フツウな日々 36 |
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伽羅の(もちろん、龍はそんな難しい香木の名前なんか知らないのだけれど)柔らかい香りが、風に乗って流れている。
「姫ヶ池のお姫様の事だけれど」
龍のぼんやりとした顔から目を背け、「トラ」はゆっくりと言った。あんまりゆっくり過ぎて、次の言葉がなかなか出てこないほどだ。
止まってしまったのは言葉だけでない。
横を向いた「トラ」は、視線を開け放った掃き出し窓の向こうに投げたまま、しばらく口をつぐんでいた。
まるでゼンマイの切れたおもちゃが、ぴくりとも動かなくなった時のようだ。
あんまり長く声を出さないので、龍の深く落ち沈んでいた心は、心配でドキドキと脈を打ちながら浮かび上がってきた。
彼は「トラ」が見ているのと同じ方向を見た。
きれいな庭があった。さっきまで自分がいたお風呂のある建物と、その反対側に小さな濡れ縁のある離れが建っている。
「姫ヶ池のお姫様の事だけれど」
もう一度、「トラ」が言った。
龍は、また黙ってしまうのではないかと心配して、慌てて彼女の顔に視線を戻し、見つめた。
彼女は相変わらず庭を見ていたけれど、心配は杞憂だった。今度はすぐに次の言葉が出てきた。
「君がどこでどんな寅姫さまを見たのか知らないけれど、ボクと似ていても不思議はないのかもしれない」
「どうして?」
すぐさま龍が訊ね返す。「トラ」は庭を見つめたまま、答えた。
「姫ヶ池で寅姫さまが人身御供に成って、しばらく経った頃。池の工事の人足で、最後に人柱の穴を埋めた……つまり、寅姫さまを生き埋めにしたって事だけど……その人は、毎日池にやってきて、
『寅姫さまがあの世で幸せに暮らせますように。寅姫さまのお父上の普請奉行さまも、哀しみから解放されますように』
と願って、念仏やらお題目やら祝詞やら、神仏ごちゃ混ぜになってたけど、兎も角一生懸命お祈りをしていた」
「トラ」はうっすらと微笑んだ。
その途端、龍は自分の身体がデパートのエレベータに乗って一息にぐぅんと持ち上げられたみたいな、おかしな気分になった。
おかげで少し気持ちが悪くなって、思わず目を閉じて、でもすぐに目を開けた。
そこに、「トラ」の横顔は無かった。
あるのはキラキラと光を弾く水面。それも、ずうっとずうっと「下」の方に見える。
龍の身体は、高い空の上にあった。そうして、低い地面を見下ろしている。
思わず悲鳴を上げそうになったとき、
「うわぁ!」
自分ではない誰かが大声で叫ぶのが聞こえた。
目をこらしてみると、池の畔の地面の上で、男の人が一人、腰を抜かして座り込んでいるのが見えた。
男の人は皿のように目を見開いて、上を見ている。何か信じられない物を見てしまったというような目だ。
その目の先に、龍の目があった。
龍も何か良くわからないものを見たと言うような目で、男の人を見つめ返した。すると男の人は、ガタガタ震えながら龍に向かって手を合わせた。
「南無法蓮華経、八百万の神等を神集へに集へ給へ、般若波羅蜜多、オラショ、オラショ、神様仏様龍神様、どうかお助けをぉ」
龍には男の人が何を言っているのかさっぱり解らなかった。だから
『なんだか良くわからないよ』
と言おうと思った。ところが、口から出たのは、
「おまえが寅姫を池の底に沈めた百姓か?」
という、雷のような声だった。
龍は吃驚したが、男の人もそうとう吃驚していていた。目を剥き、血の気の失せた真っ白な顔を、何度も小刻みに縦に振った。
龍には何が起こったのか解らなかったのだけれども、龍の口は勝手に動いて、こう言った。
「我は水の操り人。龍脈の流れを動かし、この地に水を引きしは、寅姫のたっての望みなれば、我は見返りに姫を所望し、姫はそれに応え、我が妻となりし。さりとて龍脈を押さえるに、我が力常にここにあらねばならぬも、さて我らに棲む社ぞなきし」
自分の口が言っているらしいのに、龍にはその言葉がさっぱり解らなかった。
解らないのは、どうやら足下の男の人も同じようだった。真っ白な顔、真っ青な唇を不安そうに奮わせている。
龍は自分でもどうしたらいいのか解らなかった。だいたい自分の方が、身体がものすごく高いところにあるらしいと言うことが怖くて、泣き叫びたくなっているというのに。
その時。
「男子がこの程度のことで驚いてはなりません」
その声は、龍のすぐ隣から聞こえた。