龍蝨―りゅうのしらみ―
この物語はフィクションです。
従って、登場する人物・団体・地名などは、歴史上のそれらとは別物と思ってご覧下さいますよう、お願い申し上げます。
第9話 誕生
判
《
わか
》
っているのだ。
これを押し通すことで、海野一族の中に波風が立つ恐れがある事など、それが信濃国衆に波紋を広げる可能性が高いことなど、武田家中での真田家の立場を危うくするやも知れぬ事など、源太郎には十分判っていたのだ。
それでも、彼は自分の「家」を正統なものとしたかった。傍流でも支流でもない、本流としたかった。
父やおのれが、自分の能力を十二分に発揮して
得た
《
・・
》
家名ではあるが、家柄という根元は弱い。氏より育ちなどといってみても、あるいは
下
《
げ
》
克
《
こく
》
上
《
じょう
》
だなど吠えてみても、この封建の世の中で家柄血筋ほど強いものはないのだ。
そのことも、源太郎は口にしない。
源太郎はただ、懇願のまなざしを弟たちに投げかける。
源五郎も源次郎も、徳次郎も口がきけない。
だれも兄の
のぞみ
《
・・・
》
を否定できない。だからといって肯定することも出来ない。
皆、その憧れを持っているのだから。
やがて、情けなく八の字に寄っていた源太郎の太い眉毛の、その間に刻まれていたしわが、浅くなった。
諦めきれない諦めがようやく付いた様子だ。
しかし肩はまだ落ちたままだ。
「儂は、これから我が子を、何と呼んでやったらよいものか。この
三ヶ月
《
みつき
》
の間、確かにあの子は『小太郎』であったのに……」
ため息を吐き出した、その頃合いを、まるで見計らったかのように、広縁の端から、
「恐れながら」
と、声がした。
先ほど一度下がった小者頭の権助らしい。
源太郎の背筋が伸びた。徳次郎の顔をチラリと見る。源五郎と源次郎が互いの顔を横目で見合う。
「申せ」
そういった源太郎の声は、平静の低さではなく、やや裏返った高い声だった。
「申し上げます」
そっと、権助が障子を開けた。部屋が明るくなった。
「
嬰児
《
ややこ
》
様が……」
権助の弾んだ声音が言い終らぬ、その言葉尻に、大音声の赤子の泣き声が重なった。
「
生まれた
《
・・・・
》
!」
真田の兄弟達は異口同音に叫んだ。同時に立ち上がり、一斉に戸口に駆け寄る。
大の大人四人が殺到した戸口は、権助がわずかに開けたままの狭さであった。全員が戸口に引っかかり、一人も抜け出せず、四つの顔が重なって広縁に突き出された格好になった。
戸の影でかしこまって座っていた権助が、あまりの勢いに怖じ気づいて尻餅をつき、そのままバタバタと後ずさる。
力強い泣き声が、館の中と言わず、塀の外まで響いている。
四つの顔は、喜び、驚き、安堵し、微笑んだ。
一番下から顔を出している末弟の源次郎が、その上に重なった源五郎の顔に安堵のまなざしを向ける。
それを受け止めた源五郎は、その上の徳次郎に喜びの目を向ける。
徳次郎が頷きつつその上を見た。
一番上に乗っかっていた
源太郎
《
・・・
》
の顔
《
・・
》
から、ぬっと太い腕を突き出された。
弟たちの頭を押さえつけ、獣が獲物を踏み越えるような格好で広縁へ出た。
三人の弟たちは三段重ねの菱餅じみた形に押しつぶされた格好のまま、広縁の、大きな長兄の背中を見つめた。
源太郎はしばし無言で、奥向きの一番奥に新しく建てた産屋から響いてくる、力強い産声に聞き入っていた。
「うむ、よう泣いておる。
赤
《
あか
》
子
《
ご
》
は元気そのものと見ゆる。
目
《
め
》
出
《
で
》
度
《
た
》
い。目出度い。……して
於
《
お
》
北
《
きた
》
は、どのような加減じゃ」
権助が深く頭を下げた。
「
嬰児
《
ややこ
》
様も奥方様も、ことのほかご健勝とのことにて」
「おお、おお」
後は言葉にならない。
源太郎は、冬ごもりから明けたばかりの熊が、フラフラと巣穴から出てくるその足どりで、権助に近づく。その顔が、とろけたにやけ面なのが、かえって、飢えた熊よりもなお怖い。
「儂が
倅
《
せがれ
》
は良い
倅
《
・
》
のようじゃの」
権助は一寸ほど顔を上げた。顔色が急速に悪くなった。
恐る恐る主人の顔を上目で
視
《
み
》
て、
「まことに、大変に、大層に、全くに、ご立派に、すこぶるご健勝な……
姫君
《
・・
》
にござると、産婆が申しております」
言い終えぬうちに頭を下げた。床に額のぶつかる音がした。
源太郎の笑顔が凍り付いた。
「
姫君
《
・・
》
、だと?」
震える声の反問に、権助は頭を上げないことで答える。
「
姫
《
・
》
、だと……」
源太郎の言葉と腰から力が抜けた。ドスンと尻餅を突く。背中が丸まった。
そのまま彼は小さくなって座り込んだ。
戸口に積み重なっている弟たちの三つの顔も、一瞬で暗くなった。
待ちに待ち続けてようやく授かり、生まれたのが、跡継ぎとなる男児ではなかった――その落胆は武家の者にとっては小さくない。
徳次郎、源五郎、源二郎は、丸く小さく
しぼんで
《
・・・・
》
いる長兄の背中と、他の兄弟達の顔を順繰りに見回しつつ、各々の脳の中で、言葉を探した。
沈黙の後、最初に声を発したのは源五郎であったが、
「……子を育てるなら初子は
女
《
おんな
》
児
《
ご
》
、二番目が
男
《
おとこ
》
児
《
ご
》
の順が良いと、それがし誰ぞから聞いた覚えがありますが」
かく言う声は消え入るほどに小さいものであった。遠く離れた産屋から大音声に響く一方の「当事者」の泣き声に紛れて、もう一方の「当事者」の耳には届かなかったろう。
いや、届いたとして、長年子供が授からないそのことを、顔にも口にも出さぬものの悩みとしていたに違いないこの長兄にとって、今いったような言葉が、果たして慰めになるものだろうか。
源五郎はチラと上を見、チラと下を見た。
徳次郎は小さくかぶりを振った。源二郎の眉間には縦皺が寄っている。
「いかぬ……?」
源五郎の声は先ほどよりもさらに小さくなっていた。蚊の鳴くそれのほうがよほどに聞き取りやすかろう。
それでも、長兄を慰めるすべを必死に模索し、体の力は抜けきっていても気を張り詰めていた徳次郎と源二郎の耳には、しっかりと聞き取れた。
二人ははっきりとうなずいた。
「……やはり……」
源五郎の表情は少しも変わらなかった。が、肩の力は抜け落ちて、背筋に張りがなくなった。背を押せば、そのまま倒れ込んで動かなくなる……それほど落胆している。
三人とも、あの言葉では慰めにならぬと判っているが、さりとてあれ以上の慰めを考えつくことは出来ない。
源太郎の縮こまった丸い背中(と、その前で動くに動けずにいる小者頭・権助の潰れた背中)を声もなく見るより他に手立てがない。
ややあって重い沈黙を破ったのは、なんと源太郎であった。
「困った。実に困った。全く困り果てた」
源太郎は背を丸めたままぼそぼそと声を出した。
弟たちはまた互いの顔を順繰りに見た。
徳次郎が源五郎の横腹を肘で
突
《
つつ
》
く。
兄に声をかけろ、というのだろう。
『冗談ではない』
血の気の引き切った源五郎の顔色は、火桶の灰の色じみていた。
先ほどようやく絞り出した慰めの言葉が、全くもって無力であると知れたばかりなのに、次の、それも力のある言葉が、すぐに思い付くはずがないではないか。
源五郎は次兄にかぶりを振って見せつつ、肘で源次郎の横原を
突
《
つつ
》
いた。次兄に無言で言付け得られたのと同じことを、今度は彼が弟に対して言付けている。
当然、源次郎は激しくかぶりを振った。こわばらせた顔の中で大きく見開かれた目玉が、じっと、強く、源五郎を見ている。
『ご無体なことを言わないで下さい』
声にならぬ悲鳴が、源五郎の頭の中で聞こえた。
今一度次兄へ目を移せば、徳次郎も、じっと、強く、源五郎を見ていた。
『早う、兄上にお慰めの言葉をかけよ』
声にならぬ厳命が、源五郎の頭の中で聞こえた。
『無茶な!』
武田信玄によって
奥
《
おく
》
近
《
きん
》
習
《
じゅう
》
衆
《
しゅう
》
に取り立てられ、縁類の
養
《
よう
》
嗣
《
し
》
子
《
し
》
に縁組みされる程に見込まれた真田源五郎昌幸という
漢
《
おとこ
》
が、今にも涙をこぼしかねない情けない
眼
《
まなこ
》
で、自分と
ひと
《
・・
》
かたまり
《
・・・・
》
になっている兄弟を見つめた。
弟・源次郎が源五郎の視線を受け止めつつ、幾度も頭を下げる。
兄・徳次郎が源五郎の視線を受け止めつつ、顎を突き出して源太郎を指し示す。
跳ね返される二つの視線に挟まれた
真ん中
《
・・・
》
が、身動きが取れず、妙案も浮かばぬまま、長兄の背へ視線を移した。
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