真田家や仙石家は「外様だけど譜代格」、松平家(藤井松平伊賀守家)は十八松平だけど親藩じゃなくて譜代、と云うお話。

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このページは2012年06月11日付けブログ記事に若干の修正を加えたものです。

譜代大名の定義について、ウィキペディア「譜代大名」より引用
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譜代大名

譜代大名(ふだいだいみょう)とは、江戸時代の大名出自による分類の一つである。

もともと「譜第(譜代)の臣」と言うように、数代にわたり主家に仕え(譜第/譜代)、家政にも関わってきた家臣のことをさす。主家との君臣関係が強く、主家滅亡時に離反すると、世間から激しく非難されることが多かった。

概要

譜代大名のはじまりは徳川家康が豊臣政権のもとで関東地方に移封された際に、主要な譜代の武将に城地を与えて大名格を与えて徳川氏を支える藩屏としたことに由来する。それに対してそれ以外の家臣は徳川氏の直轄軍に編成されて後の旗本や御家人の元となった。

譜代大名の定義
  1. 徳川将軍家により取り立てられた大名のうち、親藩及び、外様大名と、その支藩(分家)を除いたものを指す。
  2. 関ヶ原の戦い以前より、徳川氏に臣従して取り立てられた大名を指す。
  3. 幕府の要職に就任する資格のある大名を指す。
旗本が加増され大名となった場合や、陪臣出身の堀田氏・稲葉氏・柳沢氏・摂津有馬氏有馬氏倫系のように、幕府によって新たに取り立てられ大名になった場合は1の定義にあてはまり、譜代大名となる。一方で外様大名家からの分家や、立花宗茂・新庄直頼のように、改易された外様大名が再興した場合は外様となる。家康の男系子孫の建てた家は基本的に親藩とされ、譜代とは呼ばれなかった。

一方、会津松平家や鷹司松平家のように譜代大名に定義されるべき家柄であっても、徳川家との血縁を考慮されて親藩となることもある。一方で、蜂須賀斉裕のように将軍の実子が養子となっても外様のままの場合もある。一方、御三家、御三卿の庶子を譜代大名が養子としても親藩にはならないが、親藩待遇となることがあった。

また本来外様大名である家も、血縁関係や幕府への功績を考慮されて譜代扱いとなることもある。これを便宜上「願い譜代」「譜代各」「準譜代」など呼んでいる。脇坂氏・苗木遠山氏・戸沢氏・肥前有馬氏・堀氏堀直之家・相馬氏・加藤氏加藤嘉明家・秋田氏などがその例である。

江戸城ではこれらの大名は家格により、「溜間」「帝鑑間」「雁間」「菊間広縁」(菊間縁頬)の各伺候席に詰めた。
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真田家の場合
真田昌幸は徳川家には従属していない。
昌幸に言わせれば、真田は豊臣家の家臣、徳川も同じ豊臣家臣。
真田は徳川の「与力(大大名に加勢するために付属する小大名や武将)」であり、同じ大名として言わば「同格」。
(だから、倅の嫁に格下である陪臣・本田忠勝の娘なんぞもらえぬ!……とごねたので、稲姫は「家康の娘」って事にされて嫁いできた)
ということで、1には当てはまらず、
当然旗本(直臣だけど禄高が一万石以下)でも陪臣(家来の家来)でもないので3にも当てはまらず。

昌幸の嫡男・信之が小松姫をお嫁にもらって「娘婿として徳川に出仕」したのは、確かに関ヶ原より前ということにはなるが、当時の真田家当主はあくまで昌幸。
当主たる昌幸が関ヶ原の時に裏切った(第二次上田合戦)ので「真田家」的には2もアウト。

というわけで真田家は微妙に外様。
だけど信之の妻である小松姫が「家康の養女むすめ」なので、「御譜代に準ずる」という扱いにしてもらって、江戸城では「帝鑑間(関ヶ原の戦い後に14万石前後或いはそれ以上の石高の城へ封じられた家系の者がの為の席次)」に詰めていた。


仙石家の場合
藩祖越前守秀久(通称名「権兵衛」)は元来織田信長家臣、豊臣秀吉家臣であって、徳川家には従属していない(そう言う意味では徳川とは「同格」といえた)ので1には当てはまらず。
秀吉没後に徳川方に接近、関ヶ原では徳川方に付いたものの、これをして臣下になったと言うには微妙。
ちなみにこのとき秀久は秀忠隊に随行していた。つまり、上田城で足止めを喰らって、関ヶ原には遅参した。
この時、秀忠の遅参に激怒していた家康に対して謝罪に努めたことから、秀忠に大層感謝されて、秀久は秀忠が将軍となってから特に重用されるようになった。

そう言う流れもあって、秀久は「豊臣恩顧の外様」でありながら「譜代格」として扱われ、江戸城では「帝鑑間」に詰めることが許されていた。
ただし、譜代格扱いはゴンベェの倅の忠政の代までで、孫の政俊の代以降には、詰所は「柳間(幕府成立後に新規に取立てられた大名のうち、城主の格式をもった者が詰める席)」とされた。


藤井松平家の場合
藤井松平家は、家康の高祖父母の父(ひいひいひいおじいちゃん)である松平長親の五男・利長を祖としている。
(ちなみに家康は長男の信忠の家系)
つまり、「松平姓を名乗る家康の親戚筋」ではあるけれど、「家康の男系子孫の家系」ではないので、
十八松平と呼ばれる名門であっても「親藩」ではなく「譜代」ということになる。

藤井松平家は四代目の頃に宗家「松平山城守家」と傍流の「松平伊賀守家」とに別れる。

三代目の信吉の長男・忠国(四代目)が宗家を継ぎ、
次男・忠晴が三代将軍・家光の頃に取り立てられて、2万5000石の大名となった。

こうして二系統に別れた藤井松平家を区別するため、
忠国の系統(宗家)が代々「山城守」の武官名を名乗ったので「松平山城守家」、
忠晴の系統が代々「伊賀守」を名乗ったので「松平伊賀守家」と呼ぶようになった。

仙石氏の後に上田藩主となったのは、「松平伊賀守家」系統の松平忠周。
(余談。側用人、京都所司代を歴任し、八代様(徳川吉宗)の頃には老中までご出世なすった)

「松平伊賀守家」はご先祖様が「譜代大名」であり、且つ
藩粗・忠晴が「旗本が加増され大名となった」に当てはまるので、
1に該当し、譜代大名ということになる。


「願譜代(ねがいふだい)」or「御譜代に準ずる大名」
外様大名の中で、幕閣において長年の功績のある大名を始めとして、主に血縁関係により譜代大名に準ずる家格の大名をいう。
「譜代格」という場合もある。
「準譜代大名」と云う言い方は、後世に便宜上使用されている呼称であって、江戸時代には使われていない。

親藩
江戸時代の藩の分類の一つで、徳川家康の男系男子・子孫が始祖となっている藩を指す。
特に、徳川姓を名乗った御三家・御三卿の当主は家康の男系男子・子孫に限られ、将軍家の血筋が絶えた場合などに、将軍を出す役割を担った。
その他の家は松平姓を名乗った。

藤井松平家
松平長親(家康の「五世の祖」)の五男松平利長を祖とする松平氏の庶流。十八松平のひとつ。

十八松平
松平氏の一族のうちで、徳川家康の時代までに分家したルーツを持つ松平家の俗称。
一説に、「松」の字を分解し「十八公」とする中国の慣習から着想されたとも言い、実際に十八家あったというわけではない、との指摘もある。
竹谷、形原、大草、御油(五井)、深溝、能見、長沢、大給、滝脇、福釜、桜井、東条、藤井、三木、
の十四家で「十四松平」という説がある。
さらにこの十四に
岩津、久松、鵜殿、押鴨、宮石(大給松平分家)、安祥(宗家。即ち徳川家)の何れかを加えて十八家を数え、それをもって「十八松平」とするとも云う。

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