私文・三國志 序文
三國志を知らないあなたと、三國志を好きなあなたに、この文を捧げます。
三國志が流行っているらしい。
例えば、私が持っている吉川英治先生の「 三国志(講談社文庫、初版一九八九年)」は一九九三年発行の第十三刷。
陳舜臣(ちん・しゅんしん)老師(ろうし。先生の意)の「 秘本三国志 (文春文庫、初版一九八二年)」は一九九五年で第十七刷。
さらに老師は続編とも言える「 曹操―魏の曹一族」を出版なさった。
歴史書の翻訳である、ちくま学芸文庫版の「 正史 三国志〈4〉(これにあの『魏志倭人伝』が掲載されている。他の巻と売れ方が違うのは、きっとその所為だろう)」は、一九九三年に文庫になり、その二年後には第四刷の増版になっている。
中国中央電視台が作った大河ドラマ「 三國演義」は衛星放送で何度も再放映され、それをビデオ化・DVD化したものも好セールスを記録しているようだ。
ゲームセンター用のアクションゲーム2作品は、発売後5年間店頭にならんだ息の長いゲームだった。
本場中国…おそらくは台湾あたり…でも、別なメーカーが同システムのゲームが作り、テキストのみ翻訳して、日本へ輸出しているが、これもまた、同様に息の長い作品となりそうだ。
この上に 関連図書を重ねるとなると、様々な出版社から、それこそ蜂蟻のごとく出版されているから、その多さに、収集癖のある筆者も挫折を強いられる程である。
……話がそれそうだ。
三國志が流行っている。
そもそも、三國志とは何ぞや。
三世紀末、支那(しな)の大陸に晋(しん)という帝国があった頃。
その官吏であった一人の知識人が、彼の祖父・父そして彼自身の生きた時代を書き綴った。
支那の国が3つに別れてしまった動乱の戦国時代、混乱したその百年間の歴史を、彼は冷静な筆で書きまとめた。
即ち、魏書(ぎしょ)三十巻、蜀書(しょくしょ)十五巻、呉書(ごしょ)二十巻。
ただ一人で、なおかつ私的にまとめた文であるから、作者「陳寿(ちん・じゅ)」の存命中は人目に触れなかった。
これが国家の正式な史書に採用され、「正史・三國志」などと呼ばれるようになったのは、陳寿の死後である。
さても、陳寿は学者である……昔は学者並みの知識を持たねば役人になれなかった……。その文は簡潔の一語に尽きる。「正史」は確かに名文だが、読み物としてはつまらないことこの上がない。
読んで面白い「三國志」が現れるのは、これより千余年の後のことである。
その頃、支那は「明(みん)帝国」という『危うい太平』に包まれていた。こういう時世には不思議と戦乱の世の物語が好まれる。
ことに民衆は、大陸を三つに分けた時代の物語がお好みだった。巷では講釈師達が歴史に尾鰭を飾り付け、声高に「見てきたような嘘」をつく。
尾鰭が目も当てられない程に膨れ上がった頃、一人の物書きが登場する。
羅本(ら・ほん)、通称を貫中(かんちゅう)。
田舎で役人をしていたが、出世を諦めて戯作者となった人物……と、言われている。
羅貫中は元役人らしく、史実にそって……それでもかなりの荒唐無稽さで……物語を創った。
陳寿が書いた「正史」を元に、地方の伝承を加味し、講釈の面白い所をエッセンスとして振りかけ、完成した小説が「 三國演義(さんごくえんぎ)」だった。
これがどれほどの名作であったのかは、その写本が中華大陸ばかりでなく、海を越えて日本にまで渡り、瞬く間に知識人の間に広まったことは見れば、察しが付くというものだ。
さらに江戸期には、民衆の中にも「 通俗三國志演義」の名で浸透するに至っている。
その浸透率の高さは、滝沢馬琴が「 南総里見八犬伝」の文中に、三國志へのオマージュを書き綴っているのを見れば瞭然であろう。
あるいは、あの葛飾北斎が「通俗三國志」の挿し絵として描いた錦絵なども、証拠物件として提示できよう。……これは長野県小布施(おぶせ)町「北斎美術館」に所蔵されている。鎧兜がいかにも日本的であるのはご愛敬として、なかなかに勇壮な武者絵である……
当時は大衆演劇であった歌舞伎もその影響を受けていて、「助六所縁江戸桜」の台詞には「通俗三國志」という言葉が入っているし、 歌舞伎十八番中には三國志の人物名だけを借用した、「関羽」と題する芝居まである。
三國志が流行っている。
三国時代が終焉を迎えて千と八百年が過ぎている。幾多の先人達がこの時代を愛し、物語ってきた。
手垢の付いた題材、と誰かが言い捨てた。
それでも書きたいと想う者が後を断たない。
ここにも一人、小心な挑戦者がいる。
何卒、暫時のお付き合いを願いたい。
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