フツウな日々 43 |
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「人間の脳みそには便利で大切な機能があるんだ。それは忘れるって事」
龍は渇いた口を半開きにして、シィお兄さんの横顔を見つめた。
忘れ物をしたり、約束を忘れたり、憶えたはずの漢字を書取テストの直前に忘れちゃったりすると、大人も子供も怒るのに、その「忘れる」ことが大切なことだというお兄さんの言葉が、彼には理解出来なかった。
「ものすごく悲しかったこと、痛かったこと、怖かったこと。そういう辛かったことをずっと憶えていると、何かの拍子にそれを思い出したとき……そのときには楽しかったり嬉しかったりしていても、急に悲しい気分や怖い気分になるかもしれない。そうなったら大変だよ。
車を運転しているときに急に怖くなったら、心がドキドキしてブレーキやアクセルを間違えて踏んでしまうかも知れない。
料理や工作をしているときに急に辛くなったら、身体がこわばって刃物や道具を落としたり間違ったスイッチを押しちゃったりするかも知れない。
道路を歩いているときに急に悲しくなったら、涙で前が見えなくなって道の真ん中でうずくまってしまうかも知れない」
龍は目をぱちくりさせた。
シィお兄さんの言っていることがさっぱりわからない。
彼のぽかんと開いた口を横目で見たお兄さんは、軽いため息を鼻から吐き出してから、別の例え方で話した。
「急に誰かの怒った声が聞こえたら、自分が叱られている訳でもないのに、身体がびくっとしたり、持っていた物を落っことしたりしないかい?」
目玉ぱちくり、口ぽかんのまま、龍は何度もうなずいた。
お兄さんの言葉には、思い当たることがある。
彼の父親がすごく大きな声で息子の名を呼ぶときは怒っているときで、そんなときに叱られようものなら、パンツがびしょぬれになること請け合いに怖い。
でも、怒っていなくても大きな声で呼びつけることがある。
それはたとえば父親が『息子は自分から遠くに離れたと所にいる』と思い込んでいるようなときだ。
そう言うときの呼び声は、ものすごく怒っているときの声によく似ているものだから、実はすぐ近くにいたりする龍は、曲げた金定規が戻るみたいな勢いで背筋と手足を伸ばし、そのまま硬直して動けなくなる。
運が悪いとそのときに手にしていた物を落として壊したり、ホントに叱られたときと同じに小水をちびったりしてしまい、そのセイで本当に叱られてしまうことだってある。
「それは君が、前に大きな声で叱られて怖かったと言うことを憶えているからだよね」
龍はいつだったか父親がお土産に買ってきた張り子の赤い牛みたいに何度もうなずいた。
「それは、叱られたときとよく似たことが起きたから、怖いことを『思い出した』んだ。思い出すまでは『忘れて』いる。忘れている間は、怖くない。」
シィお兄さんは正面の赤信号をじっと見たまま、優しい声で言った。龍は米搗飛蝗みたいにうなずいた。
「だから忘れることは大切なことだ。いつでも何処でも怖いことを思い出してしまうようじゃぁ、何をするのも怖くって何もできなくなってしまう」
信号が青に変わり、お兄さんはアクセルを軽く踏んだ。車がゆっくりと動き出す。そのゆっくりに合わせて、お兄さんもゆっくり話を続ける。
「人間の脳みそは、ものすごく辛いことやものすごく悲しいことを忘れたり、思い出さずにいられるようにする能力を持っている。
だからものすごく辛い思いをした人の中には、たまにだけどその辛いことを全部忘れてしまう人もいる。
大きな事故で大きな怪我をして、ものすごく痛がっているけれど意識はあって、救急車の人とかお医者さんとかとしっかり会話をしていた人が、手術が終わって目が覚めたら、何で自分が入院している理由が分からなくなったりするんだ」
「不思議」
ちょっとだけ唾が出て、前よりは湿った龍の口の中から、一言だけ言葉が出た。
シィお兄さんは小さくうなずいた。
「伯母さんも、そうだった。確かにとても悲しそうだったけれど、お坊さんやお葬式に来てくれた人や、家族と普通に話しができた。お墓にお骨が入るまでの間も、普通に起きて、普通にご飯を炊いて、普通にお掃除をして、普通に暮らしていた。
でも、小さな寅の小さなお骨がお墓の中に入ったその次の日、眠って起きた伯母さんは、全部忘れていた。
寅の納骨のこと、お線香をあげに来てくれた人のこと、お葬式のこと、病院のこと、事故のこと。
そして、寅が生まれたことも」