子壇嶺城戦記



 閏八月二日。
 戦は始まった。
 無論、真田と徳川との間に、である。
 
 神川の右岸に真田兵二百、率いるのは真田源二郎信繁。
 昌幸の次男坊は、父から命を受けていた。
「軽く戦い、軽く退け」
 一方、その昌幸の備えは、五百の兵と上田城である。
 戦の口火が切られても、昌幸は鎧もつけず、家臣の禰津(ねづ)長右衛門とともに平然と碁盤を囲んでいた。
 やがて。
 源二郎と二百の兵達は、主命を全うした。
 徳川の先方が神川を渡る。
「掛かれぃ!」
 源二郎の号令が下った。
 槍を合わせる。すぐさま引く。
 矢を射掛ける。遁走する。
 じわり、じわり。
 寄せ手は勝ち戦を確信した。そうして、「敗走」する真田の兵達を追撃し、領内……いや、真田昌幸の敷いた陣の中に深く入り込んでいった。
 七千余……杉原四郎兵衛が兵数を聞き誤ったのではない。徳川が振りまいた「情報」に誇張があったのだ……の兵馬が、ひたすら上田城を指して疾駆する。
「退けぃ! 疾く退けぃ!」
 兜の面当ての下で笑いながら、源二郎は駆けた。
 やがて、徳川方は逃げ去る二百を見失った。
 だがそれを気にかける者はいない。目の前に城があるのだ。
 しかも、抵抗がない。人気がない。
「勝ち戦ぞ、攻めよ」
 誰かが叫んだ。
 誰もが突き進んだ。
 大軍である。
 先頭が千鳥掛けの柵に進路を阻まれると、当然、後が詰まる。
 それでも突き進む。
 二つ目の柵、三つ目の柵。
 曲がりくねった道筋に、人馬の群れが前後もなく行き詰まった時、熱い風が吹いた。
「火攻めだぁ!!」
 城下の町並が、ごうごうと燃えていた。
 そして、城門が開いた。
 城兵五百。鬨の声を上げ、攻めかかる。
 さらに、
「突撃ぃ!」
 どこからともなく伏せ手がわき出、四方を囲んだ。
 昌幸が長男・源三郎信之が指揮する、武装農民の群である。
 退路はない。
 火に、柵に、そして人に阻まれ、七千の大軍は総崩れとなった。
 呆気のないことであった。たった一日で(一応翌日、撤退した徳川軍が、支城である丸子城を攻めているが、当然と言うべきか、何の益も得られなかった)戦は終わった。


「信じられねぇ!」
 杉原四郎兵衛は「物見」の言葉に、へなへなと座り込んだ。
「徳川は一万だぞ!? 真田の方は兵千足らずと百姓が三千だって言うじゃねぇか! 倍の上も違うってのに、どうやって勝ったってンだ!? それも、たった一日で!」
 神川の合戦から、早五日が経っていた。
 四郎兵衛は呆然と彼方を眺めた。足下の絶壁の先、上田城がある方角は、霞のような雲のような、あるいは煙のようなものに包まれている。
 と。
 どん、と、空き腹に響く音がして、地面がかすかに揺れた。
 座り込んでいた四郎兵衛が、背中を突かれたように前のめりに倒れ込んだ。
「真田の軍が攻めて来た!」
 誰かが叫んだ。
 誰もそれを確認したわけではない。しかし、恐怖が場を支配した。
 どん、どん、どどん。
 続けざまに爆音が鳴る。回数など数えられない。
 子壇嶺の「城」は音を立てて崩れた。
 地揺れのせいではない。てんでに逃げまどう四郎兵衛の「兵」が、あちらに引っかかり、こちらにぶつかりして、自ら壊しているのだ。
 その争乱の中、麓から鬨の声が聞こえた。
 太鼓、鳴り板、人馬の声。
 こだまするそれから、寄せ手の数を計ることはできなかった。
「畜生っ!」
 四郎兵衛は這いずりながら崩れた城に入り、刀を掴んで出てきた。
 「兵」は、もう一人も残っていなかった……次郎太を除いて。
「四郎、何をする気だ!?」
「戦だ、戦をやる!」
「やらねぇって言ってたじゃねぇか!」
「あン時は、そういう策だった。でも、今はやる」
「無茶だ! 徳川の一万が負けたンだぞ! 俺達二人じゃ勝てねぇよ」
 次郎太は四郎兵衛の胸ぐらを掴んで、泣いた。
「哥ぃは、逃げてもいい。負けは負けでも、討ち死には少ない方がいいしな」
 四郎兵衛は青い顔で歯を鳴らしながら、必死の笑みを作った。
「ぬかせ。俺も武士だ。敵に背中は見せられねぇよ」
 鼻水を流しながら、次郎太は辺りを見回し、棒切れを一つ拾った。
「挟み撃ちにされてるみてぇだ」
 四郎兵衛が言うと、次郎太はうなずいた。
 二人は背中合わせに身構えた。
 四郎兵衛は鬨の声が聞こえた方を向き、次郎太は爆音が鳴った方を見た。
 険しい山をの前後ろから、敵は、ほとんど同時に現れた。
 その数は……二人だった。

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