日差しが夏の厳しさから秋の柔らかさに移り始めている。
長沙城内の主簿執務室で、王索は山積みにされた書類の束を眺めながら、深く息を吐いていた。
この頃、紙はまだ普及しておらず、文字は木や竹で作られた細い板状の物……『簡』か、絹の布地に書かれていた。
特に、長期の保存を要する書類は、『簡』で作られる。
『簡』は数本から数十本を革紐で繋ぎ、巻き上げて保存する。
王索の目の前にも、この酷くかさばる竹の束が、山積されていた。
「どうしたね、王主簿?」
不意にかけられた声に彼女が顔を上げると、眼前すぐの所に簡雍の不精髭があった。
だが簡雍の視線の方は王索の顔ではなく、彼女の卓の上に落ちていた。
そこには一巻の竹簡が開かれている。
荊州各県の県尉から州都の行政部に報告された、禁酒法違反者の一覧だ。
「こりゃ『こいつはお上に逆らって酒をこしらえました。ケツっぺたひっぱたいて下さい』って上申かね?」
簡雍はそれを手に取り、読み上げた。
「王亥 酒五斗密造。英桔 酒一斗密売。許範 酒造器一式所持……。なんだい、微罪ばかりじゃねぇか」
「叔父上の口振りは、まるで大罪人がいなくてつまらないという風じゃありませんか。不謹慎ですよ」
王索が唇を尖らせると簡雍は、
「じゃ、阿花はなんでため息なんぞ漏らしてた? 微罪の処理ばかりじゃ退屈だと思ってたんじゃないのか?」
と鼻笑いした。
王索は大袈裟な程かぶりを振った。
「退屈だなんて思ってやしません。ただ、あまりに取締が厳しくはないかと……」
「刑罰に峻厳ってのが臥龍の旦那のやり方だ。そいつが気に入らないんなら、俺にグチらんと諸葛軍師に言上したらどうかね」
臥龍は、諸葛亮の号である。
彼は王索が諸葛亮に師事して、兵法を「かじって」いることを、充分知っていた。
それ故に、軍師の命には従順で逆らう事は有り得ないということを知りつつ、悪戯な童子のような口調で言った。
当然ながら王索は諸葛亮に意見する気などなかった。
穀物を大量に浪費する酒造りを禁止する事が今回の禁酒令の主旨である。(ただし、婚礼の祝いや地鎮の祭に振る舞われる小量の酒は、特例として取締から除外されていた。この「特例」を提案したのは、誰あろう張翼徳である)
ところが各県からの報告書には、本来取り締まるべき「大量密造者」よりも、特例の範疇に収まりそうな「自家製造者」の方が多く記されている。
これが県尉の位にまで「刑罰に峻厳」の心構えが行き届いた為に生じた『弊害』か、あるいは亭長や地廻りが功を争うが為の『行き過ぎ』なのかは、詳しく調査せねば判らない。
原因は判らないが、結果は見える。
『末端の取締が厳しすぎるのだ。諸葛軍師のお考えに間違いはない』
王索はそう言おうとした。
が、彼女の口は僅かに開いたまま止まった。
簡雍が急に卓上の硯箱に手を伸ばし、中から小刀を取り出したのだ。
小刀は竹簡を削るために常備された「筆記用具」である。
簡に書かれた文字に間違いがあった時、この小刀で簡の表面を削り、墨跡を消してから書き改めるのだ。
まさか文字を削り取る気では……と王索は気を揉んだが、簡雍も流石にそれはしなかった。
彼は刃を竹簡には当てず、簡を繋いでいる革紐に当てがったのだ。
革紐の切れる「プツ」という音と、驚いた王索の「アッ」という声が、同時に簡雍の耳に入った。
しかし簡雍が声の方に気を留めた様子はない。
「よく切れんな、この小刀は……。全く、優秀な官吏の小刀は切れ味が悪くていかん。間違いが少ないから滅多に使わない。使わない刃物は錆びる一方」
簡雍は遠回しに王索の優秀さを褒めた。褒めながら、革紐を縦一列に渡って断ち切ってしまった。
繋がりを失った竹簡は、卓上と言わず床と言わずばらばらに落ちて、散った。
初め、簡雍の手先を呆然と見ていた王索も、床に散る竹簡の乾いた音に気付くと、慌てて散った書類をかき集めた。
「叔父上ッ! 何て事をなさるんですか?」
すると簡雍が言う。
「放っておけ」
それは久しく聞いた事のない、険しい声音だった。
王索が顔を上げると、彼は唇を真一文字に引き、真剣な眼差しを窓の外に向けていた。
袂の中が、もぞりと動いた。
簡雍には特技がある。
卜、つまり占いだ。
劉備はその腕前を高く評価しており、折りにつけ吉凶を訊ねる。
そこで簡雍は、主君の急な命に応じられるように、袂の中に巫竹を忍ばせていた。
この筮竹はたとえ馬上でも卦を立てる事ができる、寸を縮めた特製品だ。
故に王索は、彼が何かを占じていると直感した。
そして先ほどの険しい声も手伝って、彼が何を占っているのかに興味を抱いた。
「何が見えますか?」
王索は「占いの結果」を小声で尋ねた。
簡雍は答えた。
「晴天」
と。
確かに、今窓外を眺める彼の目には、初秋の青く晴れた空が映っている。
「え?」
思いもしない答に、王索は彼に怪訝な視線を向けた。
すると彼も王索の方へ視線を移した。
「散歩日和だと思わんかね?」
そう言った簡雍の眼は、少年のように純真な光を放っていた。
本心から散歩日和と思っているのかもしれないし、あるいは何か企んでいるのかもしれない。
「出かけるぞ、阿花。御主君を誘って散歩に行く」
彼は一息に言った。言うと同時に王索の袖を掴んで、彼女の返事も聞かず、すたすたと歩き始めた。
当然王索は驚いて尋ねた。
「なんですって?」
「散歩に出かけると言ったのだ。聞こえなんだか?」
簡雍は王索を引きずりながら……と言っても、簡雍よりも王索の方が背が高いので、簡雍が力ずくで引いて行くというよりは、王索がしかたなく付いて行っているという方が正確だが……答えた。
「いいえ、そうではなくて……。ただ……」
少しずつ遠ざかって行く己の執務卓と、その周囲に散らばる竹簡に、王索の目は注がれている。
「放っておけと言うに」
まるで駄犬の綱を引き寄せるかのように、簡雍は王索の袖を引いた。言葉には子を思う父のような優しさがあった。
「竹簡を削るのも、革紐を結ぶのも、小吏の仕事だ。小吏のままで終わりたくなければ、こんな辛気臭い官舎に籠もるな」
「はい……」
王索は息を呑んだ。
簡雍は遠くを見ていた。