フツウな日々 37 |
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声のした方を見ると、そこはやっぱり空中だった。そして声の主は、白い着物を着て、長い髪の毛を後ろで縛って、赤い口紅を塗って、ずいぶん背が高いのだけれども、やっぱり
「トラ」
だった。
彼女の名をつぶやいて、やっぱり龍は自分の口と声が妙だと思った。
自分の口から出ている(らしい)声は、まるで台風の風か、嵐の濁流のように、轟々と荒々しい音なのだ。
解らないこと、奇妙なことだらけなものだから、龍は不機嫌に首を傾げた。
すると空中に浮いた、元々大人びているのにもっと大人っぽく見える「トラ」は、龍に向かって優しい笑顔を向け、そのあと足下で震えている男の人にも同じように笑いかけた。
「我はかつて寅姫という人間であったものです」
ゆっくりと彼女が言うと、男の人は目玉が落ちるのではないかと気を揉むくらいに目を見開いた。
「寅姫様は池の底じゃぁ」
真っ青な唇をブルブルガタガタ震わせて、彼はようやくそれだけ言った。
「トラ」は微笑んだままこくりとうなずいた。
「寅姫は池の底。あなたが掘った穴の底。あなたが埋めた穴の底」
途端、龍は気が付いた。
『この男の人が、ヒトバシラの時にオブギョウサマに命令されて寅姫の穴を埋めた人か』
多分男の人は、偉い人の命令だったし、寅姫自身が「そうしろ」と指示したことではあるけれど、自分が埋め殺してしまった姫のことを考えて、毎日かそれに近い間隔で池に来て、念仏とお題目と良くわからない呪文やお祈りのぐちゃぐちゃに混じったものを唱えているに違いない。
そんなところへ寅姫が目の前に現れたのだから、男の人の震えては益々大きく成ってしまった。
「怖がらなくても、嘖まれなくても、悲しまなくても良いのですよ。今、妾は池の上にいます。この水神の龍が妾を助けて、引き上げてくれたからです」
寅姫の「トラ」は龍の方をちらりと見ていった。
龍はびっくりして「トラ」の顔を見た。
大きくて黒い瞳の中に、漫画で見たような髭と角の生えたトカゲの化け物みたいなモノが映っている。
龍は益々びっくりして、足の下の男の人と同じように声を出すことができなくなってしまった。
男二人が押し黙ってしまっって、とても静香になった中、寅姫の「トラ」はすごく小さくて、それでいてとても良く耳に届く声で話を続ける。
「元々この場所は、池を作ったところで、わき水を溜めるどころか雨水を溜めることもできない筈でした。
しかし龍神は、人が川を灌漑するように、龍は水と風の流れを曲げられるから、夏でも水の枯れることのない立派な池を作ることができると言いました。
そこで妾は龍神にそのようにしてくれと頼みました。龍神は引き受けてくれたのですが、水と風の流れを曲げることはできても、それを曲げたままに留めておくのは難しいというのです。
力ずくで曲げた流れが漏れてしまわないようにするには、龍神がここに住んで、龍の身体で堤を拵えないとならないとなりません。
そのためには龍神の家であるお社を建てて貰わないといけないのです。
……と、龍神は言ったのですよ」
大分優しく説明したので、男の人には理解出来たらしい。唇の青いのや、ガタガタした震えが収まっている。
それでも龍にはまだすこし難しく聞こえた。
それに「トラ」の説明には、何か重要なことが抜けているんじゃないかという気もした。
ところが龍神の龍が寅姫の「トラ」になにかしら声を掛けようと思ったより早く、彼女の次の言葉が始まっていた。
「そこで、あなたにお願いです。この池のほとりの鬼門の方角に、社を造って下さいませんか?」
「龍神様がお住みになるんですか?」
男の人は見開いた目で龍を見た。目玉はものすごく高いところから水面まで、とても長い距離をなぞって動いている。
「そりゃぁとんでもなく大きくて立派なお宮を建てねばならんのでしょうか?」
かなり不安そうな声で男の人は訊ねた。
「心配ありません。龍は川よりも長い身体を、わらしべより小さくすることができます。ですから社はとても小さな物でよいのです。屋根があって、壁があって、出入り口があれば……そう、庄屋さんの家の仏壇よりも二回りほど小さい物を建ててくださいな」