フツウな日々 48 |
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また雷光が輝いた。
家がビリビリと揺れる。
天井近くでブツンと音がして、電灯が消えた。
昼間なのに真っ暗になった部屋の隅に、白い着物を着た女の人が立っていた。
いや、立っていると言うよりは、浮かんでいると表現した方が正しいのかも知れない。
確かにそこに姿は見える。でも確かにそこに彼女は居るらしい。
『幽霊だ!』
龍は雷が自分の頭に落ちたみたいに驚き、震えた。
光なのか影なのか区別が付かないぼんやり加減で見えるその女の人は、龍をじっと見て、ふわっと笑った。
真っ白な顔、黒い瞳、薄紅の唇。
「『トラ』?」
思わず口をついて出てきた言葉に、龍自身が驚き、そして無性に恐ろしくなった。
女の人は龍を見つめて微笑んだまま黙っている。そうとも違うとも答えてくれない。
返事のないことが余計に恐ろしい。
龍は汗ばんだ腕で眼の回りをごしごしと拭いてから、かっと瞼を開いた。
女の人は、確かに「トラ」によく似ているけれど、「トラ」より少し背が高いし、「トラ」より大分髪の毛が長いし、「トラ」よりずっと年上のようだ。
龍は生唾を無理矢理飲み込んでから、もう一度訊いた。
「寅姫さま?」
女の人は返事をしなかった。
その代わり、笑顔を大きくした。
龍はホッと安堵の息を吐き出した。
おかしな事だけれど、目の前に幽霊が居るっていうのに、ちっとも怖く感じない。
――幽霊が「トラ」出なくて良かった。
――「トラ」が幽霊になっていなくて良かった。
そればかり考えて、安心し、喜んでいる。
でもすぐ困ったことに気付いた。
寅姫さまの幽霊らしき女の人は、ただ微笑むばかりだ。どうしてここにいるのか、何をして欲しいのか、何の説明もしてくれない。
仕方がないから龍は質問することにした。
「どうしてこんな所に居るんですか?」
寅姫さまはやっぱり答えてくれなかった。
それは龍が予想したとおりだったけれど、そんな予想が当ったって、ちっとも嬉しくなんかない。
「困ったなぁ」
龍は頭を抱え、今度は困惑のため息を吐いた。
すると、寅姫さまはふんわり、すぅっと彼の膝元までやってきた。そうして、ひんやり細い手指の先を彼のおでこの真ん中にあてがった。
ほんの軽く触られただけなのに、龍の身体はぐいっと押しつけられたみたいに重くなった。
床は重さに耐えかねて歪み始めた。
身体はぐんぐん床に押し込まれる。
まるで、できあがって一時間くらい経った頃のカレーの表面に貼った薄い膜の上に乗っけたしゃもじみたいに、龍の身体はゆっくりと床にめり込んだ。
でも龍は、痛みとか苦しさとかは、ちっとも感じなかった。
なにしろ、溶けてゆく床は暖かいし、寅姫の手はひんやりと心地よい。それに目の前の寅姫はずっとにこやかに笑っている。
何か恐ろしいことが起きるような予兆は、これっぽっちもない。
龍は真っ暗な場所に落ち込んだのに、まるきり怖くなかった。むしろ、居心地が良かった。
そこはふわふわした場所だ。
体の回りには暖かい液体が満ちていた。
だのに、息はちっとも苦しくない。
周囲は薄暗く、仄明るい。
龍は自分が宙を漂って居るんじゃないかと感じた。
実際、彼は漂っていた。ただし、空中ではなく、水の中だけれども。
そしてそれは、緑がかった黄土色の水……。
「姫ヶ池の中だ」
龍は漠然と理解した。
「でもこの間より濁っている」
水の中なのに息苦しくないと言うことよりも、その水が酷く汚れていることの方が、龍には不思議であり、気がかりだ。
「それに天井が低いみたいだ」
濁った水の彼方に見えるかすかな光に、彼は手をかざした。
長い爪、節くれ立った指、大きな甲の、逞しい手が、彼の頭上にあった。