小懸 ―真田源三郎の休日―




 まごうことなく、森武蔵守長可その人です。
「……これは、一体?」
 義昌殿が驚き、怯み、そして震え上がるのは当然のことでありましょう。
 眉が太く髭の濃いところを除けば、まるで若党かおなごのような優しげな顔に笑みを満たした森武蔵守長可殿は、
「なに、この時節暑さが厳しかろうから、兵の消耗を考えればこちらへ着くのは明日あたりと踏んで、過日はそのつもりでお伝えしたのだがね。ところが今日の日和と来たら、春先の如き涼しさであったろう? 御蔭で道行きが捗ること、捗ること!」
 半ば武装とも云えそうな旅装を解かぬ侭に、義昌殿の真正面にドカリと腰を下ろされました。
「ところが着いてみれば門が閉まっているではないか。致し方なく叩いたと云う次第だ。しかし伊予殿、城主たる貴殿を前にこのように云うのは申し訳ないが、この城はあまり堅固とは云えぬぞ。木槌二つで門扉が壊れるようでは、のう!」
 膝を叩き、さも楽しげに声を上げて笑われたそうです。
 この時義昌殿は、鬼武蔵殿の哄笑と、得体の知れぬ「音」が混じった物を聞いたに違いありません。
 庭と知れず、屋内と知れず、不寝番の者共も、眠っていた者共も、恐慌を起こして走り回っていました。ありとあらゆる場所で、味方、あるいは「客」と鉢合わせが起きていたのです。叫び声、わめき声、泣き声、物がぶつかる音、壊れる音、壊される音が、城内到る処で立ち、到る処から響いていたはずです。
 あるいはしかし、耳にしても聞こえてこなかったのやもしれません。
 義昌殿とすれば、周到に計画し、万全の容易をして、相手の不意を突くつもりが、逆に先方から奇襲を掛けられた格好なのです。
 大いなる決心の上の策略が瓦解してゆく、その恐ろしさが、義昌殿の脳漿の働きを止めてしまったとしても、不思議ではありません。
『何が何やら判らない』
 義昌殿は、ただ眼を明けて、息をしているだけの人形のようになっておいででした。
 慌てふためいた幾人もの家臣が主君へ事態を報告をし、指示を仰ごうと、その元へ駆け付けました。
 しかし彼の者達の主君は、返答も下知もできぬ有様です。
 そんな主君の様子を見て不審に思った彼等は、主君が何も語らぬ理由を探し、辺りを見回したことでしょう。そしてこの時漸く、彼の者達は、主君の眼前に広がる暗がりの中に「鬼」を――完爾として笑う森長可を見出すこととなるのです。
 ある者は息を呑み込み、あるいは悲鳴を上げ、あるいは怯み、あるいは腰を抜かして尻餅を突きました。
 武士が、です。それも元は勇猛果敢な、向かう所敵無しと称された武田武士であった者共がです。
「なんだ、木曽福島には人が居らぬらしいな。なるほど、人のいない城では、門も脆いが道理というものか」
 森長可殿が呵々大笑なさいました。
 反論できる者がいないと言うこともまた、嘆かわしいことでした。
 しかし、その場にもただ一人、声を上げる者が居ったのです。
「なんということだ! もののふとあろうものがなさけないぞ」
 見事な大喝であったそうです。しかし幼く、舌足らずな声音であったことでしょう。
 ふぬけ達が振り返ると、そこには童子が立っておりました。
 年の頃は五、六歳ばかりの男の子でありました。
 幼いながらに眉の凛々しい、勘の強そうなお顔立ちで、小さな体の上に着崩れた寝間着を羽織り、その帯に立派な拵えの小太刀を手挟んで立っていたそうです。
 木曾義昌殿の顔が土色に変わりました。
 餌を求める鯉のように口をぱくぱくと動かされたといいます。
 ご本人は恐らく、
「岩松丸、来るでない」
 というようなことを叫んだおつもりであったのでしょう。しかし回りの者共には聞こえなかったやも知れません。
 森長可殿が、
「なんだ、この城にも人がいるではないか! なんとまああっぱれな武者であろうか! さあ、近う寄られよ!」
 と、仰る大層大きな声に、かき消されてしまったに違いないからです。
 少なくとも、その小童には義昌殿の声が届いては居なかったのでしょう。耳に届いた方の声に招かれるまま、すぅっと、長可殿に歩み寄られたのです。
 松丸殿は長可殿の前に大将のように胡座を組み、座りました。胸を張って、
「きそいよのかみがちゃくなん、いわまつまるにござる」
 堂々と名乗られました。ご立派な振る舞いにさしもの鬼武蔵も瞠目したと見えます。居住まいを正して、慇懃に名乗りを返されたのです。
「承った。それがしは森武蔵守長可にござる」
 その名を聞いて、流石に岩松丸殿も驚いたことでありましょうが、森殿が続けて、
「この騒がしき中、なんと堂々たるお振る舞い。この武蔵、感服仕った。先ほど木曽に人無しなど申したが、なんと我が目の暗いことよ! ここにこうして岩松丸殿が居られるではないか。岩松丸殿こそ木曾家随一の武者であられる。見事なり、あっぱれなり」
 などと持ち上げたものですから、悪い気はしなかったのでありましょう。
「ごこうめいなおにむさしどのにおほめいただき、いわまつまるはかほうものにございまする」
 などと回らぬ舌で……少々正直すぎるきらいはありましたが……返答なさいました。
 さすれば森殿はますます感心して、
「おお、なんと賢い子であろう」
 楽しげに笑い、肯き、手を打って岩松丸殿を褒めちぎるのです。
 子を褒められて嬉しくない親がおりましょうか。
 義昌殿の青白い頬に赤みが差しました。ただし、ほんの一瞬のことです。
 義昌殿が何か言おうと口を開き掛けたとき、森武蔵殿はすっくと立ち上がり、
「気に入った! 岩松丸殿を我が猶子としよう!」
 言うが早いか、岩松丸殿を抱きかかえたのです。
 そして、森長可殿は童子を抱いたまま木曾義昌殿の傍らに進み、その真横にドカリと腰を下ろされました。
 よく、「あっと言う間」などと申しますが、この時の義昌殿には「あ」の声を上げる暇すらありませんでした。
 幼い嫡男が退治するころすつもりのてきの膝に抱きかかえられています。てきはニコニコと笑っております。そればかりか、当の岩松丸殿も笑っておったのです。
 森武蔵守長可という御仁は、その外見だけを見ますれば、それこそ十六の面そのものの美しいお顔立ちで、優しげな方であったと、私めも聞き及んでおります。
 それ故、小さな子供には「鬼」には見えなかったのでありましょう。むしろ自分を褒めてくれた、頼もしい大人に思えたのやもも知れません。
 森長可殿が本心岩松丸殿を買っておられたのか、あるいは、童子の器量など最初から眼中になかったのかは、定かではありません。されどこの時の森殿は、膝に抱いた岩松丸殿の屈託のない笑顔を見るとさも嬉しげに、
「岩松丸はあっぱれな子だ。なんと我はよい子を得たものであろう。イヤ目出度い、目出度い。誰ぞ酒を持て! 肴を持て!」
 まるで自分の屋敷に居られるかのような口ぶりで、他人の家人に物を言い付けられたそうです。
 この振る舞いに、流石に木曾義昌殿も腹を立てたものでありましょう。
「武蔵殿っ……」
 何か言いかけたのですが、次の言葉が出せません。
 森長可殿の膝の上で笑う愛児の首もとで、何かが……鋭い金属の何かが、灯明の光を弾いたのを見た為でありました。
 義昌殿は眼を森武蔵殿の顔へと移しました。
 鬼は静かに笑っておりました。
「伊予殿は、証人人質として預けたお身内を武田四郎めに弑いられたとお聞きするが……?」 
 この言葉に、木曾昌義殿の心胆は凍り付いたことでしょう。
 岩松丸が「証人」にされてしまった。差し出すつもりも、無論差し出したつもりもないのに、すでに「証人」として扱われている。岩松丸の生殺与奪の権を鬼武蔵が握ってしまった――。
 そのことに気が付かぬほど木曾伊予守義昌が……己が一族を守るために妻の実家を「裏切る」ことの出来たほどの男が、鈍物であろう筈がありません。
 義昌殿は震えました。薄闇の中だというのに、傍から見た者がはっきりと気付くほどであったそうです。
「母上……於岩……千太郎……ッ!」
 歯の根の合わぬ口から、漸くその名を絞り出したかと思うと、直後、義昌殿は裏返った声で、叫んだのです。
「岩松丸が目出度い門出だ。酒を持て、肴を持て。さあ、誰ぞ踊れ、謡え!」
 夜を徹しての宴会が開かれました。
 死に物狂いの酒宴です。
 木曾勢にとっては、まさしく宴という名の戦でありました。それも、勝ちのないことが決まっている戦です。
 兵糧蔵が開けられ、食料と酒とが運び出されると、森殿配下の方々は牛飲馬食されました。それこそ、城内の蓄えを総て腹の中に流し込み、落とし込む勢いであったそうです。
 それでいて、その方々が心底楽しんでいるようには見えなかった、というのです。
 森長可殿は終始にこやかに笑っておられたのですが、配下の方々、ことに兵卒足軽の者共は、ただ飯を喰い、ただ酒を呑むばかりで、さながら餓鬼のようでありました。
 眼前の食物ばかりを睨み付けている者達の前に立ち、木曾殿配下の方々は、震えながら唄い、泣きながら舞いました。
 観ていたのは、森殿と、そのご近習が数名ばかりでした。
 ことに森武蔵殿は大層楽しんで居られるように見受けられました。手を打って、
「流石に旭将軍義仲公が嫡流のお家柄だけのことぞある。ご家中皆々芸達者であられることよ」
 褒められれば、返礼しないわけには参りません。義昌殿が奥歯を噛みつつ、
「お褒めに与り……」
 漸く形ばかりの返礼をしました。しかしその言葉尻も消えぬ間に、森武蔵殿は、
「しかし折角の舞い踊りも、こう暗くてはよう見えませぬな」
 何が「暗い」だ。今は真夜中だ。明るいはずが無いではないか。
 義昌殿は胸の奥底ではそのように思われたことでしょう。あるいはそれを思うほどの余裕は無かったかも知れませんが、あったとしても、それを口にするわけにはゆきません。
「……では明かりを増やしましょう」
 暗いのならば、灯明、燭台の類の数を増せば良い、というのが、常人の考えです。義昌殿は家人を呼び、城内の別の部屋にある灯明をこの場に集めさせようと考えられました。
 ところが、森長可という仁は流石に「鬼武蔵」であります。そのお考えは常ならぬものでありました。
「床に炉を開けて焚火をしましょうぞ。さすれば部屋は明るくなり、また酒を温め、米を炊き、魚も肉も焼くことが出来ますぞ」
 木曾のご家中の方が呼ばれるよりも早く、森の近従の方々が立ち上がりました。木曾方が何かを言うよりも早く、森方は動きました。
 床板を割り、剥ぎ取り――無論、床に張られた木材が、簡単に割れるものであったり、剥がれるものであったりするはずが有り得ませんから、造作もなくそれを行ったと云うことが、如何に「恐ろしい」ことであるのか知れるでしょう――見る間に「囲炉裏」のような大穴が開いたかと思えば、剥ぎ取られ割られた床板が炉に放り込まれ、その殆ど直後には炎は天井近くにまで立ち上っておりました。
 この期に及びますれば、木曾義昌殿には悲鳴を上げる力も残っておられなかったようです。
 森家のご家中の方々が件の囲炉裏の回りに集まって、酒を温め肴を炙って、酔いしれ腹を満たし、この宴会を「楽しんでいる」その様を、うつろな眼で眺めるばかりであったそうです。
 夜は更け、夜は明けました。
 木曽福島が焼け落ちなかったのが不思議ではありますが、城内はまさに杯盤狼籍の有様でした。
 木曾勢の方々は衣服も髪も乱れ、眼は濁り、顔色はくすみ、力なく立ちつくしている有様でした。
 木曾義昌殿と申しませば、小姓に両脇を支えられてもなお、ぐらぐらと身の置き所が定まらぬようにして、漸く立っておられるといった具合です。
 森勢の方々は、甲冑軍装身を包み、髪は櫛目鮮やかに整えられ、眼は燦々と輝き、血気溢れ出る顔色をして、威風堂々と隊列を組んでおります。
 先頭には、百段と云う名馬にうち跨った森武蔵守長可殿が、その腕の中にはぐっすりと眠る岩松丸殿がおられました。
「いや伊予殿、馳走になり申した。御蔭で我が勢は本領まで駆け戻る力を取り戻せた。例を申しますぞ! では!」
 森武蔵殿が号令すると、軍勢は整った隊列のまま、打ち壊された門をくぐり、堂々と木曽福島城を出立しました。
 城内の方々も、また城外の方々も、誰一人その行軍を止めることが出来ません。
 隊列の先頭に……鬼武蔵の前鞍に岩松丸殿が居るからです。
 岩松丸殿の体には太い紐が打ち巻かれており、その先は、森武蔵殿の胴の背の合当理がったりに結びつけられていました。
 森武蔵守殿が川中島から「脱出」する道すがらの「出来事」を、多少なりとも小耳に挟んだ者であるなら、手出し口出しすればこの小さく新しい証人がどのような目に遭うか、すぐに察しが付くことでしょう。
 かくて鬼の隊列は悠然と木曽路を進み、国境を越え美濃に入り、何事もなかったかのように金山のご城内へと消えていったのです。

 まるで見てきたように、と、お笑いになりますか? 
 ご不審はごもっともです。私自身がこの出来事を見たわけではありません。
 伝聞です。見てきた者達から聞いた話です。
 すなわち、我が弟・源二郎と従兄弟伯父・三十郎頼康、そして、
出浦いでうら対馬守盛清もりきよにござる」
 出浦盛清は埴科郡坂城は出浦の庄の出で、武田が北信濃まで勢力を伸ばしていた頃はその家臣でありました。
 武田が滅び、織田様が北信濃を押さえて後は、当家が滝川一益旗下となったのと同様に、森長可が旗下に組み込まれたのです。
 盛清は大層小柄で、その上童顔でした。
 丸顔の中にある目は垂れて、鼻は団子のようであり、その上、唇の端が上がっていて、なんとも柔和そうに見えます。
 少なくとも、鬼武蔵が証人達を戻す前に首と胴とに切り分たその様を、眉一つ動かさずに見ておられるような、非情で剛胆な男には見えません。
「あそこで鬼殿に逆らったなら、それがしの一族が同じ目に遭ったでしょうから」
 そう言って、垂れ目を細めつつ、額の当たりを撫でました。
 元々笑っているように見える顔立ちの男です。笑っているように見えたからといって、本心笑っているとは限りません。
「ご苦労であった」
 そう言ってやるより他に、掛ける言葉が思い付きませんでした。
「まあ、あの大騒ぎに乗じて、源二郎様を木曽福島から易々と落とすことができたわけでありますれば……。案外、伊予守殿は未だに真田の証人がいなくなっていることに気付いておられないかも知れませんな」
「まさか、木曾殿はそこまで魯鈍な方ではあるまいよ」
「どうでございましょうかなぁ。あの乱痴気騒ぎの後にございますれば、暫くは消えた証人や逐電した家臣の行方を追うどころではないでしょう。まあ、そろそろ岩松丸殿が無事に戻られる頃合いでありましょうから、正気に戻られたやもしれませんが」
 盛清はしれっと重要なことを申しました。岩松丸殿……後に元服なさって、仙三郎義利よしとしと名乗られるようになったのですが……その安否のことです。
「その方が手を打ったのか?」
 一応訊いてみました。
「それがし自身が何かしたのか、とお訊ねならば、否とお答えするより他ございませぬな。鬼殿とは木曾に辿り着くよりずっと以前、猿ヶ馬場さるがばば峠でお別れ申しました故。鬼殿が信濃衆の証人が非道いことになった後、でございますが。ともかく、それがしが何かしらしたことがあるとするならば……お別れの直前、鬼殿に一言申し上げた、ぐらいでございますよ。
『人質の使い方には二種類あります。つまり、相手の力を奪うために命を取ってしまうか、相手に手出しをさせないために生かしておくか、です』
……とまあ、その程度のことを、でございますが。御蔭で大層褒められましてね。形見にと脇差を頂戴いたしました」
 と、ニッカリと笑った盛清は、その笑顔の侭、
「しかしまああの鬼殿も、京の方の何とか云うお寺の『火事』で、ご舎弟三人を失ったばかりなワケでございますれば、幾分かは身内を失った者の痛みのようなものは知っておられるのではないかと存じますれば」
 などと付け加えたものです。
 しかしながら、何分顔つきが顔つきだけに、腹の底が謀りかねました。ある意味で、至極恐ろしい男と云えるやも知れません。
 第一、奇妙ではありませんか。
「信府に入る前に別れたわりには、その後のことを良う知っておる」
 私は思うたことを思うた侭に言ってみました。
 さすれば盛清めは、やはりしれっと申したのです。
「それがし、忍者にございますれば」

 さても、当家にはおかしな……いや人並み外れて不思議な者達が集まってくるものです。我ながら感心します。
 お手前は、己自身がおかしな者である故だ、と仰りたいのでありましょう? 
 論駁出来ぬのが、何とも口惜しいことです。
 しかしながら、人並み外れた所がどこかになければ、当世生きてゆくことは難しい……そうは思われませぬか?
 森武蔵守長可殿にしてもそうです。人並み外れた非道の力があったからこそ、あの方はあの時生き残ることができたのです。
 先の長湫ながくての戦でお命を落とされたのは、あの方を上回る人並み外れた者に真正面からぶつかったがためです。
 上回る「人並み外れた事柄」は、何も武力とは限りません。
 知恵、胆力、忍耐、あるいは時節、機運。
 人知を越えたところにあるからこそ、「人並み外れた」力、なのではありますまいか。

 さておき。
 あの時私は、出浦盛清から木曽の方で起きた大変な騒ぎ――と云うか森武蔵という奇禍――の話を聞きつつ、別の人並み外れて不思議な御仁を思い起こしておりました。
 前田慶次郎利卓という仁です。
 件の厩の宴から日を数えますと半月ばかりの時が流れておりました。
 たった半月です。その半月の間に色々なことが起き過ぎました。
「慶次郎殿に詫び状の一つも書いておらなんだ」
 何の接ぎ穂もなく突然に零しましたが、盛清は平然として答えました。
「慶次郎様と申されるは、滝川様ご家中の前田宗兵衛様のことでありますな」
「知っていたのか?」
「お噂はかねがね。武勇という点では、件の鬼殿に引けを取らないとか」
「雷名轟く、か。さて今頃どうして居られるかな?」
 私はあくまでも何気なく呟いたつもりでありました。すると盛清はにこやかに見える顔で、恐ろしげなことを申したのです。
「さて、早ければもう北条勢と対峙しておられる頃合いやもしれませぬな。何分あちら様も、京の変事を小耳に挟んで以来、五・六万ばかりのお供を引き連れて、上野国へ遊山においでるご予定を立てておいでだということですから」
「五・六万か」
 圧倒的絶望的な兵数でありました。
 しかしそれを聞いた私の口からは、
「北條殿は大した地力のあることだなぁ」
 などという、どこか他人事であるかのような言葉が漏れました。
 他人事であったのは、間近に迫っているであろうその戦に、参じよ、という命令が下っていないためでありました。
 この時なお、我ら信濃衆にはあくまでも「織田上総介様御生害」を秘匿なさっている滝川様でなのです。味方である筈の北條方が攻め入ってくる理由を明かさないのであれば、我らの兵力を動員するのも憚れる、ということだったのでしょうか。
 理由はどうであれ、信濃衆は動きません。信濃領内に居られる滝川勢も動けません。例えば、小諸に居られる道家彦八郎正栄様、この方は滝川一益様が甥御様であられますが、この方に何かしら動きがあったという報告が、草やノノウから上がってくることはありませんでした。
 沼田にいる矢沢の大叔父からも正規非正規問わず繋ぎがないところをからすると、信濃に近い場所にいる滝川勢も動かない様子です。
 いえ、むしろ、動くに動けないとというのが正しいところやも知れません。
 と、申しますのも、実のところ信濃側にはまだまだ織田勢に反発する者が、僅かながらではありますが、いないでもなかったのです。動き出しそうな者達を睨み付けておく必要がありました。
 あるいは動き出したところを背後を突かれるようなことがあるやもしれません。
 沼田の滝川儀太夫益氏殿は軽々に動くことが出来ないのです。
 ともかく、我らが出ぬのであれば、すぐに動かせるのは近場においでのお手勢と、実際に北條に攻め込まれた上野にいる者、即ち、有無もなく直ぐさま戦わざるを得ない者達のみとなります。
 その兵数は、
「多く見積もって、上州武州勢が間違いなく従っての二万弱。少なければ、お手勢だけの五千余、といったところか」
 私は息を吐きました。やはり他人事のような口ぶりになっておりました。
 それに答える盛清の口ぶりもまた、他人事のようでありました。
「分が悪うございますな。数も数ですが、それよりも、勢いのこともありますから」
 絶対的な君主が逆賊に誣いられたなどと云う大変事が起きたのです。忠臣達の動揺はいかほどでありましょう。そして敵対する者共はどれだけ士気を高めている事でしょう。
「ともあれ、お手勢の殆どを動かしておられるとすれば、今頃ご支配下の城々、ことさら上州の城々などはさぞ手薄になっておろうな」
 先の二つは無意識に他人事のように申したのですが、この度の言葉は意識して他人事のように言いました。
「厩橋には確か左近将監様がご猶子の彦次郎忠征様とやらがおいでるはずですが、証人を逃がさぬようにするのが手一杯といった所ではありますまいか。万一夜陰に乗じて討ち掛けられたならば、あるいは相手が無勢であっても一溜まりもなく……などということもないとはいえぬかと存じますよ。やれ、くわばらくわばら」
 盛清も相変わらず他人事のように重要な機密に当たるであろう事を答えてみせました。
 いや、他人事どころか、まるで人をけしかけるかのような口ぶりであるようにさえ聞こえたものです。
「厩橋、か……」
「はい、厩橋にございます」
 出浦盛清との話しは、そこで終いになりました。
 私がその場から……つまり、岩櫃城から離れなければならなかった為です。

碓氷うすい峠』
 父・真田昌幸直筆の書状……というか、書き付けには、ただそれだけが書かれていました。
 当たり前の指示書であればその後に当然続くであろう、命令を書いた「本文」がありません。
「全く、我が一族は性急な者ばかりだ」
 誰に言うとでもなく、呟きました。
 本文のない命令書の本文に当たる部分は自分で考え、動かねばならぬ。
 その程度のことが出来なければ、あの人の部下や、ましてや倅は務まりません。
 父の考えていることを推察するか、あるいは、その場で己の思う最適な行動を取るか。
「あの親父殿の腹の内など、私ごときに判るはずがない」
 私は僅かに笑ったのを覚えています。
 しかし命令は命令です。私は碓氷峠に向かわなければなりません。
 そして、相手が誰であり、どのように出迎えねばならぬのかを、出迎える相手が眼前に現れるまでに考え、決めねばならぬのです。
 問題は、
「出迎える相手は何処の誰か」
 と云うことでしょう。
 このとき、甲州上州、そして信州を欲し、狙っていた陣営と云えば、
「上杉、北条、徳川」
 に他なりません。
 奥州の方々の中にも食指を動かさんという向きはあったのやも知れませんが、あちらの方々が信濃に入るには、まずご自身の領内の安寧を量った上で、北条と当たる必要がありましょう。ですからこの線は他の三つよりは薄い。
 次に薄いのが上杉です。彼の方々の本拠はは越後にあります。従って攻め込んでくるとすれば境を接する北信濃からということになります。
 あの鬼武蔵森長可殿が放棄した北信濃には、一揆勢を除けば――これが一番厄介ではありますが――あまり障害となる存在がありません。上杉勢は速やかに進入し、彼の地を掌握なされるでしょう。
 ですから更に東信濃をおもお望みであるならば、そのまま千曲川沿いに上田の平へ進むか、あるいは地蔵峠を越えて真田の庄方面へ向かう、というのが筋です。言わずもがな、碓氷峠とは逆方角です。
 次に徳川陣営です。こちらは、本領の三河から入る形となります。
 南信濃から進むか、あるいはまず甲斐から入るか。
 その時徳川の本体が何処にあるのかによりますが、もし甲斐から入った場合、そこには滝川の諸将と兵がおります。また、その旗下と云うことになっている武田の遺臣もおります。
 織田信長ご生害、そのことをまだ知らされていない……であろう武田の遺臣と、元より「同僚」である滝川様と徳川勢が出会ったなら、どうなるのか?
 滝川左近将監一益様と徳川蔵人佐家康様とが不仲であるとは聞き及ばぬ事です。……飛び抜けて良好であるとも聞かぬことですが……それにしても、戦になるとはあまり考えられません。
 恐らくはこの二筋の「川」は、並び流れるか、そうでなければ滝川が徳川に流れ込んで一筋の大川になる。そして北条を飲み込み、碓氷峠と云わずどの山をも越えて、信濃に押し寄せてくる。
 ではそこに北条殿の軍勢しかいなかったなら?
 恐らく戦になるでしょう。この時点では勝敗は判断しかねました。それでも徳川勢が碓氷峠を越えようというのなら、その戦に勝つことが必要でした。
 しかし、織田信長様御生害の折りにはまだ大阪に居られた徳川家康様です。その後、無事ご本領に戻られたとして、次にどのような動きをなさるでしょうか。
 確かに領土拡大の好機ではあります。北条方の不穏な動きも気にかかるでしょう。しかしそれよりも、大謀反人・惟任日向守明智光秀を討つ方を優先するとも考えられます。
 となれば、やはり北条です。
 武田攻めの報奨がなかった北条殿のことです。織田信長という枷がなくなれば、長年欲し続けたこの土地に食指動かさぬ訳がない。
 偉大な主君を失って浮き足立つ滝川も、寄る辺を失った武田の残党も踏みつぶし、怒濤の勢いで攻め込んでくるのに、何の障害もないのです。
 定めし小勢を率いた私は昼なお暗い山の中で、北条の大軍と対峙することになる。その公算が高い。
 背筋の寒いことです。
 多勢を目前に見たならば、戦わぬにしても震えが来るものです。
 ええ、この時私は、真田と北条とがすぐに戦になるとは考えておりませんでした。
 碓氷峠に出張る理由は、来た者を丁重に出迎えるためと確信していたのです。
 考えてもご覧なさいませ。武田が滅びつつあるとき、父は……真田昌幸は何をしましたか。
 武田四郎勝頼公に信濃岩櫃まで撤退するように進言するその裏で、織田様に馬を贈り、北条に割の良い文を送ったのですよ。
 その人が、この時に北条方か、はたまた徳川方か上杉方か、あるいはその総てにか、何らかの手を回していない筈がないでしょう。
 それでも私は、もう一つ、峠を越えようと者がいる可能性も考えておりました。
 出浦盛清が、近々滝川様と北条との間に大規模な戦が起きると申しておりました。そして悲しいかな北条方が勝つことでしょう。
 そうなれば、生き延びた「敗将」や「敗残兵」が信濃へ落ち延びようとするに違いありません。その地に将が目をかけてやっていた土豪がいたなら、それを頼って来ることは想像に易い。
『碓氷峠』
 私は父の寄越した書き付けを、それこそ穴の開くほどじっと見ました。

】【

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 合当理がったり
 甲冑(当世具足)の胴部分の背中にあって、旗指物(個人識別用の目印となる旗や細工物)を固定するための道具の一つ。
 指物の竿を合当理から受筒というパーツに通し、待受というキャップ状の留め具で胴に固定する。
 金山城
 兼山城とも。美濃国可児郡、現岐阜県可児市兼山の山城。元は斎藤道三の猶子・正義により築城され、名は烏峰城。
 織田信長が美濃を領土としたことに伴い、森可成が城主として入り、可成の死後、次男・長可が継ぐ。
 長可が川中島へ移った後は、弟の成利(蘭丸)が城主となったが、本能寺の変で成利が討ち死にした後、川中島を放棄して戻った長可が再び城主となる。
 なお、長可死後は末弟の忠政が城主となったが、関ヶ原合戦の後、忠政が川中島海津城へ入封(この時「松城」と名称変更)するに伴って石川貞清(ちなみに正妻は真田信繁の七女・於金殿)の所有とななるも、廃棄され、建材は石川氏の本城である犬山城改修に用いられた。
 長湫の戦
 「長湫」は「長久手」の旧表記。
 天正12年(1584年)、秀吉(当時は羽柴姓)と織田信雄・徳川家康との間に起きた「小牧・長久手の戦い」のこと。

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