フツウな日々 42 |
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彼女の笑顔は口調の重さとはまるきり逆さまに、すこぶる軽く、明るかった。
だから龍は彼女が廊下に出てしまって、その背中が視線から消えて無くなっても、しばらくは言葉の意味を考えられなかった。
ようやっと「その意味」を考えられるようになれたのは、ごつごつと四角くて格好いい大きな自動車の助手席に、シートベルトで固定されたときだった。
隣を見ると、ちょうど運転席に座ったシィお兄さんが、なんだか楽しそうに微笑みながら、キィを回すところだった。
ギリギリと何かが空転する音のすぐ後に、大きくて細かい振動で、座席と床と天井とドアが震え始めた。そのリズミカルで規則正しい振動で、龍の全身もブルブルと震えた。
満足そうににやっと笑ったシィお兄さんだったけれども、助手席の龍をちらっと見た途端、心配そうな顔つきになった。
「顔が青いよ」
龍は震えながらうなずいて、
「さっき『トラ』が、自分のお墓があるって言った」
ようやくそれだけ言い、たすき掛けになっているシートベルトを、すがりつくみたいに握りしめた。
「ああ」
シィお兄さんは小さく笑って、アクセルを少しだけ踏んだ。
車がそろりと動き始める。
「寅のお墓は、確かにある。ヒメコは自分のお墓って言っているし、どうやらそう思ってもいるようだけれども、本当はそうじゃない。だってそうだろう? 生きてるウチに自分のお墓を建てた大昔の王様じゃあるまいし、アレがヒメコのお墓なら、彼女はあの墓石の下にいなきゃいけないんだ」
四つ辻にさしかかり、シィお兄さんは軽くブレーキを踏んだ。龍の身体がほんの少し前にずれた。シートベルトが肩に食い込む。
胸が押さえつけられて苦しいのは、シートベルトのセイばかりじゃない。彼の全身の周りには、目に見えない土の壁があった。
龍の心は湿って暗い縦穴の中に落ち込んでいる。
それは姫ヶ池の人柱の穴の中。小さな墓標の納骨堂の中。
同じ場所に真っ白な顔をした「トラ」が、ぴくりとも動かず正座していた。
左右を確認したシィお兄さんはアクセルを踏み直した。
「でもヒメコは墓穴なんかにはいない」
真正面を見たままニコリと笑ったお兄さんは、すぐに小さく付け足した。
「……伯母さんの離れは墓穴だって話もあるけど」
龍にはその小声の意味が分からなかったのだけれども、質問を口に出す前にお兄さんが次の言葉をしゃべり始めたので、止めた。
「ヒメコのお母さんは、つまり俺の伯母さんなんだけど、結婚してしばらく子供ができなかったんだ。跡継ぎができないからって、お祖母さんに酷くいじめられてた」
「跡継ぎ?」
「ウチは古い家だからね。どうしても男の子が生まれて欲しかったらしいよ。伯母さんの所に子供ができないでいる間に、ウチの両親の間に俺が生まれたわけで。だから余計に男の子を産みたいと思ったらしい。毎晩辰寅神社の……あの池の神様だけど……あそこにお参りに行っていた」
龍は想像した。
真っ暗な池の縁に立つ、着物姿の人影。
水面を駆ける風になぶられて揺れる髪の毛。
顔は見えないけれど、悲しそうな背中。
想像するだに恐ろしくて、声も出ない。
「だから、ようやっと子供ができて、それが男の子だったのがとても嬉しかったんだろう。寅って名前を付けたその子を、とてもかわいがった。
あの日、伯母さんは自分で車を運転して、ちょっと遠くのデパートに買い物に行った。夏で、とても暑かったけど、日陰の駐車場に停めた車の中は涼しくて、寅は助手席でぐっすりと眠っていた。
伯母さんは寅を車に残して、そのまま買い物に出た。すぐに帰ってくるつもりだった。確かにすぐに帰ってきたけれど、車の中の温度の上がり方は、伯母さんの想像よりずっと急激だった。
寅はすぐに救急車で運ばれたけれども、病院に着いたときにはもう息をしていなかった」
暑いところに閉じこめられて、全身が真っ赤になって、汗が出なくて肌がカサカサに乾いて、呼吸をしていない「トラ」という名前の子供。
狂乱して名前を呼んで、子供の身体を揺り動かす母親。
龍の喉の奥はチリチリと灼けて、唾も飲み込めなくなっていた。