。
前田慶次郎殿はさも楽しげな顔で、
「左様で御座るよ、三九郎殿。主は件の茶会の折には厩橋にご不在であったから、その顔をご承知ないのも致し方なかろう。これが噂の真田源三郎信幸殿じゃ。ご無礼の無いようになされませい」
馬上から私の背を平手で殴るように叩くのです。私は咳き込みそうになるのをこらえながら、
『何が噂か』
と心中で独り言ちりました。
良きにつけ悪しきにつけ、私のことを言ったものであれば、その噂とやらの出処は慶次郎殿ご当人より他にありません。
「滝川の方々に妙なことを吹きこまれては困ります」
私は本心そう思い、そのまま口に出しました。聞かれて困るとは小指の先ほども思っておりませんでした。
慶次郎殿は不遜にも顎で三九郎殿を指し示すと、
「案ずるな。アレの祖父様《ジイサマ》が主の父親のことをことさら大仰に、面白可笑しく触れ回るよりは、よほどに真っ当なことを言ってやっておるよ」
「よほどに真っ当に、ことさら大仰に、面白可笑しく、ですか?」
私は覚えず笑っておりました。滝川左近将監一益殿が真田昌幸のことをご周囲に言い散らかしておられるさまも、前田慶次郎利卓殿が不肖私のことを過分な物言いで言い触らしておられるさまも、悲しいかな可笑しいかな、ありありと想像できました。
「うむ、そのとおりに、な」
思った通りの答えが返って参りました。
しかしながら、そうおっしゃって大笑なさるであろうという予想は、当たりませんでした。
フと眼を針のように細くして、
「織田上総介様御生涯で、上方も関東も真っ暗闇だ。多少は明るい話をせねばならん」
その場にいた者共すべてが息を飲み込みました。
ようやく血の気が戻っていた三九郎殿の顔色が、また青白く変じてしまいました。
いえ、顔色を返事させたのは三九郎殿ばかりではありません。
上州からやって来た百姓に化けた人々の顔色も、信州から百姓に化けてやってきた我々の顔色も、その色の濃さに多少の違いはあっても、押し並べて皆、青くなったのです。
そうでありましょう?
慶次郎殿が漏らした「そのこと」は、まだ信濃衆には知らされていない事実です。無論、真田家の者は「知らない事」になっている話です。
なぜ知らないのか。
滝川左近将監一益が「明かさぬ」と、お手勢の内にのみ「秘匿する」と決めたことだからです。
手元に置きたいと願ってやまぬらしい、真田『鉄兵衛』昌幸にすらも明かそうとなさらない、秘密中の秘密でありました。
それを、よりによって一族衆である前田利卓が、漏らした。
これは左近将監様のご指示があってのことか、あるいは前田宗兵衛利貞の独断か。
薄く閉ざされた瞼の隙間からは、その奥の眼の色を垣間見ることすら出来ず、いまこの大兵の武将が今何を考えているのかを推し量ることがかないません。
私にわかったことといえば、慶次郎殿がわざわざ目を閉じてまで、心中を察せられることを避けているのだ、ということばかりです。
私は慶次郎殿に正対し、じっとそのお顔を見つめました。
彫りの深い、色艶の良い、しかし旅塵がうっすらとまとわりついた、微かに疲労の見えるお顔でありました。
「それで……慶次郎殿はどうなさるのですか?」
「『儂』がどうするか、だと?」
そう尋ね返す慶次郎殿の目に、困惑の色が浮かんでいるように思われました。
それも、疑念や懐疑ではない困惑です。わずかに喜色が混じっているようにも見受けられました。
「今の儂がどう動くかを、今の儂が決められようはずもない。儂は滝川一益の家来だからな……今のところは」
三度