いにしえの【世界】 85
「厄介な」
 ブライトは小さく舌打ちした。
「男親というヤツは、娘とニセモノの区別が付かないもンかね? それとも、娘と一緒であの化け物にテメェの女房の影を見ちまったか?」
 焦思しょうししているような言葉を吐き出しはしたが、彼はそれほどの危機感を抱いてはいなかった。
 それよりも気にかかるのは、背後に現れたはっきりとした殺気の方だ。
 彼は躊躇することなく戦いの中心から目をそらした。
 抜き身の刀にすがってようやく立っている痩せた男がいた。背後には不安げな顔をした踊り子が一人いる。
「よう、腰巾着。何しに来た?」
 イーヴァンは苦々しげに大柄な男を睨み付けた。
「チビ助は、どこだ」
 粗い息の下から、掠れた声が出た。
 ブライトは答えず、顎で客席側を指した。
 イーヴァンは杖のように床に突いていた長剣を持ち上げ、構えた。
 ブライトは若者……と言うよりは少年の、一途で混濁した目を見返した。
 目の中に嫉妬の火が揺れている。
 イーヴァンは、主人が執着しているのは美しい少年の方だけと信じている。
 呑み喰い屋で気勢を殺がれたことが先入観となっていた。
 自分を倒したあの「チビ助」が特別なのだ。崇拝していた主が固執していたのも、「彼」が特別な何かを持っているからに違いない。
 この若者は、よく言えば一本気、悪く言えば短絡的な性格だった。実際に剣を交えていない「下男」のことは、まるで見えていない。その存在すらイーヴァンの念頭になかった。
 その上不幸なことに、心身の衰弱が彼の心眼を狂わせていた。目の前の男がどれほどの力量を持っているのか、冷静に計ることができない。
「退け」
 肩で息をしている。膝も笑っていた。剣の重さにようやく耐えて、どうにか立っている。
 イーヴァンの霞む目に、男が貧相なまでに細い槍を左手に握り、みすぼらしい剣を一振り腰に下げているのが見えた。
 この男がチビ助の家来であるならば、主を守るため、槍で突くか、剣を抜くかして自分に攻撃する筈だ。そうでなければこちらの攻撃を身を挺して防ぐに違いない。
 ところが。
「ウチの可愛いおちびちゃんをぶっ倒して、あの化け物の寵愛を取り戻してぇってンなら、自由にするさ」
 ブライトは体を開いて道を空けた。
「何を言っている?」
 イーヴァンは目を見開いた。事態が飲み込めなかった。
「さっさと行けと言ってるのさ。てめぇと『愛しいご主人様』とが二人でかかりゃ、今のあいつになら或いは勝てるかもしれねぇぜ」
 驚くべき言葉だった。主が殺されることを望んでいるようにすら聞こえる。
「貴様、主君を守ろうという気がないのか? この不忠者め」
 イーヴァンの眼中の火が、嫉妬から怒りに変じた。彼は剣を振りかぶり、ブライトに斬りつけた。
 剣は中空で停まった。ブライトは右の掌で剣の身を受け止めていた。
 イーヴァンは愕然とした。
 片刃の長剣は、重さと腕力で相手を叩き伏せ、撃ち斬る武器だ。体力を失っている今のイーヴァンでは十分な勢いを与えることができなかったため、斬撃に本来の攻撃力はない。
 とは言え、抜き身の本身を、手袋一つの素手で受け止めることが、並の人間にできるはずはなかった。
 エル・クレールが剣を使って防いだことでさえ、イーヴァンにとっては信じられぬことであった。その剣が木刀であると知った時以上に彼は驚愕した。
「不忠者たぁ、面白い物言いだな」
 ブライトは長剣を掴むと、軽く引いた。釣られてイーヴァンの体が前へ倒れ込んだ。
 床に伏して振り仰ぐイーヴァンの顔を一瞥すると、ブライトは右手に掴んだ剣を軽く放り投げた。
 切っ先で半円を描き落ちてきた剣の柄を、彼は無造作に引っ掴んだ。
『死ぬ』
 イーヴァンは直感した。
 自分の剣で殺される。
 一撃でとどめを刺してくれるのか、なぶり者にされるのかわからないが、間違いなく死ぬ。
 悔しい。悔しく、情けない。一矢報いたい。しかし体は一寸も動かない。
 イーヴァンは目を固く閉じた。
 瞼の裏側に焼き付いた男の顔が、口元を歪ませた。吊れ上がった唇の下で、太く長く鋭い犬歯が白く光る。
「一匹を二人掛かりで倒すってのは面白くねぇから、員数あわせをしてもらおうと思ったンだが、テメェがそのざまじゃ数のウチには入れられねぇな」
 ブライトはどこか楽しげに言った。
「大体、俺サマにゃあいつに忠義やら忠誠やらを尽くす義理なんぞねぇんだよ」

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