フツウな日々 27 |
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なにしろ龍の家のお風呂は、龍が生まれるずっと前に作ったもので、シャワーどころかお湯の蛇口だって付いていない。
洗い場の床はコンクリートの打ちっ放しで、冬になるとたまに隅っこの方に薄氷が張ったりもする。酷く寒いときは、お風呂が沸いてもその氷が溶けない。
洗い場は座れば背中を洗うのがやっとの狭さだから、龍が三年生に上がるころには両親と一緒に風呂に入れなくなった。なにしろ二人入るには窮屈すぎるからだ。
「使って、良いんですか?」
龍は目を輝かせて先生に訊いた。先生はにっこり笑って頷いた。
「お風呂に入っている間に服を洗ってしまいましょう。着替えは……服はシィ兄ちゃんのお古とで良いとして……下着はヒィちゃんの物の中からまだ下ろしていないのを出しますね」
『ヒィちゃん?』
先生の言う「シィ兄ちゃん」が、先生の息子さんで何とか言う会社に勤めている人のことだというのは、龍にはすぐに解った。
二年生のころ授業でちいさな芋畑を作ったときに、道具や肥料を運ぶ手伝いをしてくれた息子さんを、Y先生は「シィ兄ちゃん」と呼んでいた。
シィ兄ちゃんの本当の名前は、シリョウと言うらしい。どういう漢字を書くのか、龍は知らない。けれどその音から、いつだったか新聞のテレビ欄の下の方に載っていた「死霊のナントカ」という恐怖映画の事を想像して、一寸怖くなったのを覚えている。
(実際、映画は見ていないのだけれど)
それは兎も角、この人が「兄ちゃん」と呼ばれるからには、弟か妹がいるんだろうということとは、想像が付いた。だから、Y先生の言った「ヒィちゃん」がシィ兄ちゃんの弟なのだろうことは、大凡見当が付く。
その子は多分まだ小さな男の子だろう。何しろその子の下着を龍に貸すことができるのだから、シィ兄ちゃんのように体の大きな大人でないことは間違いない。
『シリョウお兄さんが「シィ兄ちゃん」なら、「ヒィちゃん」だと……もしかして「ヒリョウ」とかいう名前じゃないだろうか』
龍の頭の隅っこに、芋畑を作ったときにシィ兄ちゃんが担いできた、一寸臭い「肥料」の入ったビニール袋が浮かんだ。
さすがにそんな名前はないだろう。
『ヒロシとか、ヒトシとかかな』
Y先生は龍に、近所の商店のお年賀らしい新品のタオルと、赤いボール紙の箱に入ったこれも新品の石けんを渡して、
「ゆっくり入って、体を温めなさい」
と言い残し、脱衣所から離れた。
龍は生乾きの服を脱いで、すぐそこの脱衣籠の中に投げ入れた。服はボタッと重たく落ちて、籠の縁に引っかかり、だらしなく伸びたくしゃくしゃの固まりになった。
直後、先生の家のお風呂を借りて、しかも洗濯もして貰えるというのに、こんな風に服を脱ぐのは、礼儀に叶っていないんじゃないかと思い直した彼は、服を籠から取り出して、たたんで入れ直した。
他の人から見たら投げ込んだのと大して変わらないダラリンとしたたたみ方だったけれど、本人は丁寧にやったつもりだった。
お風呂場には湯気が一杯に立ちこめていた。
龍はシャワーを浴びようとして温度調節を間違って冷たい水を浴びた以外は、快適なバスタイムを過ごした。
体を洗い終わって、湯船に使っていると、脱衣所との仕切のガラス戸に、人影が映った。
磨りガラス越しの上、湯気の充満した洗い場の空気越しだから、はっきりとした輪郭は判らないけれど、その小柄な影は、手にたたまれた服やバスタオルを持っているように見えた。
影は持っていたバスタオルや服らしい物を脱衣所に置くと、一言も声を出さず、そのまま出て行った。
「Y先生?」
湯船から飛び出した龍は、髪の毛からぽたぽた水を滴らせながら、脱衣所のドアを少し開けた。
もうそこには誰もいなかった。
脱衣籠の中からは龍が脱いだ服がなくなっていて、代わりにキレイに洗濯された服やバスタオルと、新品の真っ白な下着が入っていた。
『やっぱりY先生だ。だったら何か一言ぐらい声をかけてくれたって良いのに』
妙に寂しい気分になった。