フツウな日々 47文章書きに送る50枚の写真お題

 麦茶が薄まってしまうのが惜しくなった龍は、慌てて麦茶を飲み干した。
 コップの底の氷をはジワジワと溶け続けた。
 しかし刺すようだった暑さは、いつの間にかまとわりつく蒸し暑さに変っていた。
 重なり合っていた透明なかけらが、からりと崩れた。窓から差し込んでいた痛いほどの日差しが、不意に消えた。
 龍が顔を持ち上げると、目の前で窓ガラスが小さく、しかし不気味に揺れた。
 雷鳴がなっている。
 音より大分遅れて、フラッシュが焚かれる。
「遠いな」
 店の方で父親がつぶやいた。
 途端。
 鼓膜を突き抜ける轟音が、まぶしい閃光とほとんど同時に鳴り響いた。
 龍は仰天して立ち上がり、母親は耳を押さえてうずくまった。
 そして父親はせっかく拾い集めた売り物をもう一度ばらまいていた。
 でも、床に缶ケースが落ちる音は、龍の所までは聞こえてこなかった。
 なにしろ堰を切ったように激しい雨が降り出して、屋根やら地面やら窓ガラスやらを敲き始めたからだ。
 地面をもやのようなものが覆っているのが、戸の隙から見える。叩きつけられた雨の飛沫か、それとも溶けるほど熱くなっていたアスファルトが湯気を噴いているのかはっきりしない。
 ただそのもやが、猛烈な湿気となって店の中に侵入してきているのは確かだ。
「今度は近いぞ」
 幾度目かの雷鳴を聞きながら、龍の父親は大あわてで戸締まりを始めた。
 古屋の木製の敷居が水気を吸って膨張し、タダでさえ立て付けの悪い引き戸は、ガタガタ言うばかりでなかなか閉まらない。
 目に見えない湿気の波は、あっという間もなく売り物のうちで、紙や布でできた物を飲み込む。
 大学ノートの表紙が湿気を吸い込み、ほんわりとふくらんだ。
「龍、裏の雨戸、締めて」
 母親が白い顔で言う。龍には蚊の鳴くような小さな声に聞こえたのだけれど、母親は実際には普段より大分大声でしゃべっていた。
 何しろバケツの底が抜けた見たいな勢いの大雨だから、雨音だって並じゃない。どんなに大声を出したところで、空の慟哭には敵いやしなかった。
 龍の返事だって多分母親には聞こえていないだろう。彼女は夫と一緒になって店の戸を閉めたり、棚にビニルのシートをかぶせたりしていた。
 龍は居間から飛び出した。小さな家だから、戸という戸、窓という窓を閉めて歩くのに、それほど時間はかからない。
 自分の部屋、両親の部屋、廊下の突き当たり、風呂にトイレ、とくるりと回り、最後に中庭に面した掃き出し窓にたどり着いた。
 木枠に似合わない銀色のアルミサッシを閉めながら、龍は猫の額ほどの中庭をちらりと覗いた。
 いつか見た消防車のホースから噴き出す水みたいな勢いで、雨樋から水があふれ出ている。それは庭の隅に掘られた細い排水溝では、とうてい処理しきれない水量だ。
 庭は、すっかり池みたいになっている。
 龍は大きなガラス張り付いた。透明な自分の姿の向こう側で、雨粒が跳ねている。
 茶色に濁った水の上に大きな雨粒が突き刺さり、はじき飛ばされて粉々に砕けた水滴が、雲のように水面を漂う。
 閉めた窓の髪の毛ほどの隙から、土の匂いがする湿気が、じっとりと染みこんできた。
 家中ぐんぐんと湿っぽくなってゆく。龍がおでこをくっつけている板ガラスも曇り始めた。
 雨脚はちっとも弱まらない。
 天空から落ちる大量の水が地面を殴る音と、天井から落ちる大量の電気が空気を裂く音以外、なにも聞こえない。
 龍は目を閉じた。
 轟々、ザアザア、ゴロゴロ。
 それは彼の耳に、なんだか懐かしいような、嬉しいような響きとして入ってきた。
 流れる水、揺れる空気、漂う白い影。
『どこで聞いた音だろう』
 思い出そうとして龍が目を開こうとしたその瞬間、空が光った。
 痛いほど明るい光が瞼の隙間をこじ開け、網膜に突き刺さる。
 鼓膜の奥で高い金属音が反響する。
 びりびりと音を立てて震えるガラスから、龍ははじき飛ばされた。
 彼の身体は廊下を転がり、障子を二枚ばかり倒して、古い和箪笥にぶつかり、ようやく止まった。
 光と音と、そして体中の痛みに、彼は全身を振るわせた。
 顔を上げると、和箪笥わずかに揺れているのが見えた。
 倒れる……慌てて飛び退いたとき、和箪笥の上に積まれていたボール紙の箱が2つ3つ崩れ落ち、龍の足下でぱっくりと蓋を開けた。
 引き出物のタオルや良い匂いのする石鹸が床に散らばった上に、白い紙切れが降り注ぐ。
 それは人の形に切り抜かれ、幾つも難しい字が書かれていた。


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