【覚醒編】 − 胎動の【皇帝(ジ・エンペラー)】 【6】 BACK | INDEX | NEXT

2014/09/26 update
 ぬるい鉄サビの臭いと生暖かい腐肉の臭気が、大理石の床の上で淀んでいる。
 さながら、時間など思慮の外にあるかのような空間だった。
 精気のまるで感じられない影が、無数にたむろしている。
 それらは皆、一つの方向に顔を向けていた。
 玉座がある。
 その主がいる。
 影どもはざわついているが、玉座の主に言葉はない。ただ無言で、掌の上で一つの赤い珠を玩んでいる。
 遠目には人に見えた。
 中肉だが堂々とした体躯、きらびやかで品のある衣装、威厳ある険しい顔立ち。
 そして頭上に冠するのは……二本の鋭利な角。
 玉座の主は美しく切りそろえた頬髭をなでながら、彼にかしずく者達を睥睨していた。
 丸で動きの無かった空気が、ドアのきしむ音と同時にわずかな風となった。
 影どもの視線が乱れ、ざわめきが増した。
 玉座の主はゆっくりとまぶたを開き、闇の中に四角く切り取られた外界との接点をにらんだ。
 それも遠目には人に見えた。
 細身だががっしりとした体躯、古めかしいが上品な衣装、威厳ある柔和な顔立ち。
 そして頭上にはやはり……二本の鋭利な角。
 床を埋め尽くしていた無数の影どもが、この外から来た者のために道を開けた。
「珍しいことよな、【愚者(ザ・フール)】。卿がここに来るとはな」
 玉座の主の声が、荘厳に響いた。
「【皇帝(エンペラー)】陛下にお聞きしたいことがありましてね」
 外から来た者が静かに答えた。
 彼は玉座の前に片膝を付き、頭を下げた。
「よい。朕は弟である卿に、宮殿内で帯刀することと、朕に対して敬礼しないことを許可している」
 【皇帝】は笑顔を浮かべた。尖った犬歯が唇の端からのぞいた。
 顔を上げた【愚者】の口元からも、やはり牙が見える。
「して、弟よ。朕に訊ねたいこととは?」
「まず第一。何故、ユミルに手を出されました?」
 【皇帝】の笑顔が凍った。【愚者】は続ける。
「陛下は私に彼の地の女王を我が陣営に取り込め、と命ぜられた。それ故私は彼の地におもむき、その内情を密かに探っていた」
「確かに朕は卿にギネビア=ラ=ユミレーヌを籠絡せよと命じた」
「では何故、ユミルにオーガを2匹も使わされましたか?」
「弟よ、それはユミルに対する派兵ではない。ミッドに対する宣戦布告だ」
 ユミルは大陸の東端の地、ミッドは中央であり、二国は遠く離れている。
「御意が、はかりかねます」
「ミッドの使節がユミルに赴いたでな。そやつを抹殺したまでのことだ」
「高々うらなりの官僚一人のために、マジュスケェルを2匹も……ですか」
「アーム文字の研究者だったセイン=クミンの倅だ。我らの『秘密』を知っているやもしれぬ」
「用心深いことで」
 【愚者】は吐き捨てるように言い、口元を歪めた。
 【皇帝】の目が険しく光った。
「何が、可笑しい?」
「陛下が派遣した2匹のマジュスケェル・オーガ……。そのセイン=クミンの倅、レオン=クミンに屠られましたよ。至極、あっさりとね」
「何!」
 驚愕のざわめきが空間に満ち、【皇帝】は玉座から立ち上がった。
「当然アーム……【節制(テンペランス)】と【死神(ザ・デス)】は彼の物となりました」
「たわけたことを言うな! そのような、莫迦なことが……」
「私が陛下に対して偽証したことが、今までありましたか?」
 落ち着き払った【愚者】の声に、【皇帝】は納得せざるを得なかった。
「それで、陛下。第二の疑問にお答え願いましでしょうか」
 【皇帝】はこめかみの皮膚の下で血管を痙攣させながら玉座に座り直した。
「申せ」
「ミッドは、殲滅させるご予定ですか?」
「知れたことを」
「大公ジオ3世だけ屠れば充分だと思うのですがね……」
 言って、【愚者】は兄の眉間あたりをにらんだ。
「……陛下が欲しているのは、大公妃ヒルデガルドの身柄だけでしょうから」
「何が言いたい?」
 はっきりといらだちの聞き取れる声で、【皇帝】は下問する。
 その声音を合図に、【愚者】のために広げられた空間が、影達によって狭められた。
 【愚者】はニタリと笑い、
「陛下、あなたの配下のミヌゥスケェルどもに『その男にふれるな』と下命した方が良くはありませんか」
 言葉が終わる寸前のことだ。ミヌゥスケェル・オーガ……小さい喰人鬼……と呼ばれた無数の影が【愚者】に襲い掛かった。
 あるものは腕にかみつき、あるものは背にツメを立て、首根を絞めようとするものもあり、腹を引き裂こうとするものもある。
 だが、【愚者】の表情は変わらなかった。
 そして【皇帝】の口からも下命が発せられることはなかった。
「好きにして良い、と取りますよ」
【愚者】が言うと同時に、彼に襲い掛かった影たちが、苦痛の表情を浮かべた。
 そして、【愚者】が、
「うつろな魂の抜け殻どもよ。
 許されざる存在よ。
 消えろ、我が前より。
 消えろ、未来永劫に」
 と、詩を詠じるように言い終えたとき、影たちはその体から火柱を上げた。
 悶絶する間も絶叫する間もなかった。消し炭も灰の一片すらも残らなかった。【愚者】の言葉の通りに、彼らは消え失せたのだ。
 【愚者】に飛びかからなかった他のオーガどもは、驚愕と不安のまなざしを玉座に向けた。
 無言の問いかけに、【皇帝】はむしろ楽しげな口調で答えた。
「それが【愚者】の力だ。ふれたモノすべてが無に帰る。どだい、その力の差を見抜けぬようなモノは、我が旗下には不要。代わりはいくらでも作り出せるゆえ、な」
 【愚者】が鼻笑でそれに応じる。
「なるほど、私は体の良い在庫整理係でしたか」
「卿は実に頼りになる」
 ニマリと笑った【皇帝】であったが、
「ミッドにどれほどの兵を送ったかは存じませんが、それがすべて整理されないことを祈った方がよいでしょう」
 という【愚者】の言葉で、笑顔は消えた。
「何をたくらんでおる?」
 【愚者】の答えは簡潔だった。
「落ち穂拾いを」
「何と?」
「陛下が刈りこぼした命を、すべて拾わせていただきます。……できることなら、あなたが収穫した以上に」
「朕に逆らうと言うのか?」
 【皇帝】が大河のうねりにもにた低い声で問いただす。
「先ほども申しましたが、私は陛下に対して偽証したことがありませんよ」
 【愚者】は湖水の面のように穏やかな声で応えた。
「卿ほどの切れ者がそれが可能だと思っておるのか?」
 【愚者】は答えなかった。
 ただにこりと笑うと、そのままきびすを返し、【皇帝】に背を向けて歩き出した。
 来たときと同じように道が造られた。
 もっとも、来たときに道が開いたのは畏敬のためであり、去るときに道が開いたのは畏怖のためであるが。
 ……先ほど消滅した同類のさまを見て、彼の行く手を阻もうと思うモノはいなかった。
 それでも、
「陛下……よろしいのですか、あの者を放っておいても……?」
 と、おそるおそる聞く何者かがいた。
 【皇帝】は歯ぎしりした後、何故か笑みを浮かべた。
「アレを止めても無駄だ。おまえたちが見ているのは、虚像に過ぎぬ」
「虚像……? ではあれは幻に過ぎぬと? あれほどの力を発揮したのに?」
「実体は別のところに居よう。賢い弟のことだ、おそらくはすでにミッドへ向かっている」
 【皇帝】の笑みが、より一層楽しげなものに変わった。
「それもまた、好都合」
 ドアはまたきしみながら閉じた。
 空気は再び淀み、この空間は外界から切り離された。
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 間道の【塔《タワー》】

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まろやか連載小説 1.41

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