。冷静に、泡と一緒に金の光の方へ上っていかないとダメだ、と考えた。
 ところが、体は緑の藻と一緒に沈んでゆく。
 水を吸った靴が重い。
 まるで誰かが引っ張っているんじゃないかと怖い想像をしてしまって、龍は思わず叫んだ。
 でも水の中だから声は音ではなくて、ごぼごぼとした泡の固まりになって、彼の体を残して上へと上っていった。
『待って!』
 あわてて泡の固まりを追いかけようと手足をばたつかせた。すると、かき回された水の中から銀色の光みたいな泡の固まりが次々と生まれて、それも彼を置いてきぼりにして、どんどんと上ってゆく。
『おぼれて、死んじゃうのかな』
 落胆して、体中の力が抜けてしまった龍の目の前で銀の泡が渦を巻いて上ってゆく。
 銀色の泡の渦は、竜巻みたいにぐるぐるとねじれて、細く長く伸びてゆく。
 龍のかすんだ目に、いつかテレビのアニメや見た、角の生えた「龍」が見えた。
 銀色の泡の「龍」は、身をよじって池の中を泳ぎ回る。それは嬉しそうに、楽しそうに、泳いでいる。
 その背中には、白くて優しい顔をした人が乗っていた。
「『トラ』?」
 龍が呼ぶと、その人はニコリと笑って、彼に手を伸ばした。
 龍もその人に向かって手を伸ばした。細くて白い、そして冷たい指先が、彼の手を掴んだ。
 足下の重さが途端に消えた。
 そして龍の体は、銀色の泡の固まりと一緒になって、上へ上へと昇っていった。

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