小懸 ―真田源三郎の休日―【本編】 − 【10】

 人影は「あ」と言う間もなくするりと木を降りると、私の足元に片膝を着きました。
 夜っぴて見張りをしていた「目利き」の眼は流石に赤く、瞼は腫れ上がっておりました。
 頭を垂れ、顔を伏せた「目利き」は、
「女駕籠と長持が一丁ずつ。駕籠に付き添って女房衆が二人、下女が三人」
 と正確な員数を数え上げました。
 つまり、山道を登ってくるのは、少ないとはいえ護衛の侍を付けることが出来る程度の身分のある「貴人」、それも恐らくはご婦人で、上州から逃げ出そうとしているのだ、と見るのが自然です。
 換え馬や、駕籠や長持の担い手の交代要員《かえ》がいないところからすると、遠くへ行くつもりが無いのでしょう。さもなければ、急いでいてそれだけの人数を集めきれなかったのかも知れません。
 問題は、その「貴人」が誰であるか、です。
 信濃へ向かっているからにはその「貴人」は、信濃に何かしかの縁がある方でしょう。
 とは申しても、北条殿に縁のある方である可能性も無いとは言えません。北条に縁のある方が、本心は相模の方へ行くことを願っていたとしても、その願いが叶うとは思えないからです。
 考えてもご覧なさい。滝川様、あるいは旧武田の陣営の者が、北条殿に縁のある方が国外へ出ようとするのを見過ごすことなどできおうものですか。
 それでも、どうあっても上州から出たい。むしろ出ることのみを考える、と云うのならば、幾分か手の薄いであろう信濃を目指す。そんなことも有り得ないとは申せません。
 とは云えど、やはりそうである確率は低い。大体、動くこと自体が大層難しい筈です。
 ですから件の一団は、信濃に縁者がいる方である公算が高い。
 そして、滝川様の陣営がその方を戦場から離脱させても良いと考えている、あるいは離脱させたいと願っている方、つまり、滝川一益様や織田方に縁の深い方ということが想像できます。
 そうであるならば、我らはあの方々を庇護する必要があります。
 父がどのような腹積もりであるかに寄りますが、その方をお助けすることによって、有り体に言えば「滝川様に恩を売る」ことができます。
 あるいは、証人《人質》とすることができるのです。
 非道と思われましょうや?
 そも、戦など人の道に外れた行いです。それを行うのが武士です。道ならぬ道を通るのが、戦乱の世の侍の役目です。
 少なくとも、我々がここであの方々を「助けて」差し上げれば、その方々は命を拾うことになります。
 例え証人としてであってもです。
 命を拾えば、生きてゆくことが出来れば、そこから先に何かが起きるやも知れません。いや、何かを起こせるかも知れぬのです。
 判っております。言い訳に過ぎません。
 あの時の私も、それが判っておりました。そうやって、言い訳にならぬ言い訳を、心中で己に向かって言い聞かでもせねば、私はその場所に立っていることができなかったのです。
 私は、小心者ですから。
 それでもこの時は、己に言い聞かせるにしても、実際に声に出して言う訳には行きません。私は我が胸の内でだけ己に言葉をかけました。……いや、そのつもりでありました。
 しかし私という鈍遅《ドヂ》の口先は、その主に輪を掛けての粗忽者であったのです。
「業盡有情《ごうじんのうじょう》、雖放未生《はなつといえどもいきず》、故宿人身《ゆえにじんしんにやどりて》、同証佛果《おなじくぶっかをしょうせよ》」
 後々幸直らが私に、笑い話として語った事が本当であるならば、初めのうちはそれでもモゾモゾと口の中で言うだけであったようです。
 ところが声音は次第に大きく高くなり


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