フツウな日々 41 |
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二人がうなずきあって、笑いあった丁度その時、
「さて、話は済んだかしら」
すぐ近くで、静かな声がした。
振り向くと、そこにはY先生と、先生の息子さんのシィお兄さんが立っていた。
「そろそろ帰った方が良いだろう。ご両親も心配していると思うよ」
シィお兄さんはそういって、龍にビニルの袋を渡した。ほんわりと暖かいその袋をのぞき込むと、さっきまで自分が着ていた服が、きちんと畳まれて入っている。
「急いで乾かしはしたけれども、念のため帰ったら一度お日様に当てた方が良いわね」
Y先生は口では龍に話しかけていたけれども、視線は「トラ」の方に向いていた。その目の色は、ちょっと叱っているような、厳しいモノだった。
さっきまでにこにこと笑っていた「トラ」の顔から、笑顔がすっとかき消えた。彼女は背筋をピンと伸ばして、まだ少し濡れている目の周りをごしごしと拭き、ちょっと乱れていた髪の毛を手櫛でなでつけた。
その動作はからくり時計の仕掛け人形のような正確で、機械的だった。
彼女の硬い仕草に、龍はぎくりとした。「トラ」が怒られてしまうと感じたからだ。
彼女は怒られるようなことをしていないと龍には思えたけれども、Y先生の目の色は間違いなく怒っている。
だから龍は「トラ」と同じように背筋を伸ばし、「トラ」と同じように顔と髪の毛を整え、先生の顔をじっと見て、大声で言った。
「ごめんなさい」
Y先生とシィお兄さんと、そして「トラ」が、一斉に吃驚した顔を彼に向けた。それから、
「どうしたの?」
みんな一斉に訊いた。
龍はピンと背筋を伸ばしたまま、答えた。
「良くわからないけれど、ごめんなさい。『トラ』は……えっと……ヒメコさんは、悪くないので、謝る必要はないから、僕が謝りますので、叱らないでください」
文字に起こすとなんだか良くわからない言葉になってしまうだろうけれど、龍は自分の頭の中を自分なりに整頓して、精一杯言葉にしていたのだ。
そんなわけで、言い終わった後、彼は妙にさっぱりした気分になっていた。
ただ、そのさっぱり感は、実のところ「自己満足」以外の何物でもないことに、その時の彼はちっとも気付いていなかった。
それによって状況が好転したとか、逆に悪化したとか、そう言うことは彼にとってまるきり関係なくて、とりあえず自分の脳みその中はすっきりしたので、すっかり満足していた。
だから、伸びていた背筋がすこしぐにゃりとした。顔もだらしなくにやけた顔になった。
Y先生とシィお兄さんは、ちょっとだけ呆れたような顔をした。
そして「トラ」は、大分呆れたような顔をした。
彼女は何か言おうと思ったようで、大きく口を開けて息を吸い込んだ。でも、そのまま口を閉じてしまい、息も鼻から吐き出して、声にはしなかった。
息を出す間、彼女はじっくりと言葉を選んでいたのだ。でもなかなか良い言い回しが浮かばないらしくて、だから肺の中が空っぽになりかけているのに、無理矢理空気を吐き出し続けた。
ようやっと何かを思いついたらしい頃には、彼女の鼻からは綿毛も揺らせられない幽かな空気が漏れている程度になっていた。
危うく窒息しそうになっていた「トラ」は、大きく胸を開いて、勢いよく息を吸い込んだ。そして、こんどは息を口から吐き出して、言葉にした。
「きみは大人になったら大損をするタイプだと思うよ」
その言葉には同情と心配とが、ぎっしり詰まっていたのだけれど、自己満足にとろけていた龍の脳みそでは、細かい意味とか含みとかいうものを理解することなんかできなかった。
彼はへらっとした笑顔を彼女に向けて、ちょこっと小首を傾げた。
「そうかな?」
「トラ」は返事をしなかった。かわりに口元に苦笑いを浮かべた。
「ボク、これから母さんの所に行かないといけないんだ。姫ヶ池に行ったのがばれちゃったみたいだから、謝らないと。ボクは行っちゃいけないことになっているから」
龍は瞼を痙攣させた。
「それは『トラ』が女の子だから? さっき、寅姫さまの祠を守るのは男の子の仕事って……」
「確かに祠の仕事をするのは男の役目だけれど、女の子が近づいちゃいけないって決まりはない。だけど、ボクはあそこに行っちゃいけない事になってる。少なくとも、ボクの母さんはそう思ってる」
「なんで?」
龍は興味本位の軽い気持ちで訊いた。
「トラ」は深刻な重い口調で答えた。
「あそこに、ボクのお墓があるから」