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あの晩もあの星が出てたよ。
「なんて薄気味の悪い星だろう」
俺が言うと、
「
戦星さ。どこかで大地が血を吸い込んでいるのだろうよ」
あの女は頭巾の中のしわくちゃで弛んだ顔を歪ませて、ニタリと笑ったものだ。
「西の果ての殿様が、東に向かって軍馬を走らせているそうな。そのうち全土を踏み荒らして、ついには魔王を名乗ることだろうて」
女は
竈に大鍋をくべて、臭い汁をグツグツと煮ていた。その匂いの酷い事といったら、柄杓で掻き混ぜる度に、鼻がもげそうになった。
だから言ってやったんだ。
「一体何を煮ているんだ」
女がなんと答えたと思う?
「草の根、木の枝、花の汁、火山の岩、澱みの水、墓場の土、魚の
腑、鳥の
糞、獣の血、人の肉」
あんまり楽しそうに言うものだから、逆に背筋が寒くなったさ。自分で自分を抱いて、ぶるぶると震えた。
女は俺の方に柄杓を突き出した。
「頼んだ物は?」
杓の中でどす黒い汁がゴポゴポ泡を立てていたよ。
俺はその中に、石ころを一つ放り込んだ。
飴玉ぐらいの大きさの、割れて尖った石ころさ。
黒光りのする緑色でぎやまんの欠片みたいに濡れ光りする、何も考えずに見れば何とも
奇麗なヤツだった。
あの女が欲しがっている物だと思うと、うすら恐ろしくなったがね。
だから投げ捨てるみたいにして渡したんだ。
なんでも北の代官が殿様からもらった宝物だって話だった。
そんなに大切な物なら、鍵のかかった蔵の奥にでも
仕舞っておきゃあよかったんだ。
後生大事に懐に入れてたりするから、石ころどころか命まで奪われる羽目になった。……どっちも俺が
盗ったんだがね。
ああ、俺は悪党だ。
金のためなら何でもした。盗みも、人殺しも、金を積まれれば何でもやってのけた。
だからあの女に礼金をはずまれて、なんの考えもなしにやったんだ。
何しろあの女ときたら、昼間会ったときはなんの
変哲もない金持ちの婆さんに見えたんだ。ぶくぶくと太った、退屈な年寄りにね。
あの石だって、珍しい宝石ぐらいに思ってたのさ。
金持ちどもが命かけて見栄を張るための、ただの石っころだと思ったから、半金に五年は遊んで暮らせるって金を積まれて、請け負っただけだった。
その半金だけで、五人分の殺しを頼まれても文句を言えない額さ。だから代官の他に手下を二人
殺ったところで、なんの損も感じなかった。
ああ、石ころを受け取った女は、そりゃぁ嬉しそうに笑ったさ。
俺はてっきり、少しばかり怒るだろうと思ってた。文句を垂れながら、柄杓の中から石ころを拾って、袖か何かできれいに磨くだろうと踏んでいた。
ところが笑いやがった。
魔物よけのお面みたいに口をかっ開いて、蝶番が
軋むみたいな笑い声を立ててね。
しかも、石ころ入りの柄杓を、そのまま鍋に突っ込んだんだ。
ドロドロの、臭い汁の中に、柄杓ごと。
そいつでまた、鍋の中を引っかき回し出した。目に染みる湯気が
濛濛とあがった。
胡椒を引っ被ったみてぇになったよ。目ん玉えぐり出して水洗いしたくなるくらいさ。
涙と鼻水とくしゃみで息もできなくなった。
俺が苦しんで、地べたを転げ回ってるのを、あの女、ケラケラ笑いながら見下ろしてた。
あの時の、暗い
翠の目の色を、俺は忘れられねぇ。ちょうど俺が盗んできたあの石ころと同じ、尖って冷てぇ色だ。
笑いながら、女は小袋一つ取り出して、俺の足下に放り投げたよ。
ずっしり重い黄金の音がしたさ。
「残りの半金だよ。それを持ってどこかへお行き。
妾の事は、すっかり忘れるが良いよ」
俺は袋を掴んだ。
重たくて、重たくて、持ち上げるのに往生した。
それで気付いちまった。
あの女、この金袋を軽々投げやがったってね。
確かに図体のでかい女だろうけれど、ただの女にそんな力があるわけがない。
ますます恐ろしくなった。
金だけ貰って逃げ出しゃ良かったんだ。でも膝が笑って立てもしねぇ。
俺はその場にへたり込んで、金袋抱えて顔を上げた。
女は横面だけこっちに向けた格好で鍋の中を覗き込んでた。
舌なめずりしてた。薄っぺらい唇の裂け目から、細長い舌先をぺろりと出してね。
熾火が下から照っていたよ。真っ赤な光が、女の顎の肉に映ってた。
腸詰めみたいな指先で、
滴り落ちそうになったよだれを拭いていた。
俺は知りたくなった。
足腰が立たねぇんじゃ、ここから離れる事もできねえんだ。膝の震えが止まるまでの時間つぶしをするより他ないじゃないか。
だから訊いた。
「婆さん、俺が持ってきた石ころは、ずいぶん奇麗なものだった。俺も長い事いろんなお宝を見てきたが、あんな石ころは見た事がない。ぎやまんに似ているが違う。大体、ぎやまんの欠けっ端なんぞなら、死んでも手放さねぇってほどの物じゃないだろう?」
実際代官の野郎は、刃物で脅しても石を出さないどころか、死んでも握りしめたきりだった。
そいつを奪うのに、野郎の指を全部切り落とさないとならなかったほど、きつく、堅く握ってたさ。
女は鼻で笑ったよ。学のない人間を
莫迦にしききっていた。
「星の
欠片だよ」
「星? あの空の星かい?」
俺は思わず上を見たよ。赤い惑い星がゆらゆら光っていやがった。
「星が砕けて、流れて、落ちて、地べたの中に食い込んだ、その欠片だよ。空の力と地べたの力とが固まった、とんでもなく物騒な代物さね。しかもあの代官が抱え込んでいたモノだから、人の
怨嗟と
嫉妬がたっぷりとこびり付いている……ついでにあやつ自身の汚い血潮もねぇ」
女はくつくつ笑ったよ。
「御前の
御蔭じゃ。だから礼を弾んだ。とっととどこかへ行ってしまいな」
言われるまでもない。俺だってさっさと行っちまいたかった。でも膝と腰が言う事を聞きやしない。
女は鍋の方へ向き直った。中身のドロドロしたヤツを柄杓に取って、透明な切り子の小瓶に流し込んだ。
「婆さん、その『薬』は、なんに効くのさ?」
今度は答えなかったよ。ただニタァっと笑っただけでね。
ぞっとした。尻の穴に極太い
氷柱でも突っ込まれたみてぇに、背筋が冷たくなった。
間違いない、ありゃ毒だ。
相当に酷い毒に違いない。
この女は一鍋も毒を拵えて、一体どうするつもりだ。
いや、
此奴は人間か? 人の振りをした鬼かも知れない。
ならこの金は紛い物か、術の幻で、本物の金じゃねぇだろう。
俺は金袋を放り出した。
ズシリと音がした途端、体が軽くなった。
立ち上がって、ふらふらと歩いた。
目の前に、女の背中が迫ってきた。
俺はそれを突いた。
「ぎゃっ」
女の体がぐらりと揺れて、鍋の中に倒れ込んだ。
鉄鍋がひっくり返った。湯気だか灰だかわからないものが舞い上がった。
熾火が女の着物の裾に押しつけられて、少し
燻ったかと思うと、いきなり大きな炎になって、火柱が立ち上がった。
火柱の中で、女が足掻いているのが見えた。何か叫ぶ度に口から火炎が吹き出てたよ。
汁の腐ったような匂いと、肉の焼ける匂いで胸が悪くなって、俺は腹の中の物を全部吐き戻した。
口をぬぐって顔を上げると、火はもう収まっていた。
おかしいって気付きゃよかったんだ。こんなに早く火が治まる筈がないってことにさ。
ただその時は、あの女の腹の下にあるものの方に気をとられてたんだ。
焦げた地べたの真ん中に、焼けて
爛れた肉の塊がぼってりと横たわってた。
火脹れした顔を緑色の汁に浸けて、腹の下に鍋を抱え込んだ格好でね。
後生大事に、って感じだったんだ。代官が石っころを握りしめてたのと同じ、死んでも放さないって具合だった。
気になった。無性に気になった。欲しくなったのかも知れない。
鼻を抓んで、口を押さえて、大鍋に近寄った。覆い被さっている肉を蹴り飛ばした。
水のつまった革袋が落ちたみてえな湿った音を立てて、そいつは転がった。
覗き込んだ鍋の底にゃ、青緑色の汁がこびり付いていたよ。
鍋のまま持ってくわけにもいかねぇ。女が柄杓を持っていたはずだ。燃え残ってやしないかって、仕方なしに燃えカスの方を見た。
肉が動いていた。
焦げた皮の下で何かが
蠢いていた。
俺は阿呆のように口を半開きにして、それがもぞつくのを見てた。
しばらくすると、
塊肉の背中だか腹だか、兎も角真ん中あたりがボコリと盛り上がった。
獣か虫が幾匹も詰まってるみてぇに、そのボコリとした物は暴れ回った。しばらくして……裂けたよ、女の体が。
パックリ二つに裂けて、中から白いモノが、麻糸が丸く固まったみてぇなモノが、浮き上がってきた。
それから
百日紅の枝みてぇな棒っきれが二本、突き出た。そいつが地べたをひっつかんで起きあがった。
麻糸玉がぐるりと向き直った。
黒光りのする緑色でぎやまんの欠片みたいに濡れ光りする目玉が二つ、こっちを見て笑いやがった。
俺はまた腰を抜かしちまった。
派手に尻餅をついた拍子に、大鍋が転げた。中身を派手にぶち撒いてね。
飛沫が一滴、俺の半開きの口の中にも飛んできた。苦い、辛い、渋い味が舌ベロに突き刺さった。
焼き火箸でぶっ刺されたかと思ったよ。
慌てて吐き出した。空っぽの腹ん中から無理矢理
血反吐を戻して、口ん中を洗い流した。
そうしたら、耳元で女の笑い声聞こえてね。
「飲み込めばよかったのに」
艶っぽい声だった。目を上げたそのすぐ前に顔があった。
白髪頭の、黒翠の目玉の、真っ白な肌の、真っ赤な唇の、焼き物の人形みてぇにきれいな女の顔。
笑っていた。嬉しそうに。
見惚れた。じっと見続けた。
ぽってりととろけた唇がゆっくり動いて、何かを言ったが、聞き取れなかった。
頭がぐらぐらして、手足の力が抜けた。
そのまま地べたに這い蹲った。
喉に血反吐が引っかかって、息が詰まった。
生温い風が体の熱を全部持っていった。
狼やら山猫やらが来て、手足を食いちぎっていった。熊の野郎は
腑腸を漁っていった。骨にこびり付いた肉は
蛆が溶かした。頭ン中は
埋葬虫が掃除していった。
残ったのは舌ベロだけさ。
毒が残っていやがるんだ。一滴の飛沫が、この舌ベロに染みついている。だから獣も虫けらも草木も、この舌にゃ寄りつきやしない。
ああ、あの女の毒だ。あの女そのものが毒だ。毒の女が毒の瓶を持ってどこかへ行った。