「異義あり!」
叫び声が議場に響いた。
……尤も、声の主には叫んだ気など無いらしい。彼自身は普通に喋っているつもりなのだが、周囲の者には怒声にしか聞こえない。
それが張飛翼徳の声の特徴であり、短所である。
その声に彼の義兄が即答する。
「却下」
「まだ何も言ってないのにぃ!」
張飛がごねる。
「おまえの言いたい事など見通せる。大体、おまえが禁酒令に賛同するとは、初手から思っておらん」
そう言って、義兄・劉備玄徳はため息を吐いた。
彼には義弟が本日の議題「禁酒令の発布」を素直に受け入れないであろう事は解っていた。
強情で一本気で酒好きの張飛をどのように説得するか。劉備は立案された法よりも、そちらに頭を悩ませていた。
時は建安十五年(西暦二一〇年)初夏の頃であった。
先の荊州牧・劉表が長子・劉王奇の死後、劉備は牧の位を引き継いで長沙に駐留していた。
そして、積年の策である益州への進軍を、この地を足掛かりに実行に移そうとしていた。
ただし、表向きは「益州牧 劉璋を扶けるため」であるが。
しかし長く戦禍に晒されてきた荊州では、数十万の兵を送り出すために必要な兵糧を確保するのが難かった。
「ですから、それを備蓄するためにも、向こう一年間は酒造を禁止するのです。稗・粟・麦・米……酒造りに使う穀類を兵糧として供出させるのが目的です」
軍師将軍・諸葛亮孔明が、法案の骨子を述べる。
が。
『酒を糧に動く男』である張飛が、納得しようはずもない。
「ナァ軍師。酒は戦の必需品だぜ。兵共を慰めるには酒が一番だ。それに、戦神を祭るにも御神酒は必要だろ?」
酒呑みは何かと理由付けをしては呑みたがる。
どちらかというと議論を疎んずる方である、武偏者の張飛が、こうまで積極果敢に弁ずるのも、単に呑みたいからだろう。
しかし酒を呑まない者には酒呑みの理論など通用しない。
それを立証したのが、つい先頃まで「阿花」と呼ばれていた、まだ元服間もない若者、王索寧国であった。
「戦神は出陣するときに祭るもの。慰労は戦が終わってからするもの。今は酒の必要などないでしょう?」
涼やかな声音が議場を渡たる。
「がっ……?」
張飛は口をパクリと開けたまま、硬直した。
王索は、右の頬に五寸ばかりの刀傷がある以外は、十人並み以上の器量を持つ、十六才の娘だ。
王というのは、彼女の母親の姓である。
実を言うと彼女は、父親の姓どころか、顔すら覚えていない。母親に尋ねると、ひどく辛そうな顔をするので、聞き出すことも出来ない。
それもあって彼女は、母親が再婚した相手を「父」と呼んでいる。
つまり、張飛のもう一人の義兄である関羽雲長が、王索の「父」なのだ。
溯ること二年前、劉備軍は長阪の地で、曹操率いる官軍と交戦し、敗走した。
この戦で王索は顔に傷を得た。
口には出さぬが、彼女はこれを気に病んでいる。
それゆえ、良家の子女で有る事を捨て、武家の子息として生きることを決めたのだ。
さて、劉備はこの『甥』が忠孝厚く知慮深い事を知り、彼女を主簿(書記官。文書や印受を司る)として取り立てた。
この特例は彼女の優秀さを表すと同時に、婦女子をも幕下に加えねばならぬほど、劉備配下に人材が不足している事も証している。
話を戻そう。
張飛の誤算は『甥』の酒量を踏み誤った事に発する。
下戸ではないが、王索の酒量は張飛のそれには到底及ばない。大酒呑みの気持ちなど彼女には理解できないのだ。
「兵が飢えていては、良い将が率い、良い策を弄したところで、勝つことが出来ません。いいですか、叔父上が一年に浴びるだけの酒を造る粟を兵糧に用いれば、ざっと百人の兵を三年は養えるのですよ」
王索の言葉に呼応して笑い声が起きた。
臨席者の大半が、彼女に同意している。
特に関羽の長子で、王索にとっては義兄に当たる、関平和国の笑いぶりは、一際大仰だ。
「叔父御、諦めなさいませ。叔父御では索の弁舌には勝てませぬぞ」
そう言うと、彼はカラカラと笑った。
二人の甥に見捨てられた張飛は、慌てて反論を考えた。の、だが、良い台詞が浮かばない。
しかたなく『誰か味方してはくれまいか』と、議場を見回した。
お堅い趙雲子龍が酒呑みの弁護をしてくれるとは考え難い。
魏延、黄忠はいわずもかな、劉封、糜竺、伊籍、孫乾の輩が主君にあがなう筈もない。
馬良、馬謖の兄弟などは、共々諸葛亮を兄と慕っているほどだから、その策に反対するわけがない。
「そうだ、广龍軍師!」
張飛ははたと膝を打って、つぶらな瞳を輝かせた。
副軍師中郎将 广龍統士元の酒好きは……量は別として……張飛といい勝負だった。
所が、張飛と目が会った广龍統は、ニッと笑って
「張将軍。残念ながらそれがしは今、酒を断っておりましてな」
と、首を横に振ったのだ。
もはや孤立無援となった張飛は、一縷の望みを賭けて壁際の長椅子を見た。
そこに一人の漢が伸びていた。
簡雍、あざなを憲和である。
生まれは幽州【タク】郡……つまり張飛、そして劉備と同郷である。
一つ年下のこの男を、張飛は深く簡雍を尊敬している。
彼は機知に富み、すこぶる口が達者で、そういった方面に関しては実に凡庸な張飛とは、全く正反対の素質を有していたからだ。
元々張飛は「頭の良い者」に弱かった。無い物ねだりとは言い過ぎだが、憧れる気持ちが強い。
我の強い彼が年下の諸葛亮や广龍統の言う事を、割と素直に聞き入れる理由がそこにある。
しかも簡雍はただの「頭でっかち」ではない。
彼が普通の、つまり生真面目で慣例にこだわり柔軟さのかけらも感じられない『知識人』とは、かなり毛色が違っているという事こそが、張飛が彼に一目置いている所以だ。
はっきり言って、簡雍の外見に知的な色はない。
結い上げた髪はいつも乱れており、髭も整わない。冠は始終曲がり、着物の袷が歪んでいない日はない。よほどの事がない限り、常に彼の服装は乱れている。
それは今日とて変わりない。それどころか、彼はその服装で長椅子に寝ているのだ。主君の前で、である。
そして整わない髭を撫でている。
瞼を堅く閉じている。
眠っているのかも知れない。
普通の人間がこの様な態度を取れば、いくら劉備がお人好しでも、官邸から蹴り出される事だろう。
しかし簡雍に限っては、許されている。
その横柄さを差し引いても余りある機知を彼は持っており、主君はそれを愛しているのだ。
張飛は、彼の機知が自分に都合良く働いてくれまいか、と願った。
熱い視線が自分に向けられている事に気付いているのかいないのか、簡雍は静かに口を開け、若い主簿に声をかけた。
「なぁ……阿花……」
「はい叔父上」
関羽が七つばかり年下のこの才人を、弟同然に扱っているので、義娘の王索は簡雍を叔父として敬っている。
歯切れの好い返事を聞いて、簡雍は薄目を開けた。
「さっきの計算だがな、間違っているぞ」
「は?」
王索はきょとんとした目で簡雍を見た。周囲の者の視線も、全て彼に集まる。
視線の中心で、簡雍はゆっくりと上体を起こした。そして欠伸を一つしてから言った。
「翼徳が一年間に腹ン中に捨てちまう酒は、兵千余りを三年間飢えさせる。百人じゃ利かねぇよ」
簡雍に視線を浴びせていた者すべてが爆笑した。
ただ一人、張飛を除いて。
かくして禁酒令は発動し、違反者には十杖以上の棒罰が科せられる事と相成った。