いにしえの【世界】 − 忠臣 【12】 BACK | INDEX | NEXT

2015/02/16 update
 芝居小屋の客席の方向から、楽屋の通用口を通り抜けて、不安げなざわめきが漏れ聞こえてくる。
 ちらりと通用口を見た彼は、空いた手でそちらを指し示し
「ちょいとお願いだ、プリマドンナ。あっちから『お客さん』が入ってきそうなんだが、百数える間だけ引き留めてくれないか?」
 シルヴィーの返事を聞く前に、ブライトはエル・クレールを担いだまま駆け出した。天幕の、出入り口用のスリットが入っている方向ではなく、太い杭《ぺグ》でピンと張られた「壁」の側に向かっている。
 肩の上で足掻いていたエル・クレールが、暴れるのを止めた。
 腐臭がする。鼻ではなく、脳そのものがそれを嗅ぎ取っている。赤黒く、息苦しい威圧感が足下にまとわりつき、背中を這い上ってくる。
 元凶は蝸牛のようにゆっくりと移動している、とエル・クレールには感じられた。
「死者の、気配……」
 呟いた。ブライトの足が止まった。
「コイツではなく?」
 上着の中に拳を突っ込む。薄暗闇の中、指と指との僅かな隙間から、ほの赤い光がにじみ出るのを見たエル・クレールは、首を否定の形に振った。
「このあたりに、他のが湧いて出たか?」
 古びた上着が小さくうなずいた。
「二つ……二つの気配が一つに繋がっている」
「今日はなんて厄日だ」
 ブライトは担いでいた「荷物」を放り投げた。
「若様!?」
 小さく悲鳴を上げるシルヴィーの眼前に、上着を引き被ったままのエル・クレールが蜻蛉を切って着地した。
「どっちだ?」
 舞台の方向を睨みながら、ブライトが問う。エル・クレールは彼の上着を出口に向かって投げつけた。
 上着は帆布に当たると同時に、切り裂かれて落ちた。
 シルヴィーが悲鳴を上げた。転げるようにエル・クレールの背後に隠れる。
「ヒトの一張羅《イッチョウラ》を駄目にてくれるとは、ホントにこの姫若様はどうしようもないお方だよ。罰として、助けてやらねぇから気ぃ入れて片付けろ」
 言いつつ、ブライトは裂けた上着とは、まるで逆の方向を見やっていた。
 舞台の方角から、物の壊れる大きな音が聞こえる。怒声、悲鳴、恫喝が混じったそれは、ただならぬ事態を知らせていた。
 ちらりと「出口」の側を見た。
 銀色に光る刃物が、テントの布地を縦横にに切り裂いた。人間一人が通れるほどの穴からぬっと現れたのは、
「勅使の腰巾着」
 ヨハネス=グラーヴがイーヴァンと呼んだ若者だった。
 充血により赤く澱んだ眼球が落ち尽きなく動く様子や、眉間から鼻の頭にかけて不快と興奮の縦皺を刻んだ顔立ちは、常軌を逸していると言えなくはない。だが彼は、肉食獣がアルコールを飲んだような口臭をまき散らし、肩を大きく上下させ、呼吸をしている。
『クレールはコイツのどこに屍体の臭いを嗅ぎ取ったってンだ?』
 疑念はあった。だが、今朝から彼女は生ける屍を見極める感覚がひどく乱れている。
 真鬼《オーガ》か人鬼《グール》か、あるいは別な「生きていない物」の気配を感じ取ったのは間違いないだろう。ただし、暗闇で目隠しされているに等しい不確実な「視覚」が捕らえたものだ。
『近くにいるとすれば、むしろ向こうの方が、怪しい』
 ブライトの目玉は舞台の方角に戻った。
 ほとんど同時に、イーヴァンが吠えた。
「斬るっ! ヨハンナ様の心を動かす者は、皆斬るっ!」
 長大な剣が風を切った。エル・クレールが身構えている場所から三歩離れた床面に重い鋼の切っ先がめり込んだ。
 貧相な床材の破片と細かな土埃が、猛烈な勢いで飛び散った。乾いた大地の微細な破片が朦気なって立ちこめる。エル・クレールの視界はふさがれた。同時に、仕掛けたイーヴァンからも気に喰わぬ小僧の姿が見えなくなった。
 決して、でたらめな攻撃ではない。
 飛び散った埃から逃れようとするならば、左右どちらかか後ろに飛び退くか、目を閉じ、腕をかざして避けるかしなければならない。
 前の策を採れば反撃のタイミングがずれる。後の策を採れば次の攻撃を見極めることができなくなる。
 エル・クレールの背後には、突然の乱入者におびえるシルヴィーが居る。飛び退くとすれば左右のどちらかの、空間がより広く空いている側となろう。
 イーヴァンの血走った眼球は右側に動いた。
 少年顔をした細身の剣士がそちらに移動した気配はない。
 となれば、標的は同じ場所に止まり、土埃の中で目を閉じ顔を覆っているに違いない。
 はたして、埃の向こうにうずくまる人影がうっすらと見える。
「おおぅ!」
 若い貴族は策の成功と勝利を確信し、雄叫びを上げながら勢いよく踏み込んだ。長剣は再び弧を描いて振り下ろされる。
 剣が硬いものに当たった。
 鞘に収まった一振りの細身の剣が見えた。イーヴァンの太い剣と垂直に交わった形にあてがわれている。
 障害にはならなかった。こともなく両断してなお、剣の勢いは増した。そのまま叩き付ける。
 床に二つめの穴が開いた。
 再び湧き上がった砂埃の中から、細い物が飛び出した。
 イーヴァンの目は、反射的にその物体を追っていた。
 細身の刀の鞘だ。半分に両断された石突の側だけが、軽い音を立てて床に落ちた。
 鞘の断片は床の上を回りながら滑り、中身を吐き出した。
 剣の切っ先の形をした、茶褐色の木ぎれだった。
 イーヴァンは驚愕をそのまま声にした。
「木刀だと!?」
 昼間、チビ助(エル・クレール=ノアール)はあの剣で己の攻撃を受け止めた。あの剣で己の剣を押し戻した。
「木刀で、だと!?」
 もう一度叫んだ。
 目玉を土埃に戻した。小柄な影がうずくまり、震えている。
 土煙が徐々に収まったその場所にあったのは、細く、華奢な踊り子の蒼白な顔だった。
「なッ……おおぅっ!」
 イーヴァンの喉から苦痛の声が絞り出された。上腿に激痛を感じる。
 下を向いた。筋肉の膨張した太腿から、質素な作りの刀の柄が突き出ていた。
 見覚えがあった。
「チビ助の、刀!?」
 イーヴァンは叫んでいた。
「刺さっているのか? 木刀だぞ!? 木切れが、私の身体に……俺の筋肉にっ!?」
 白金色の光の束が、身体の横を通過するのが見えた。
 イーヴァンは首を回し、その影を追った。
 青い上着の裾がちらりと見える。エル・クレールの服だ。
 信じがたかった。
 おそらく自分よりも年下で、間違いなく自分よりも腕力のない小僧が、彼の予測を遙かに超えた力量と動きを見せたことが、イーヴァンには理解できない。
 言いようのない屈辱を己に感じさせているのは、本当にあのチビ助なのか? 信じられるものか、この目で見るまでは――。
 身体ごと振り向こうとする動きは、しかしすでに封じられていた。
 背中に何かが押し当てられている。硬く尖った切っ先が、衣服の上から背の皮膚にちくりと刺さる。
 肋骨の少しばかり下だ。切っ先の向けられた先には、肝臓がある。
 刺し貫かれれば、ただでは済まない。
 動けない。
 イーヴァンは息を呑んだ。
 肩越しに背後を窺い見ると、丸く小さな肩と、そこから繋がるほそやかな腕が漸く見える。
 そして長い髪が、水にさらしたヘンプの色の髪が、光をはじいて揺れていた。
「君、痛みを感じるのですね?」
 エル・クレールが問うた。
「自分でやっておいて、何を言うか」
 イーヴァンは忌々しげに言い捨てた。
 だがそれ以上のことはできない。少しでも身動きしようとすると、背にあてがわれた「何か」が皮膚に与える鋭角な刺激が強くなる。
 背後の敵は、あがらう権利も、腿に突き刺さった木刀の柄を抜く自由も、彼から奪っている。
「急所は外している。腱や太い血管には傷が付いていないはず。安心なさい。私は人間には死ぬような傷を負わせることが元よりできないのですから」
 不可解な言葉だった。
 だがイーヴァンにはその不可解さが何であるのかを考える余裕はなかった。
 言葉そのものよりも、言い振りの方が癪に障ったからだ。
 目上の者が物を知らない子供に語るような、上から抑え込む凛然さがある。
 なんたる辱めか。
 イーヴァンの腑は煮えくりかえっていた。
 その言葉をささやくチビ助の声が、妙に甘い色音だと言うことが、そしてその言葉で僅かに安堵を得た自分が、腹立たしい。
「……もう一度聞きます。私に刺された脚が痛むのですね?」
 エル・クレールは念を押した。
 返答はない。
 だが、大柄な体つきにしては妙に細い顎がぎりぎりと軋み、脂汗が珠と吹き出しているその状態こそが、肯定の回答であることを、背にぴたりと密着して立っている彼女は理解できた。
「赤い石を、持っていますか? 拳ほどの丸い珠……あるいは小さく砕かれた欠片かも知れぬけれど」
 イーヴァンの肩が大きく痙攣した。
 大柄な若者の背は、吹き出した汗でぐっしょりと濡れるている。
 彼は口を利けなかった。
 目が霞んでいる。意識が揺れている。
 原因は腿の傷ではない。背に突きつけられた「鞘の残骸」への恐怖でもない。
 胃の腑が熱い。
 エル・クレールが発した「赤い石」という言葉を聞いた途端、イーヴァンの胃の中で何かが燃え上がった。
 形のないどろりとした存在が、胃の腑の壁を焼いて渦巻いているように思えた。
 やがてその何かは胃袋の中で一点に固まり、形を成し、重さを帯びた。
 異物が腹の中で暴れている。
 猛烈な吐き気に襲われたイーヴァンは、前のめりに倒れ込んだ。
 床に両手を突いて這いつくばり、喉の奥で気味の悪い音を立てる。
 饐《す》えた液体が床を汚して広がった。
 嘔吐物の中に、形のある物はない。
 イーヴァンはなおも腹の中の物を戻し出そうと喉を絞った。
 彼の口からは、血の混じった粘液が僅かに溢れるばかりだった。
 力の失せた両腕は彼の上体を支えきれず、彼は己の吐瀉物の水たまりに顔面から崩れ落ちた。
 痛みの方角が背中向いた。
 刃物で斬られる鋭い痛みとは違う。
 重く固まりで押し潰され、無理矢理に引き裂かれる、そんな鈍く苦しい痛みだ。
 何かが、骨を突き通って、肉を突き破って、背中に突き抜けてゆく気がする。
「たす、けて」
 イーヴァンは喘ぎの中に消え入りそうな悲鳴を上げた。
 彼の身体は小刻みに、不自然に震えていた。
 恐怖ゆえの顫動《せんどう》と、痛みと苦しみが起こす痙攣《けいれん》、そしてそれらとは別の不可解な振動が、彼の身体を揺さぶっている。
 エル・クレールは身構えた。
 この若者の腹の中に「何か」がいる。
 魂のない、心のない、遺志のみで蠢く「物」がいる。
 イーヴァンとその中にいる「物」に神経を注ぎつつ、彼女は視線をブライト=ソードマンに向けた。
 彼も身構えていた。ただし、その備えはイーヴァンに対してのものではない。
 舞台に向かう出入り口の近くに立ち、瞑目し、耳を壁に付け、伝わってくるかすかな音を聞いている。
 機材が置かれた細い通路の先、踊り子達と生意気な戯作者がいるはずの空間からは、今のところ「異常な音」は伝わってこない。
 だが、何かが起こる気配がする。その予感が、ブライトをその場に縛り付けていた。
 こちらへの助太刀は、期待できない――エル・クレールの視線は床に落ちた。
 小柄なダンサーが床にぺたりと座り込んでいる。紅を引いた唇が小刻みに震え、奥歯が小さく鳴っていた。
 恐怖に濡れるシルヴィーの瞳がエル・クレールのそれに縋りついた。
「ここから離れなさい。できるだけ遠くへ」
 エル・クレールは静かに言う。しかしシルヴィーは動こうとしなかった。
 舞台側の出入り口には巨躯の剣士がただならぬ形相で立っている。
 外へ出るために、切り裂かれてぽっかりと穴の開いた「出口」へ向かうには、尋常ならざる状態で打ち倒れている見知らぬ男の傍らを抜ける必要がある。
 どちらの男の肉体からも、近付きがたい不穏な空気が立ち上っている。
 何が起きているのか、何が起きようとしているのか、シルヴィーにはまるきり理解できないし予想もしようがない。
 しかし彼女は、自分の力の及ばない「恐ろしいこと」が起きているらしいと、感じ取ることができた。
 感覚が鋭敏に過ぎるのだ。一流の表現家には必要な感性ではあろうが、今この場ではむしろ邪魔となっている。
『出口がふさがれている』
 シルヴィーは思い詰めてしまった。胸の前で祈るような形で手を組み、首を振る。
 正体のわからない恐怖に押し潰された彼女の心は、手足を動かすことを拒否している。
 瞼を閉じた。押し出されるように、涙がこぼれ落ちた。
 その儚げな美しさに、同性であるエル・クレールが、一瞬心奪われた。
 その一瞬がなければ、彼女は捕らわれる前に、あるいは迎撃ができたやも知れない。ほんの一息、瞬き一つの間が、彼女の直感を鈍らせた。
 イーヴァンが悲鳴を上げた。煉獄の業火に炙られる亡者が、怨嗟と痛悔とをない交ぜ泣きして叫んでいるかのような彼の声を、文字に起こすことは不可能だ。
 驚いて視線を戻したエル・クレールの目に腕の形をした物体が映った。カップの底に残ったショコラに血を混ぜたような赤黒い色の表面には、ぬるりとした光沢がある。
 腕はイーヴァンの身体から出ていた。
 肩からではない。背中だ。衣服を突き破って生えている。
 腕は、真っ直ぐにエル・クレールに向かって伸びた。
 文字通りに伸びたのだ。
 関節であるとか、筋肉であるとか、腱であるとか、そういう形のあるものでできている当たり前の「人間の腕」にはあり得ない動きをした。
 かわしきれなかった。腕はエル・クレールの胴から肩、そして首にかけて巻き付き、彼女の身体を締め上げた。
 掌の形をした突端が、彼女の後頭部をつかみ、覆う。
 彼女の頭は押さえつけられ、イーヴァンの背に覆い被さる形に引き寄せられた。
 彼の背中は磨かれた石の表面そのものだった。質の悪い赤鉄鉱《ヘマタイト》の鏡面には、無数の脈を打つ赤い筋が条痕さながらに浮かび上がっている。
 エル・クレールの顔面は、イーヴァンの背中から拳一つほどの高さで止まっている。暗い鏡面の赤く粗い網目の中に、彼女の顔が写り込む。
 不覚と苦痛に歪んでいた顔が、ふっと笑った。
 エル・クレール自身の顔の上には浮かぶはずもない、優しげな、しかし冷たい微笑だった。
 青黒い唇が、ゆっくりと動く。
「そう、やっぱり、そういうことだったようね。うふふ、思った通りだわ……」
 鏡の向こうの虚像が、独り得心している。
「つまりは、あなたはアタシだということ」
 ねっとりとからみつく声で、嬉しげに言う。
 エル・クレールの背筋に悪寒が走った。虚像の眼が、赤く揺れる。
「アタシは、二人もいらないわよねぇ」
 黒い鏡の中から、何か向かってくる。腕の形をしているようだが、あまりに勢いが早く、正確な形を掴むことはできない。
 しかし形状のことなど、エル・クレールには考える余裕もつもりもなかった。爪の伸びた先端が、心の臓に向かって突き出ようとしている。
 一閃。赫《あか》い光が彼女の体の周囲で弧を描いた。
 悲鳴が二つ上がった。
 一つは、エル・クレールの体の下で。
 イーヴァンが、屠られようとしている獣のそれに似た声を出して、苦しんでいる。
 もう一つは、離れた場所で。
 誰かが、地の底から響く死霊のそれを思わせる声を出して、狂喜している。
 エル・クレール=ノアールは右手に赤く輝く細身の剣を持っていた。
 彼らのような「鬼狩人《オーガハンター》」と呼ばれる者達、そして「鬼《オーガ》」と呼ばれる物達が【アーム《ame》】と呼ぶ、物質でない武器だ。
 それを人の命そのものだと言う者もいる。大抵のそれが、「この世に未練を残して逝かねばならなかった者」が、亡骸の替わりに残していったモノだからだ。
 事実か否か、だれにも判らない。
 確かめようがないのだ。
 所持者と成った人間が、手中の【アーム】に問いかけても、彼らは応じてくれない。
 片膝を床に落とし、呼吸を整えつつ、エル・クレールは体にまとわりついていた二本の「腕」を引っ掴み、投げ捨てた。
 床に落ちた「腕」は、初め切断面から腐汁を流し出していたが、やがてそれ自身が、黄色みを帯びた濁った茶色の、粘りけのある、強烈な臭気を発する液体に変じた。
 傍らでのたうち苦しむ若者の背を見やると、黒い鏡の中に、エル・クレールの顔をしたモノの、恍惚陶然と蕩けた表情が映し出されていた。
 その顔が、次第に小さくなってゆく。
 黒い鏡面が縮んでいるのだ。泥水が地面に吸い込まれるように、水たまりが陽光に乾されるように、鏡が狭まっていゆく。
 イーヴァンが血反吐をまき散らすのとほとんど同時に、鏡は消えた。
 若者の背中は、骨の浮いた生白い「人の肌」に戻った。
 頸動脈に指を添えた。エル・クレールの指先に、かすかな血潮の脈動が感じられた。
「生きている」
 彼女はイーヴァンの耳元に唇を近づけ、一言、
「気を確かに」
 彼はうつろな目を泳がせた。
 光背を頂いた人の影が霞の向こうに見えた気がする。その人は、柔らかく、力強く、微笑んでいる。
 イーヴァンは体の芯に熱い力がわき起こってくるのを感じた。
「案ずるな、君は助かる」
 エル・クレールは断定的に言った。
 身を起こそうとするイーヴァンを押し戻し、汚物の海をよけて仰向けに横たえさせると、彼女はシルヴィーを捜した。
 先程来と同じ場所で、同じ姿勢のまま、彼女は座り込んでいた。
「君一人では逃げられぬか?」
 静かな声で聞かれ、シルヴィーは小さく頷く。エル・クレールは続けて
「ではここで、この人を看ていてください」
 今度は首を横に振った。
 腐臭を漂わせる「化け物」の側にいることなど、恐ろしくてできるはずがない。
「大丈夫。魔物は私が退治した。彼は人間に戻った……いや、元より人間だった。お願い、助けてあげてください」
 エル・クレールはシルヴィーの返事を聞く前に立ち上がった。瞼を閉ざして静かに呼吸するイーヴァンの体を飛び越えると、彼女は楽屋出口へ走った。
 先ほどまでそこに立っていた男の姿は消えていた。
 開け放たれていた形ばかりのドアを抜け、通路へ飛び出す。
 無造作に置かれた書き割りの風景の前を駆けて遠ざかる、ブライト=ソードマンの背が見えた。
 舞台に向かって折れ曲がる時、彼は横顔に小さな笑みを浮かべ、急に足を速めた。
 相棒が追ってくること、すなわち任された仕事を成し得たことに安堵していた。
[WEB拍手]

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