夏休みの前から夏休みの終わりまでの話。 − 【33】

 痛々しい笑顔だった。龍の胸に、ちくりととげが刺さった。
「ありがとうって、なんなのさ」
 彼にはその笑顔の意味がわからなかったし、何故自分の胸がチクチクするのかも解らなかった。
 解らないから少し不機嫌になり、解らない理由を尋ねようとしているのに唇が尖る。
 それに心に刺さったとげをの痛みを隠しておきたくて、ワザと「トラ」から顔を背けたのに、逆にとげが鋭さを増したように、チクチクが激しくなった。
 不機嫌は増す。
「『トラ』はいつもそうだ。僕の知らないことを、僕の分からない言葉で言う。だから僕は分からない事ばっかりで、頭がくらくらするんだ。『トラ』は意地悪だ。ずるいよ」
 龍は空っぽのお皿を楊枝でつついた。
『こんな事を言いたいんじゃない。こんな風に言いたいんじゃない』
 彼は心を掻きむしっていた。言葉を吐き出すたびにとげは深く鋭く刺さってゆく。
 痛くて苦しくて、息をするのも辛い。
 そのうち、鼻の奥までつーんと痛くなった。
 やがて鼻の穴がなま暖かくなって、つるりと水があふれ出た。同時に目頭がじんじんして、じわりと水がにじみ出た。
 すると自分が泣いてしまったことが悔しくて恥ずかしくて、益々とげがチクチクする。
「ごめんね」
 小さく「トラ」が言った。龍は横目で彼女を見た。
 やっぱり笑っていた。
 白目が真っ赤になっていて、涙は頬から顎に流れ落ちていた。時々鼻をすすり上げて息を吸い、その度に肩が大きく上下した。
 龍は慌ててそっぽを向いた。きっと彼女の胸にもとげが刺さっているに違いない。
 でも困っている彼女なんか見たくはないのだ。苦しんでいる「トラ」の姿なんて、もう二度と見たくない。
「なんで謝るんだよ。ごめんで済んだら、ケーサツは要らないんだぞ」
 自分でもよくわからないことを言っていると思った。でも、龍は泣いている人になんと声をかけたら良いのか判らなかったし、第一自分も涙が止まらない状態なものだから、何をどうしたらよいのかさっぱり思いつかないのだ。
 龍は思い切り鼻水をすすり上げた。
 目をぎゅっとつぶって余分な涙を全部押し出し、二の腕で目の周りをごしごしとこすって拭いた。
 ほっぺたの上の所と、日焼けした二の腕とが、塩水でヒリヒリした。
「とにかく、全部分からないんだから、全部説明してよ」
 目をつぶって顔を天井に向け、龍は言った。「トラ」の笑顔を見るのが怖くて、どうしても彼女を見ることができなかった。
「全部って、どれ?」
 力無い返事が返ってきた。龍は上を向いたまま目を開けた。
「御札が消えたこと、姫ヶ池のお姫様が『トラ』に見えたこと、『トラ』が学校にいたこと、倉庫の鍵が外側から掛かっていたこと、お婆さんが『トラ』を『トラ』って呼んだこと、『トラ』が池にいたこと、Y先生の家に『トラ』がいること」
 一息にまくし立てたあと、彼は今度は口をぎゅっと閉じた。そうして、見開いた目玉を、ちょっとだけ動かした。
 視界のギリギリ端っこに、『トラ』の顔が入った。
 彼女はまっすぐ龍を見ていた。涙は流れるままに流れている。唇が小刻みに震えている。
 そして苦しそうに微笑んでいた。
 龍が慌てて目玉を元に戻そうとしたとき、「トラ」は指をチョキの形にした右の手をすっと挙げた。
 龍は目玉を元に戻すのを止めた。むしろ命一杯彼女の方に黒目を動かした。
 それを見て、「トラ」はゆっくりと考えながらしゃべりはじめた。
「Y先生は、ボクのお父さんの弟のお嫁さん。ボクとお母さんはこの家の離れに住んでいる。離れにはお台所とお風呂が無いから、ボクはご飯の時とお風


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まろやか連載小説 1.41
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