フツウな日々 34 |
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「たしかに年を取っている。龍のお母さんよりも十歳くらい年上かもしれないけれど、それでも見た目ほどお婆さんじゃないんだ」
「トラ」はうつむいた。
涙の粒が二つ、ぽとんと腿の上に落ちた。
龍は尖らせていた唇をくるりと引っ込めた。
小学生にとって、自分の母親が高齢だということは、とても恥ずかしいことなのだ。
たとえば、クラスの誰かがクラスの誰かの母親を『若くて美人』と言ってくれたなら、言われた方はおそらく自分が褒められたみたいに喜ぶだろう。
当然、逆のことを言われたら、自分がバカにされたみたいに思えて、怒るか悲しむかするだろう。
そうやって喜んだり怒ったりしている当人に、「若くてきれい」がなぜ嬉しくて、「年を取っている」がなぜ悔しいかを聞いたところで、明確な理由などは返ってこないに違いない。
「仕方のないことなんだ。お母さんは結婚するのも遅かったし。それに病気になってひどく痩せてしまったり、強い薬のセイで髪の毛が白髪になってしまったりしたものだから、余計に年を取って見える」
鼻水をすすり上げると、「トラ」はゆっくり顔を上げた。
それからさっき指を全部折って、げんこつになった手の甲で、目の周りをごしごし拭いた。
「ごめん」
龍は下唇を咬んだ。
彼女は小さく首を横に振り、ふわりと笑った。そうして、
「お母さんがボクを『トラ』と呼ぶのは、お母さんに取ってボクは『トラ』だから」
さっき折ったばかりの人差し指をピンと伸ばした。
そのすぐ後、今度は中指がピンと伸びた。
「用具室の鍵が外から掛かっていたのは、ボクが中に入っている間に、外から鍵が閉められたから」
言い終わると同時に「トラ」が薬指を伸ばそうとしたので、龍は慌てて彼女の手を覆うように握った。
「閉められたら、開けてくれって叫べばいいじゃないか」
彼は顔を思い切り「トラ」の鼻先に寄せた。
彼女は龍の目をじっと見て、小さな声で答えた。
「狭いところが怖いんだ。暗くて狭いところに長くいると、怖すぎて何もできなくなる。用具室はとても暗くて、狭くて、暑苦しかった。だから怖くて……怖すぎて、心臓がバクバク脈打って、息が苦しくなって、叫べなかった」
龍は唾を飲み込んだ。
暗くて狭くて暑苦しい場所。半地下の、穴蔵の中で、座り込んでいる「トラ」のすがたが、目玉の裏側に浮かんできた。
「じゃあなんで、わざわざ用具室になんか入ったりするのさ」
言った後で、龍は
『きっと「トラ」は用具室に掃除用具かなにかを取りに入ったに違いない』
と思いついた。それ以外に怖くて仕方がない場所に入る理由なんてないのだから。
そこで彼は、おずおずと小さな声で付け加えた。
「ほうき? モップ? バケツ? ワックス?」
「トラ」は四回首を横に振った。
「そこで待っていろと言われたから」
消え入りそうな小さな声で、彼女は答え、うつむいた。
「誰に?」
当然、龍は訊いた。「トラ」は首を横に振った。
誰だか知らない人だったのか、それとも知っている人だけれど答えたくないのか、それは龍には分からない。
「そいつは『トラ』が狭いところが嫌いって知ってた?」
龍は続けざまに訊く。「トラ」の返事はさっきと同じだった。
やっぱり知らない人だったのか、知っている人だったのか、分からない。
「トラ」はうつむいたまま黙り込んだ。龍の手の中で、彼女の手が小石のように硬く冷たくなってゆく。
龍は両手を開いた。そして真っ白に固まった「トラ」の手の、薬指をぎゅっと引っ張った。
「何で学校にいたのさ」
できるだけ優しく聞いたつもりなのだけれど、「トラ」にはそう聞こえなかったようだった。
すぼめていた肩が、びくりと跳ねた。
「一応、生徒だから」
下を向いて彼女はようやっと答えた。
龍は仰天して、思わず大きな声を上げた。
「クラスは? 学年は?」
「トラ」の顔がゆっくりと持ち上がった。
青白くて小さな顔は、寂しそうに怒っていた。