フツウな日々 22 |
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龍と、銀色の「龍」と、「トラ」は、金色の水面を突き抜けた。そしてそのまま十メートルくらい飛び上がった。
空は真っ暗だった。
カラカラに乾いた風が、カサカサに乾いた木の葉を巻き上げながら吹いている。
そして足の下には、丸く切り抜かれたような渇いた地面があった。
龍の頭は混乱した。今までいたのは確かに池の中だったのだから、飛び上がれば足の下に見えるのは池の水面の筈なのだ。
でも真下にあるのは、幼稚園の頃に遊んだビニールプールを何十倍にも大きくしたような形に丸くくりぬかれた、平らな地面だった。
黄色く乾燥した丸いへこみの真ん中で、そこだけじっとりとしめった焦げ茶色土が、ほんの少し盛り上がっていた。
その土饅頭の傍らに、呆然と立つ人影があった。
薄い緑の混じった灰色のきれいな着物を着ている。長い灰色の髪はバラバラにほどけている。
顔は見えない。男の人なのか女の人なのかも判らない。泣いているのか、怒っているのかも判らない。
でも、その人はとても疲れていて、とても悲しそうで、とても辛そうなのは判った。
「……」
小さな声がした。龍があわてて振り返ると、「トラ」は寂しそうにその人を見つめていた。
「よく聞こえなかった」
もう一度言ってとせがむと、「トラ」寂しそうに笑った。
「自分の知らないうちに、自分の大切な物を、自分自身で『壊して』しまったということに気付くと、人は自分の心を自分で壊してしまうんだ」
声が聞こえるようになっても、「トラ」が何を言っているのか、結局よくわからない。龍は目を瞬かせた。
ところが、瞼を一回閉じるたびに辺りがぐんぐん暗くなって、「トラ」の顔がどんどんぼやけていった。
龍はあわてて目の回りを腕でこすった。目玉がぐりぐりして、頬骨の上がひりひりする。
しめった、線香の匂いのする風が、ほっぺたの上を通って行った。
目をそっと開けると、ぼんやりと明るい。
「あれ?」
龍の体は、木陰の草むらの上にあった。
シャツとズボンが脱がされていて、変わりに大きめのバスタオルが体を覆い隠していた。
身を起こすと、石でできた鳥居の向こう側で、池の水面がちらちらと光っていた。
周りを見回す。
小さな古ぼけた祠がある。
小さな石塔がいくつも建っている。
小さな菊の花束がたくさん手向けてある。
お墓……そう理解した瞬間、龍はしがみつくようにバスタオルを抱きかかえたまま跳ね起きた。
目玉の端っこで、白い物が揺れたように見えた。
「うわぁ」
幽霊が出た! 恐ろしくて、でも興味がわいて、龍はそうっと白い物が揺れた方向に視線を移した。
木の枝に掛かった濡れたシャツとズボンが、池を渡ってきた重たい風になびかされて揺れている。
「なぁんだ」
龍はわざわざ大きな声で言って、自分を落ち着かせようとした。
見えたのが幽霊じゃないと判っても、他に幽霊が以内とは限らない。何しろここはお墓なのだから。
龍は背中を丸くしてバスタオルを抱きしめ、もう一度ゆっくりと周りを見回した。
動く物は木の枝や草の葉、お墓に供えてある線香の煙、そうでなければ水面に弾かれた太陽の光ばかりで、他には何もない。
薄暗い木陰に自分一人きり。あまりに寂しいので龍は「幽霊でも良いから誰か側にいて欲しい」とさえ思い始めた。
心細さに、彼はすがるように祠に近づいた。
祠の前には小さな浄賽箱と祭壇があった。
祭壇の上には紙の束が置いてある。それは風に舞わないように、とぐろを巻いた龍の形をした文鎮で押さえてあった。
その文鎮に古びた紙がのり付けされている。
「寅姫様御身代札 思い込めて人型に抜きて龍神に祈念し 水にお流し下さい お気持ちは浄賽箱へ 辰寅社禰宜」
龍は文鎮をすこしだけ持ち上げて、紙を一枚引き抜いた。
墨で文字の印刷された四角い紙は、点線に切り込みが入っていて、手で簡単に人型にくりぬけるようになっていた。
「そうか、ここがやっぱり御札が流れはじめる場所なんだ」
誰かがここで何かを念じながら人型の御札を池に投げる。雨が降って池の水が増えると、御札は川に流される。流れて流れて、翌々日ぐらいには、あの川瀬にたどり着く。
一つ謎が解けた気がした龍は、ほんの少しすっきりした気分で池を眺めた。
でもそのすっきりは、すぐに別のもやもやで覆われてしまった。