いにしえの【世界】 − 戯作者の憂鬱 【13】 BACK | INDEX | NEXT

2015/02/16 update

 僅かばかり時を戻そう。

 いつまでも見つめていたく、どうにも手放したくない二つの「宝」の見張り番を、不承不承シルヴィーに任せたマイヤー=マイヨールは、楽屋を出ると一つ深い息を吐いた。
 両の手で己の顔を覆い、そこにいつもどおりの外向きな笑顔があることを確かめ、彼は狭苦しい通路を進んだ。
 埃っぽい空気をゆらして伝わってくるざわめきの元は、どうやら舞台の上にあるようだ。
『阿婆擦れ共め、踊っていない間は喰っ喋っていないと気が済まないと来ていやがる』
 心中で口汚くののしる。罵詈も雑言も確かにマイヤーの本音だが、だからといって彼が踊り子達や裏方達を蔑視しているわけではない。
 戯作者・演出家としてのマイヤーは劇団員達を信頼している。
 彼がややこしい台本を書いても、あるいは相当に厄介な振り付けをしても、彼女らは……小さく貧しい劇団故の技術不足は否めないながらも……彼が満足できる演技をしてみせる。
 踊り手・出演者としての彼も同僚達を大いに尊敬している。
 我が侭な演出家の、突拍子もない振り付けを、文句を言いつつやりこなす彼女らの職人気質は、彼には真似のできないことだった。
 なにしろ、演技者としてのマイヤー=マイヨールときたら、自分ができぬと思いこむと、演出家(つまりマイヤー自身のことだが)の指示を無視して、ジャンプの高さやターンの回数を勝手に減らしたり、何食わぬ顔をして大切な振り付けを端折ってしまうような、困った怠け者だ。
 文句を言いつつも三十六回の連続回転《グランフェッテ》を、何とか見られる形に成し遂げる踊り子達の真摯さには、畏敬の念さえ抱く。
 確かに彼らの多くは文字さえ読めず、従って学もなない。
 博奕癖、酒癖、女癖、男癖が、どうしようもなく悪い者もいる。
 世間様に向かっておおっぴらにはできないような「仕事」をしている者だって、いくらか混じっている。そういう連中が持つ人脈が、劇団を助けてくれることもないとは言えないが、むしろ大きな厄災を招き込むことの方が多い。
 そんなことはしかし、マイヤーにはどうでも良いことだった。少なくとも、いまここにいる連中は、マイヤーにとって誰一人欠けてもらっては困る、大切な仲間だ。家族といっても良い。
「いや、一人だけ、どうに要らない余計者がいるか」
 舞台袖からこっそりと観客席を覗き見た彼は、その「要らないの」の禿頭を見つけて首を振った。
 小男だがでっぷりと太ったフレイドマル座長は、落ち着き無く体を揺すっている。
 三歩離れた隣に、黒ずくめの細い影が立っていた。黒い鍔広の帽子と、未亡人がするようなヴェールで顔を覆い隠してはいるが、そこからちらりと覗く妙に赤い唇を、マイヤー=マイヨールが見まごうはずがない。
『男女のグラーヴ』
 知識勝負の戯作者であるマイヤーは、お城の中で退屈に過ごす人々の中で、男女とも厚化粧をすることが当たり前に行われているということを知っている。
 だから、勅使グラーヴ卿が顔を白く塗り、唇を真っ赤に描くことを不思議とは思わない。
 大体、彼自身役者の端くれであり、舞台に上がるときには、当たり前に白粉を叩き紅を引くわけである。普段であっても、化ける必要があると思えば、頬紅を入れ、眉を描くことを厭わない。
 だからこそ、というべきであろう。
 だからこそ、マイヤーはグラーヴ卿の化粧に違和感を覚えた。
『近頃の都の流行は、私のような田舎者には到底理解できないねぇ』
 顔の造作も元の肌色もまるきり無視して、顔中に軽粉(水銀粉)をべったりと塗り、口の周りを辰砂(硫化水銀)で縁取る極端な化粧は、マイヤーの感覚では日常生活には見合わないものに思えた。
 神殿で儀式をする巫女、あるいは薄暗い舞台に立つ役者や踊り子といった、神懸かりの憑代であれば、合点がゆく。美しいが薄ら寒い顔つきは、この世で生きる人間を表すにはふさわしくない。
 あるいは、グラーヴ卿が実は覡《かんなぎ》の側面を持っているとでも言うのであれば、腑に落ちなくはない。ただしそんな話は、少なくともマイヤーの耳には聞こえていない。
『同じ「男とも女とも判らぬ」お人でも、クレールの若様とは大違いだ』
 楽屋に残してきた若様の少し日焼けした顔を思い起こしたマイヤーは、思わずちいさな笑みをこぼした。
 作り物じみてで人形のそれにさえ見える硬い笑顔を浮かべ続けるグラーヴ卿の側で、厄介者のフレイドマルは忙しなく足踏みをしていた。
 広い額が脂汗でテラテラと光っている。それでいて、薄っぺらな唇はかさかさに乾いているらしい。愛想笑いの合間に何度も舐めていた。
 辺りを見回す目玉は、不安げに宙を泳いでいる。誰かを探している。自分を助けてくれる者を求めている。
 彼の空虚な視線が探し求め、探しあぐねている人物は
『この私《あたし》、だろうねぇ』
 マイヤーは、自分の不始末の片を付けあぐねる頼りない「上役」に呆れ果てた。
 そしてふと、このまま出て行かずにいたら、あの禿はどうするだろうかと思った。
 まず間違いなく、フレイドマルの顔色は白粉まみれのグラーヴ卿と見まごうくらい蒼白になるだろう。
 足下には、緊張が流れさせる脂汗と恐怖が漏らさせる小便の混じった、薄汚い水たまりができるに違いない。
 大げさで見苦しい貧乏揺すりと身震いで、元々低い背丈をさらに磨り減らすがいい。
 いっそ虫けらほどの大きさになってしまええば、人を下に見てふんぞり返る真似もできなくなる。自分でこしらえた足下の汚水で溺れてしまうえばいいのだ。
 そこ意地悪い笑みが彼の顔面を覆った。
『試してやろうか。まずは百を五つ』
 マイヤーは右の手首に左の指先を添えた。己の脈で「正確な五百数えるだけの時間」を計ろうというのだ。
 ところが正確さを求めてした脈取りの当ては見事に外れた。
 脈動が普段より五割は速い。
 悪餓鬼のような悪戯心に興奮している自分のばかばかしいさまに、彼はむしろ少々愉快な気分を感じた。
 風景幕にくるまって隠れつつ、笑いで肩を揺するマイヤーに、痩せた年増の踊り子が一人、声をかけた。
「センセ、あまり坊ちゃんを苛めなさんな。わたいに免じて、ここは許しておやんなさい。事が済んだあとで、わたいがたっぷりお灸を据えてやるからさぁ」
 彼女も苦笑いしている。骨張った手を拳に握り、頭を小突く手振りをした。
 この五十に手が届こうかという団員はルイゾンという名で、先代の座長、つまりフレイドマルの父親の頃から一座に所属する最古参だった。
 周囲の者は尊敬を込めてマダム・ルイゾンと呼んでいる。もっとも、ルイゾンはファーストネームだし、なにより彼女は一度だって結婚をしたことがない。従ってこの呼び方は相当に奇妙なものだ。
 それでも、皆が呼び慣れ、当人も呼ばれなれてしまっているため、その奇妙さに違和感を感じる者は、劇団の中には一人もいない。
 マダム・ルイゾンは美人とは言い難い面相をしている。演技者としてもどちらかといえば地味な存在だ。
 彼女は若い頃から端役脇役ばかりを演じ続けている。舞台の中央で喝采を浴びたことはない。
 逆に、脇役であればどんな役でもこなすことができた。もし、早着替えの時間とタイミングさえあれば、一幕の間に十役を演じ別けることもできるだろう。
 器用の後ろに貧乏が付くような踊り手だ。
 しかし一座にとっては必要不可欠な人員だった。どんな演目も脇を固める彼女がいなければ成り立たない。
 舞台の端から全体を見渡し見守り続けた彼女は、最長老となった今、総ての団員達から慕われる母親のような存在となっている。
 マイヤー=マイヨールも、そして我意の強いフレイドマルも、例外ではない。
 ことにフレイドマルは、かつて彼のおしめを替えてくれたこの古株には、三十路を過ぎた今でもまるで頭が上がらないときている。
 彼女が握ったげんこつは、冗談でも比喩でもなく、間違いなく若禿の頭頂部に振り下ろされるはずだ。
「人聞きの悪いことをいいなさんな、マダム。むしろ私《あたし》ゃ獅子の親心のつもりなんだよ。……向こうのが幾分年上だがね……。あの坊やが自分で千尋の谷を這い上がろうって気になるのを、こうしてそっと待っているって寸法さ」
 マイヤーは悪戯を見つけられた子供の顔をし、マダム・ルイゾンは悪童を諭す母親の顔をした。
「だからねマイヤーちゃん、その谷底の岩なんかよりもずっと硬いゲンコをお見舞いしてあげようって言うの。それで代わりってことにして、今は助け船を出して頂戴な。大体、ここでお役人様の機嫌を損ねちまったら、坊ちゃんの首だけじゃ到底済まないってことぐらい、センセなら分かり切ってるはずじゃぁないの」
 諭し持ち上げつついうルイゾンにマイヤーが反論できるはずはなかった。
 錦の御旗を掲げるグラーヴ卿が、毒々しい赤で塗られた唇をゆがめて
「執行」
 と呟こうものなら、即座にイーヴァンとかいう忠実の頭に莫迦が付く若造の剣が閃いて、あっという間に一座全員が処刑されるだろう。
 昼間、呑み食い屋で「強制執行」されかけた時には、幾分かはこちらの立場に理があった。おかげでかばってくれる人が現れ、危ういところで首が繋がっている。
 マイヤーは己の首筋をなで、肩をすくめた。
「クレールの若様に嫌われることになったとしても、すぐにお逃がしせずに、ちょっと顔を出してもらっていた方が、いくらか良かったかかもしれんねぇ」
 大げさに身震いし、戯けた小心者の笑顔を浮かたマイヤーは、軽口の口調で言った。身振りも言い回しも不自然で、つたなささえもある小芝居だった。
 これには見る者に芝居であることを印象づけ、言葉は台詞、すなわち「嘘」であると思いこませようという意図がある。
 つまり逃げ腰な本音を隠したいのだ。マイヤーは自分の弱さを「母親」に見せたくないと思っている。
 虚勢の張り方が歪んでいるのは、彼が嘘を真実にみせかけ、真実を嘘で覆い隠すことを本分とする「表現者」であるからからやもしれない。
 エル・クレールのような素直な観客であれば、演技達者の不自然な演技から彼の意図を読み取ってくれるであろう。が、同じ表現者であり、彼よりも老練な役者であるマダム・ルイゾンが、小僧っ子の「稚拙」な演出演技に欺される筈もない。
 彼女の目の奥に、怒りに似た寂しげな色が浮かんだ。
「あの人は剣術がお強いそうだけれど、まだまだ子供でしょうよ。しかも元々わたいらとはゆかりのないお子さんじゃないの。あの細い肩の上に、一座全員、裏方遭わせて四十とちょいの命を乗っけたんじゃ、あんまりにも可哀相ってものでしょう」
 背の高い女顔の「少年」が言葉も態度も乱暴な劇団員達に気圧されて、身を縮めて下僕の背中に隠れるようなそぶりをしているのを、彼女も他の踊り子達と一緒に見ていた。
 そのとき彼女は、この若者が、見た目に反してかなり幼いのではないかと感じた。
 親が早死にし、若くして家督を継がされた幼子。
 世間の荒波の中に放り出され、溺れぬために背伸びをし続けなければならない童子。
 家名と責任の重さを喘ぐことさえ許されない小児。
 最初にシルヴィーを抱きかかえてきたときの若様が見せた紳士然とした態度と、その後の小心翼翼とした様子のギャップが、マダム・ルイゾンにそんなイメージを抱かせたのだ。
 その想像は、大筋では間違っていない。
 団員の母代わりという立場であるためか、彼女は幼い者に対する慈愛の情が強い。そんな優しさが、彼女にある種の「真実」を見せたのだろう。
 眉根を寄せて額に深い皺を作った彼女は、
「大体、最初から危ない橋を渡っているってのは承知の上のはずじゃないの。センセも一端の男なら、大人の責任の取り方というやつを体現して、わたいに見せておくれ」
 マイヤーの肩を強く叩いたかと思うと、素早く背後に回り込み、尻めがけて脚を突き出した。勢いのない力と回転が、マダムの足先からマイヤーの尻に加えらた。
 マイヤーは舞台裏から文字通りに蹴り出された。
 彼はマダムから「貰った」、軸のずれた倒れかけた独楽に似た不安定な回転を、殺すことも増幅させることもせず、そのまま維持して舞台に躍り出た。
 舞台の床をバタバタ鳴らすその足取りは、泥酔した酒飲みか、疲れ果てた労働者の如く、フラフラとしたおぼつかないものだった。
 フレイドマル座長は不自然な音に気付き、舞台上を見た。途端、その顔面を覆い尽くしていた不安と焦りの土気色が、あっという間もなくバラ色に変じた。
 壊れた木戸の軋みに似た、耳障りのする高いかすれ声で、
「兄弟! わたしの可愛い弟! グラーヴ卿をご案内したよ! さあ、愚兄にキスをしておくれ!!」
 丸い額と眼玉をキラキラと光らせ、大きく腕を広げた。
 ふらつき歩きを披露しつつ、マイヤーは微笑を浮かべた。
『禿め、自分の都合の悪い時ばかりおべっかを使いやがって。何が兄弟だ、可愛い弟だ。冗談はその面だけにしやがれ! 私《あたし》ゃあんたのご両親のことは親とも思っちゃいたが、あんたに兄事した覚えはこれっぽっちだってありゃしない』
 胸の奥でつばを吐いた。
 もっとも、狼狽しきりのフレイドマルにマイヤーの心中を透かし見る余裕などない。
 彼の疲れ果てた面に浮かんだかすかな笑みを、見た目以上に己に都合良く解釈した。
 あとはマイヤー=マイヨールが上手く取りはからってくれるに違いない。口先三寸で言いくるめ、最高の演技をし、勅使様のご不興を晴らしてれる筈だ。
 もししくじったら……そんなことはないだろうが、万が一にもこいつが失敗して、勅使様の逆鱗に触れたとしても、自分は悪くない。
 不首尾の原因は書き損ね演じ損ねのマイヤー自身にあるんだ。
 演目に関わっていない自分には非がない。
 首を刎ねられるのはあいつの方だ。
 非のない自分が閣下からお叱りを受けるはずがない。
 自分は助かる。自分だけは助かる。
 だいたい、この屑ときたら、我が侭勝手に団員を動かして、自分の言うことをこれっぽっちも聞かない高慢ちきだ。踊り子どもも、裏方どもも、皆こいつの口車に乗せられて、自分に逆らってばかりいる。
 どだい、マイヤーが連中に指図すると言うこと自体が、おかしいんだ。
 あいつはオヤジがどこからか拾ってきた、食い詰めた軽業師にくっついていたコブじゃないか。親が死んだあとも、可哀相だからって養ってやったんだ。
 おとなしく舞台の隅で蜻蛉を切っておりさえすればイイっていうのに、ちっとばかり読み書きができるもんだから、オヤジに気に入られて、いつの間にか戯作者センセイ気取りに増長しやがって。
 どこの馬の骨とも知らない薄汚れたボロ切れめ、偉そうな顔ができるようなご身分じゃないだろう。
 こいつが一座からいなくなってしまえばいっそ清々するというものだ。
 この一座の座長は誰だ? この自分だ。
 この一座は誰のものだ? この自分のものだ。
 想像というよりは、妄想、あるいは歪んだ願望と表した方が良い。
 元々マイヤーに対して抱いていた嫉妬の悪感情が、恐怖のために更にねじ曲げられ、醜い方向に膨らんでしまったのだ。
 もっとも、思考が歪んだ成長をするということは、もとより心の中の「そちら側」に隙間があったからに他ならない。フレイドマルの中にはマイヤーを疎ましく思う心があるのは紛れもない事実だ。同時に彼に依存しているのも真実であろう。
 兎も角、その妄想により、座長は極度の緊張から解き放たれた。
 殊勝に縮こめていた肥体を揺すり、青黒く硬直していた面の皮をだらしなくゆるませて、開放感を素直に表現してみせた。
 口角を釣り上げて作った顔かたちの歪みは、マイヤーに投げ返す笑みのつもりらしい。
 そのマイヤーは、本音を覆い隠す仮面の笑いを保持したまま、ふわりと舞台から飛び降りた。足取りは左右に大きくぶれているが、確実にフレイドマルに近付いている。
 ただし、彼にフレイドマルが広げた両手の中に飛び込むつもりは、毛頭ない。弛んだ頬にキスをする気も更々ない。
 座付き戯作者を絞め殺しかねない勢いで抱きしめようとするフレイドマルの、太くて短い腕がぎりぎり届かない所で、マイヤーはぴたりと立ち止まった。
 座長が己の腕の勢いに振り回されてバランスを崩し、自分を抱いた奇妙な格好で前のめりに倒れそうになる滑稽な様子が、目玉の端に映らぬではなかったが、彼はそちらを全く無視していた。
 疫病神の相手をしている暇はない。マイヤーはへたり込むようにグラーヴ卿の前に跪いた。
「閣下、お待ちしておりました。準備は万端とは申せませぬが、お望みとあればいつでも幕をお開けいたします」
 疲労の色の濃い声音を絞り出す。
 恐る恐るの仕草で視線を持ち上げ、マイヤーは勅使の顔色を窺った。
 白塗りの顔に冷たい微笑が貼り付いている。
「ごまかしの帳尻合わせをするのは相当大変そうね」
 グラーヴ卿の言葉が、兼任役者の疲労困憊振りを信じた上でのものであるのか、はたまた、演技と見破った上での厭味であるのか、厚化粧の下の本心はマイヤーであっても見抜き難かった。
「何分にも田舎者でございますゆえ、都の方々に見ていただくのに、不調法があってはならないと、手前共なりに考えましてございます」
「マイヨール、アタシは耳が良いのよ」
 グラーヴ卿の声は耳元で聞こえた。
 マイヤーはそっと顔を上げた。真っ赤な唇が目の前にあった。
 何故か飲み込まれそうな気がし、背筋が凍った。
 冷笑の大きな弧を描く唇が、大きく開いた。思わずマイヤーは身構えたが、グラーヴ卿は口の大きさと比例しない小さな声を出しただけだった。
「お前達が丁寧に通し稽古をしているのがとってもよく聞こえたわ。まあ、聞こえたと言っても音楽だけだったけれども」
「拙い演奏で閣下のお耳を汚しまして、会い済みませんことでございました」
 マイヤーは再度頭を下げた。恐縮と慇懃の最敬礼を、本心ではないものと見抜かれかねないわざとらしさで演じてでも、グラーヴ卿の白い顔から目を背けたかった。
「そんなに卑下しなくてもいいのよ。とっても綺麗な楽譜通りの演奏で感心したのだから。まあ、音は良くても、それに合わせてお前達がどんな演技をしているのかまでは、知れたものではないけれど」
「耳の痛いことでございます」
 頭を上げないまま、マイヤーは答えた。言葉が終わっても、彼は頭を上げることができなかった。
 脇の下から嫌な汗が噴き出している。
『こいつは困った。真冬のムスペル山に放り出されたみたいに、頭が凍り付いて働かなくなっちまった』
 大陸のほとんど真ん中にそびえ立っている尖った火山に、フレイドマル一座が脚を伸ばしたことはない。一座だけではない。ギュネイの民の九割方は、その山の実像を知らないはずだ。
 それでもこの万年雪を頂く山の名前は、マイヤーも含めギュネイの民なら皆知っている。
 夏でも雪が降り積もるとか、家々がみな氷でできているとか、土が凍り付いて作物も家畜も育たぬ故に民は川虫を捕らえて食しているとか、凍え死んだ人々の亡骸が眠る氷の棺が墓地をあふれて街中にまで置かれているとか、嘘と言い切ることはできぬが真実とは掛け離れている噂話が、人々の間でかわされる。
 噂の根底に幾ばくかの事実が無いわけではない。
 山頂は年中雪を被っているものの、麓はむしろ他の土地よりも雪雨が少ないくらいだ。
 山奥では冬の間の雪を突き固めたブロックで狩猟のための特火点《トーチカ》を造ることはある。それは使い捨てで、春には融けて無くなる。
 川虫や蚕の蛹をタンパク源の一つとして重要視しているのは事実だ。しかしそれらは常食されるわけでなく、非常食か嗜好品(虫を捕らえることをレジャーとすることも含めて)の扱いだ。
 氷の棺については、魚や獣の肉を一時的に保存するため氷をくり抜いた箱を造るのを、だれかが見間違えたか言い違えたのだろう。
 人々が事実に尾鰭を付けてた噂を広げたがるのには、理由がある。
 山懐に、御位を自分の腹心に譲った元皇帝陛下が移封された小さな国があったからだ。
 哀れな老人が簒奪者から理不尽な仕打ちを受けている――物事を悲劇にしたがる判官贔屓な人々が抱く幻想が、無責任な噂を広げる。
 何年か前の大きな噴火で、その小国が消し飛んだという伝聞も……それ自体何処まで本当のことなのか判らぬままに……流言飛語のいい加減さを加速させている。
 兎も角も、ムスペルという言葉は寒い場所の代名詞して用いられる。
 マイヤーの脳裏には、果てのない真っ白な雪原に一人放り出された己の姿が浮かんでいた。尖った氷柱が牢獄の檻を形作り、彼の周囲を取り囲んでいる。
 鳥肌が立った。そのくせ、汗が噴き出る。
 マイヤーもそれほどの莫迦ではない。この手強い役人貴族を言葉だけで言いくるめ、ごまかし通すのは無理なことだと、昼間の一件から察している。
 それでもどうにか相手を自分のペースに巻き込んでやるぐらいはできるだろうと高をくくっていた。貴族嫌いの軽蔑心が彼の目先を曇らせていた。
 あるいは、
『マイヤー=マイヨールとしたことが、クレール若様の美しさに魅入られて呆けているのか、ソードマンの旦那に睨まれて縮んだ肝っ玉が元に戻らないのか。全く、調子が狂っちまっていけない』
 責任転嫁をしたくなるほどに、マイヤーは弱り果てていた。
 主導権は完全に向こうが握っている。こちらは蛇に睨まれた蛙そのものに、身動き一つできない状況に追い込まれた。
 湿った白い小さな固まりが、彼の足下にぽとりと落ちた。脂汗で浮き上がり、崩れ流れたドーランだった。
『ままよ』
 ボロ布で額を抑え、マイヤーは頭を持ち上げた。口元に笑みが浮かんでいる。
「相済みません、閣下。只今踊り子どもに支度を直させ、すぐに幕を上げさせましょう。手前も顔を塗り直して参りますので、今しばらくお待ちいただけましょうか?」
 開き直った。
 策を弄するのは止めだ。やるだけのことをやってみようじゃないか。
 全力の芝居だ。筋は先ほどやりかけた方で行こう。
 たしかにやっつけ仕事の改変をしたが、踊り子達はマイヤーの意図の通りに演技をしてくれていた。それを観た「二人の観客」は、芝居に文句を付けていない。いや、むしろあの芝居を楽しんでさえいた風もある。
『確かに若様と旦那は物わかりの良い捌けた方だった。その分、頂いたのは糖蜜みたいな甘い評価だと思ったがいい。下駄を履かしてもらっているのと一緒だ。丸々信用しちゃぁならない』
 彼は若い貴人のほそやかな顔立ちを思い起こしながら、痩せこけた雲客をじっと見た。
 グラーヴ卿は真っ黒なマントで体全体を、黒い帽子の大きな鍔で顔の上半分をすっかり覆い隠している。
 見えるのは、冷たい微笑を浮かべる真っ赤な口元だけだ。
『この白塗りオバケが「芸術」を理解してくれるかどうかは、分の悪い大博奕だが……その分当たり目が出れば、政府お墨付きというとんでもない配当が戻ってくる。どのみち退路はすっぱり断たれているんだ、大勝負に出てみようじゃないか』
 覚悟を決めた。
 笑みを満面に広げた。
 グラーヴ卿を見、フレイドマル座長を見、小さく会釈をして後に、楽団溜まりに顔を向けた。
「さっきの調子で頼むよ、マエストロ」
 マイヤーの声は小さく、言葉は強かった。
 迷いのない眼差しには、白髪頭の指揮者が抱いていた不安を振り払うのに十分な力があった。
 指揮者はうなずきを返し、楽士達を配置につかせた。彼自身も指揮台状で背筋を伸ばす。
 彼らは普段は使うことのないぼろぼろに破けた楽譜を、おのおの譜面台に広げ、音符に神経を注いだ。
 次いでマイヤーは舞台袖から様子を窺っていた裏方衆と踊り子達に鋭い視線を投げる。
「位置について。稽古の通りにやっとくれ」
 団員達は一瞬、ざわめいた。マイヤーの顔が見えない場所にいる連中が、前方の仲間の背に声をかけている。
 振り向いた踊り子達の安堵した顔を見ると、彼らの不安も消えた。
 団員達が舞台裏に消えたのを確認したマイヤーの視線は、フレイドマル座長の顔の上に戻ってきた。
 途端、それまで座長の顔面に広がっていた、弛んだ笑顔がかき消えた。
 マイヤーは微笑している。清々しく笑っている。
 吹っ切れた彼の、いっそ麗らですらある眼差しが、フレイドマルにはむしろ恐ろしげに見えた。
 戯作者の瞳が、澄んだ鏡の面に思えた。
 それも、覗き込む者の真の姿を写す魔鏡に。
 己の薄汚い保身を見透かされた気がする。
「座長」
 マイヤーが穏やかな声で呼びかけた。
 小太りの体が小さく震えた。
「申し訳ありませんがね、どうにも人手が足りませんで。奈落の柱押しの員数が不足していると、以前にも言ったと思いますがね。それを手伝っていただけますかね」
 言葉は要請のそれだったが、フレイドマルには逆らうことの許されない命令に聞こえた。
「あ、それか。分かっている、分かっている」
 座長は小刻みに頷きつつ、ちらりとグラーヴ卿の顔色を窺う。
 勅使様がこの場に残れとお命じにならないかと期待していた。傍らに座す光栄を与えてくださることを願った。
 そうすれば、辛い奈落の肉体労働をせずに済む。
 だが、卿は一言も発さない。そればかりか、顎で通用口の方を指し、彼に奈落行きを促しさえした。
 座長は力なく頭を垂れ、とぼとぼと楽屋裏へ向かった。
 粛々と準備が進む様子を、マイヤーは全身の神経で感じ取っていた。
『万全の体勢で芝居をするとなれば、シルヴィーを若様の所に置いてきたのは、我ながら失策も良いところだが』
 一瞬、弱気が頭を持ち上げた。
 マイヤーはそいつを臓腑の奥底へ押し込めた。
「小汚い椅子で申し訳のないことでございますが、どうぞそちらへ掛けてお待ちくださいませ。すぐに幕を開けましてございます」
 殊更丁寧に言い、マイヤーは深々と頭を下げた。エビのように、腰を曲げたまま後ずさりする。
『若様、旦那、お願いだ。上手いことシルヴィーを連れて逃げておくれよ。この一座に万一のことがあったとして、あの娘なら別の劇団でも十分にやっていける筈だから』
 下げた頭をちらりと横に振り、マイヤーは楽屋の方角を見た。
 その頭頂部に、声が降り注いだ。
「まだ準備は終わっていないのじゃなくて?」
 甘ったるく、ねっとりとした、うすら寒い声だ。
「閣下はお急ぎなのでございましょう?」
 マイヤーは頭だけを持ち上げ、ヨハネス・グラーヴの顔色を窺った。
 帽子の鍔に鼻から上を隠したまま、グラーヴ卿は笑っていた。
 これがなにを意味する微笑なのか、白塗りの厚化粧の上からは読み取れない。
 赤い唇が僅かに動く。
「ねえ、マイヨール。アタシは来る途中に、あのお店に寄ったのよ。ガップから来たという、あの美しい坊やを探しにね」
 マイヤー・マイヨールは、腰を折り曲げて頭だけを持ち上げた不自然な体勢のまま、硬直した。背筋に冷たい物が走り、目の前に薄霞がかかった気がする。
「左様、で」
 ようやっと、相づちを返す。
「我ながら、愚かしいこと。坊や達がまだあそこにいるだろうと思いこんでいたの……。よく考えれば判ることよね。彼らは旅人だもの。一つ所に長居するはずがない」
「左様、で」
 マイヤーは愛想笑いを浮かべた。姿勢は不自然なまま変わらない。
「たくさん人がいたわよ。あの可愛らしい坊やが、みなにお酒を振る舞ったのだって。年若いのに、良く気が回る坊やよね」
「左様、で」
 振る舞い酒を実際に行ったのはブライトであろうと、マイヤーは推察している。
『若様みたいな浮世離れした方が、ああいう飲み屋に集まる鄙俗《ひぞく》でいじらしい連中の腹の内なんかを、判っていらっしゃる筈もない。人心をなごませるのに酒を使おうなんて「姑息」なことは……』
 若様に歪んだ愛を抱いていて、若様のためなら……若様に愛してもらうためであれば……どのようなことでもしてのけるに違いない、俗で頭の回転と手の速い、大男の下男の発案に違いないと思い至り、マイヤーの頬はゆるんだ。
 直後、グラーヴ卿が小さく嗤った。
「そうよね。坊やは良い家臣を持って、羨ましいこと」
 本音を見透かされた。マイヤーは背を鞭でしたたかに打たれたかのような衝撃を感じた。
「アタシにはそういう賢い家来がいないのだもの。可愛いエル坊やごと、彼らをアタシの物にしてしまいたい……できれば直臣に」
「左様、で」
 平静を装って相づちを打ちつつも、マイヤーの腹の中は煮えくりかえっていた。
『冗談じゃない。若様や旦那をこの白塗りオバケなんかに盗られてなるものか。お二方はこの……マイヤー・マイヨールのものだ』
 ある種の嫉妬だった。当人達の考えの及ばない場所で、当人達の気持ちを顧みることをせず、全くの他人に対して焼き餅を焼いている。はた迷惑な岡妬だ。
「それでね。訊いたのよ。当の坊や達がどこにいってしまったのか。……アタシが坊やの立場だったら、あんな酒臭い場所には小半時だって居やしない。できるだけ早く、もっと落ち着く場所に移動したい。そうしたら……皆が皆、とても愚かだった。誰も彼も、知らないって言うのよ。いつの間にか、どこかへ消えてしまったって。……腹立たしいこと」
 凍えるほどに冷たい声だった。マイヤーは手足の指先がじんじんと痺れるのを感じた。
 含み嗤いの音が、グラーヴ卿の帽子の下から漏れる。
「アタシの所には優秀な家臣は居ない。アタシが対処に困ったようなとき、アタシの考えていることとは違うよい方法を考え出して、それを実行できるような、優秀な家来が一人もいない。アタシの家来はみんな、アタシの考えているのと同じことしか思いつけないの。困った子達でしょう?」
 マイヤーの全身が粟立った。無惨で恐ろしいことがあの場所で起きたに違いないという確信が、彼の全身から熱を奪った。
 相づちを打つことを忘れたマイヤーの、ただ開いているだけの眼の中に、黒い鍔広の帽子がぐるりと動くのが写り込んだ。
 グラーヴ卿の顔は舞台の向こう側に向けられている。
 やや遅れて、マイヤーの目玉が同じ方角を向く。
「アタシはね、食べてしまいたいほど可愛らしい白髪頭のエル坊やと、どうしても抱え込みたい下僕が、アタシ達よりも早くここに来ているのではないかと思ったの。お前は命の恩人を接待しているだろうから、舞台の側ではなく奥向きに居るだろう……だからイーヴァンに命じた。もし見かけたら、丁重ににお連れしろ、と」
 グラーヴ卿が一歩足を踏み出した。
 舞台の幕の向こう、壁の裏には細い通路があり、その先には楽屋がある。
 そこには、こちらからの「合図」を待っている人間が三人居る。
 マイヤーは慌てて腰を伸ばした。
「ええ、居られます。確かに居られます。閣下がおいでになる前にこちらにお見えになりました。裏でお待ちいただいておりまして……つまり閣下がご到着なさるまでの間しばらく……今、裏方の者に呼びに行かせましたから……」
 卿の行く手を、彼は体で遮った。
 勅使はマイヤーとほとんど密着した状態で立ち止まった。
 地面の下から物の壊れる小さな音がした。舞台装置担当の怒声、端役の踊り子の悲鳴、座長の声に似た恫喝が聞こえる。
『ええい、このややこしいときに、禿チビめが奈落でなんのヘマをやらかしやがった?』
 マイヤーが内心舌打ちをしたのとほとんど同時に、絹を裂く悲鳴が楽屋の方角で上がった。
 グラーヴ卿が真っ黒なローブを波を打たせて、クツクツと嗤った。
「イーヴァンは……マイヤー・マイヨール、あの時あの酒場で、お前に斬りかかったあの子だけれど……あれはアタシの手の者の中ではすこしましな方なのよ。つまり、ときどきアタシが思いもしないようなことをすることがある、という意味でね」
 卿のねっとりとした声と重なって、楽屋から男の叫び声が聞こえ、重い物が地面を砕く衝撃の轟音が芝居小屋全体をびりびりとゆらした。
「……ほらね。丁重にと命じたのに、力ずくになってしまった」
 マイヤーの顔から血の気が引いた。
「シルヴィー……」
 小さく声を漏らす。つぶやきは、だが周囲の誰の耳にも聞き取れなかった。
 鼓膜を劈く破壊音が再び空気を振動させる。
 男の叫び声がほとんど間をおかずに二回。最初は雄叫び、二度目は悲鳴に近かった。
 攻め込んだ側が逆に痛手を喰ったのだろうということが「遠耳」にも知れた。
「おや、まぁ」
 グラーヴ卿の声には意表外の驚きが混じっていた。
「イーヴァンたら、あれほど『力』を別けてあげたというのに、それでもエル坊やに適わなかったなんて。……それともあの子を泣かせたのは下男の方かしらん?」
 声音の調子は変わらなかったが、口元に浮かんでいた冷たい微笑が、僅かに小さくなった。
「奈落の底の宝物の方は後回しだわ。坊やの方を見に行かないと」
 言葉を聞いているものがいるだろうなどとは、どうやら考えもしいないらしい。それどころかマイヤーが目の前に立っていることすら見えていないようだ。グラーヴ卿は意味の通じない独り言を呟きながら、更に一歩足を前に出した。
 マイヤーは確かに小柄だが、痩せた文官貴族の腕力に易々と屈するような脆弱者ではない。進もうとするグラーヴ卿を体全体で押し戻した。
 その時、彼は貴族が着込む黒いローブの肩口の盛り上がりが、すとんと落ちたのを見た。中にあった物がいきなりなくなったような、不可解な動きだった。
 卿が肩幅を広く見せかけるために大きなパットでも入れていたのだとしても、そしてそれが落ちたかズレたかでもしたのだとしても、合点が行かぬ。
 初め、マイヤーは鍔広の帽子のために錯覚を起こしているのだと疑った。
 それにしても、ローブの肩の幅が頭の幅とほとんど同じというのは、いくら何でも狭すぎはしまいか。
 肩が、腕そのものが、突如としてなくなったのでなければ、このような急激な変化は起きないはずだ。
「閣下……」
 何か言おうとしたが、マイヤーの口も頭も動いてはくれなかった。
 ぴったりと体を付けた格好のグラーヴ卿が漂わせる、白粉と香水の強烈な芳香の後ろに、ひどい悪臭を感じた。
 かつて嗅いだことがある、胸の痛くなる臭気だ。良い印象など小指の先もない。
 物心つく前のかすかな記憶の中に。父母が死んだときに。先代の座長夫婦が亡くなったときに。
 漂泊の旅一座の者が命を終えたとき、その亡骸を葬ることは容易ではない。
 旅先で無縁の遺骸を引き取ってくれる墓地を探す困難は大きい。棺を曳いて幾日も歩くこともありうる。
 かつて愛する家族であった腐り逝く亡骸も、胸を突き上げるあの臭いを発していた――。
 マイヤーは身震いした。膝の力が抜けた。まともに立っていられなくなった。後ずさりし、楽団溜まり《オーケストラピット》の囲いに尻をぶつけ、その縁に座り込んだ。
「死人だ」
 グラーヴ卿は帽子の下で嗤った。
 歪んだ唇からは、みるみるうちに口紅の赤の色が失せた。塗りたくられた顔料が覆った色を覆い隠せぬほど、その下の肉の色が変じたのであろうか。
 死んだ血液の黒が、小さく動く。
「赤い、石……」
 楽屋の方角から、獣じみた悲鳴が上がった。
 女の声にはとうてい聞こえなかった。とすれば、シルヴィーが泣き叫んでいるのではないだろう。地の底から響く、煉獄の業火に炙られる亡者のごとき声が、可憐な「クレールの若様」の声音とも思えない。
 マイヤーはめまいを起こした。恐怖や緊張と、胸の悪い臭気が、彼の神経を麻痺させた。
 彼の背骨はまっすぐ立つ力を失い、後ろ川へ傾いた。頭が弧を描いて落ちる。引きずられる形で体が楽団溜まり《オーケストラピット》の中へ倒れ込んだ。
 白んでゆく脳漿で、しかし彼は必死で考えを巡らせていた。
『まさかにもソードマンの旦那が、あれほど情けなく泣き叫ぶとは思えない。万が一にもあの旦那が絶叫するようなことがあったとしたら、同時に若様の悲鳴だって聞こえて良いはずだ。あの人達はほとんど一心同体なのだから』
 案ずることはない、案ずることはない。
 彼は自分自身に言い聞かせた。
 狭い楽団溜まり《オーケストラピット》の中は蜂の巣を突いた騒ぎになっていた。
 笛吹きたちが一度に舞台下へ通じる小さな潜り戸に殺到し、堤琴《ヴァイオリン》弾きは命より大事な楽器を抱えてしゃがみ込み、喇叭吹きと指揮者が身を縮めておろおろと辺りを見回している。
 倒れ込んできた戯作者の体を受け止めたのは竪琴弾きのユリディスだった。
 彼女は古い竪琴を打楽器弾きの胸ぐらに投げつけるように渡すと、開いた両腕を真っ直ぐに差し出して、落ちてくるマイヤーの頭を散らばった椅子への激突から守った。
 マイヤーの上半身を抱え込んだ彼女は、白目を剥いたマイヤーの頬を平手で打った。
 両頬を数度打っても意識を取り戻さないことに焦りを覚えたユリディスは、拳を握ると彼の顎げたを思い切り殴りつけた。
 おかげで彼の魂は現世に引き戻された。その代償が奥歯二本だというのは、むしろ安く上がったと言わねばなるまい。
 兎も角も、マイヤー=マイヨールは咳き込みながら口の中の血と虫食いの奥歯を吐き出し、瞼をどうにか見開いた。
 霞む目は、細い黒い影を見た。
 倒れ込み、仰ぎ見る格好になったおかげで、マイヤーはグラーヴ卿の顔立ち全体を見ることができた。
『この人の顔は、こんなだったか?』
 昼間、酒屋で遭ったときとはまるきり別人のような気がした。
 顔は青白く、唇は薄く、眼窩は黒く沈んだ色に染まっており、頬にも顎にも髭はない。
 それはあの時と同じだ。
 しかし、どこかが違う。
 顔立ちが僅かに丸みを帯びている。
 顎のあたりのラインが、若々しさを感じる曲線を描いている。
 そのカーブが、
『誰かに似ている』
 マイヤー=マイヨールは、己の脳みそに浮かんだ「想像」を懸命に打ち消そうとした。
 そんなことがあってなるものか、そんなことを信じてなるものか。
 鼻持ちならない年寄り貴族と、愛らしく愛おしい若い貴族の、まるで違う二つの顔が、ダブって見えるなどと、そんなことがあるはずがない。
 鍔の下にぶら下がる、葉脈だけが残った虫食いの枯葉のようなヴェールの中で、青黒い唇が、ゆっくりと動いた。
「そう、やっぱり、そういうことだったようね。うふふ、思った通りだわ……」
 独り言だということは明白だ。グラーヴ卿の目玉は、すぐそこにいるマイヤーの姿など見ていない。
 灰色の目玉に、くすんだ赤の色が混じっている。赤く濁った球体の表面には、この場には存在しない、小さな光の反射が映っていた。
 人の形をしている。不覚を恥じ、苦痛に歪んだ不安げな表情を浮かべている。
 マイヤーがその影を見まごうはずはない。
「クレールの、若……様……」
 グラーヴ卿は優しげな、しかし冷たい微笑を浮かべ、呟いた。
「つまりは、あなたはアタシだということ……アタシは、二人もいらないわよねぇ」
 卿が何を言っているのか、マイヤーにはまるで意味が判らなかった。判らなかったが、直感した。
 ――卿は、クレールの若様に向かって喋っている。
 締め付けられるような恐怖を感じた。
 うっとりと笑いながら、グラーヴ卿は喉の奥から獣の悲鳴を絞り出した。
 顔が歪んでいる。塗りたくった白粉がひび割れ、白い欠片がぼろぼろと落ちる。
 グラーヴ卿は……いや、卿などという尊称を付けて良い「者」か。
 マイヤーの脳に疑念が浮かんだ。疑念は即座に回答に達する。
 目の前にいるのは、人間ではない。
 何か得体の知れない人の形をした「モノ」だ。屍臭を漂わせているのだから、生き物ですらない。
『本物の化け物だ』
 確信した途端、おかしなことに彼の腹の中から恐怖が消えた。
『化け物が、人の道理で人を裁けようものか』
 マイヤーがヨハネス=グラーヴを畏れていたのは、彼を執達吏の類と思っていたからだ。
 真っ当な法家によって真っ当に捕らえられれば、国家の法を横目に「綱渡り」をして飯を喰っている自分たちは、反論の暇もなく斬首されて当然であることは、さしものマイヤーも理解している。
 彼は法を畏れているのではない。法そのものに畏怖を持っているのなら、例えそれが悪法であっても、法に触れるようなことはしないし、できない。
 だが彼は、わざわざ法に触れるような芝居をしている。あえて危険な台本を書き、演じている。同時に、観た者がそそこから彼の犯した罪を連想せぬように、ごまかし、言いくるめてきた。罪に罪を、悪行に悪行を重ねている。
 悪人呼ばわりならば甘んじて受ける厚顔無恥なマイヤーが畏れているのは、法の下で断罪され罪人と呼ばれることだった。
『悪人というのは場合に依るがむしろ尊称だ。でも犯罪者ってのは蔑称以外の何もんでもありゃしない』
 歪んだ考えだった。
 何故彼がそう言う思想を持っているのか、彼自身にもその理由は判っていないらしい。
 思えば子供の頃から擦れっ枯らしじみたひねくれ者だった。どうしようもない叛骨は、あるいは親の代からもの書きという血筋のためかも知れなかった。
 兎も角、彼は己の命が奪われることよりも、公的な書類の上に犯罪者の誹りを記されること、或いは、名を残すことなく罪人としてこの世から抹殺されることを嫌っている。
 目の前にある「モノ」がよし人であったなら、例えそれが死人でもいくらは人の世界の決まり事に影響を与えられよう。
 何しろこの世ときたら、とうの昔に死んだ人間が作った法の縛りや国の仕切りに満ちていて、生きた人間を操っているのだから。
 だが相手が人間でないならば、官吏でも法家でもありはしない。人間でないモノが人の法を笠に着て、この世の書類に罪人の名を記すことなど有りはしない。
 グラーヴ型のモノは、苦痛を喜ぶ叫びを上げつつ、床に倒れ込み、身悶えている。
 マイヤーは立ち上がった。
 楽団溜まり《オーケストラピット》の連中を一人残らず通用口に押し込むと、彼は舞台の上に飛び乗った。
 人に似た形のモノが客席の椅子をなぎ倒して転げ回る様子、「それ」に従ってきていた役人体の人間達までも蒼白な顔で「それ」からじりじりと遠ざかってゆくさまを、一段高い場所から見下ろす。
「毛物《ケモノ》め」
 つぶやき、マイヤーは舞台袖に固まって震えている団員達に視線を送った。
 眼に力が満ちている。
 彼の凛とした顔つきを見た途端、団員達のの膝の震えがぴたりと止まった。青白い顔に血の気が戻るまでには至らぬが、動けるほどには恐怖を克服できた様子だ。肩を寄せ合いつつ、そっと出口に向かった。
 一塊の人間の、ほんの僅かな体の隙間から、別の人間の影が見えた。
 座長フレイドマルだ。
 見覚えのある大きな箱を抱え込んで、おろおろと周囲を見回しつつ立ちつくしている。
 舞台の上にマイヤー=マイヨールがいることに気付いた彼は、禿頭のてっぺんまで紅潮させた。出て行く人の流れを強引に逆らい割って戯作者の元に近寄る。
「一体何のっ……」
 大声で言いかけたフレイドマルだったが、
「……騒ぎだ」
 語尾は消え入りそうなまでに小さく押さえられていた。
「見れば判りそうなものでしょう」
 マイヤーが顎で客席を指す。
 小柄なマイヤーよりもさらに背の低いフレイドマル座長は、ちょっとのびをするような仕草をし、その空間をじっと見つめた。
 そこに何かを見つけたらしい彼は、急に卑屈に頭を何度も下たかと思うと、マイヤーの腕を引っ掴み、元来た舞台袖の方角へ彼を強引に連れ込む。
 アルコールの混じったひどい臭いのする口をマイヤーの耳元に寄せて、抑えた声を出した。
「閣下が笑って居られるじゃあないか。どうやらお怒りではなく、むしろ芝居を楽しみにしておられる様子なのが幸いだ。早く幕を上げないか」
 マイヤーが駭然とするのも道理だ。
 観客席には一個所綺麗に椅子のなくなった空間があるのだ。その真ん中に、黒マントに包まれた、悪臭を漂わせる細長い何かが転がっている。
 普通の光景であるはずがない。
 それなのにこの男と来たら、見えているはずのものとはまるで違うことを言ってのけたのだ。
 この様を異様と思わないほどに無神経なのか、そうでなければ、
「あんた、アレが見えないっていうのかい?」
 マイヤーは思わず大声を出した。
 ほとんど同時に、別の大声が、観客席側であがった。
 男の悲鳴だ。
 振り返ったマイヤーの目に飛び込んできたのは、客席の中に立つ、黒っぽい汚れた石を削って磨いた人の像、だった。
 不可解な像だった。細身で、背ばかり高く、皮膚の下の筋肉がはっきり見て取れるような作りをしている。それでいて、体のラインは柔らかな曲線を描いている。
 マイヤーは初め、少年兵の裸像かと思った。しかしすぐに少女の姿を写した物であると気付いた。
 胸はふくらみを、腰回りは丸みを、僅かだが帯びている。
 その部分をことさら強調し、時として巨大に表現しさえもする成人女性の像とは違った造形ではある。しかしながらマイヤーには、小さな隆起が鋭角な造形の上に生み出す儚げな曲線は、美麗にして劣情的な当たり前の造形よりも艶めかしく見えた。
 確かに美しい形した像ではあったが、同時に不可解で不気味でおぞましいものだった。
 まず材質が良くないように見える。黒い表面は周囲の風景が映り込むほどに磨かれているが、所々ボンヤリと曇り、赤錆色の亀裂が縦横に走っている。
 両の腕は肩の付け根からそっくり無くなっていた。折れた、割れた、とは思えない滑らかな断面が、体の両端に残っている。鋭利な刃物ですっぱりと切断されたかのようだった。
 肩口の断面から、粘った、しかし水気の多い汚泥が、流れ落ちる跡を残してこびり付いていた。
 もしこれを、地中深くの遺跡からたった今掘り出してきたばかりの戦女神の像だと言われたなら、或いは納得したかも知れない。……ただし、半刻前であったなら、という条件付きで、だ。
 像の足下には見覚えのある黒い装束が一塊に落ちている。頭の上には、これも見知った羽根飾り付きの黒い帽子が載っている。
 つい先ほどまで、ヨハネス=グラーヴという人間の形をしていたモノだということを、マイヤーはどうにか「理解」した。そう判ずることが一番合理的だった。
 何が起きているのか、何が原因なのか、深く追求することは無理だし、意義のないことだろうとも判断した。
「こいつは、まずい」
 マイヤーの喉が引きつった。何が「まずい」のか、どう「まずい」のかに明確な説明を与えることはできない。ただ、彼の脳漿はこの場から離れよとだけ四肢に命じている。
 命令は、遂行されなかった。膝が笑って言うことを聞かない。
 羽根飾り付きの帽子の下、人でいうなら後頭部のあたりで、何かが動いていた。
 一見すると、地に届くほどに長い髪の毛の束であった。太い一本の三つに編み込んで、光沢の有る生地で包み込み、先端を猛禽の嘴に似た大きな飾りで覆った髪を、背後に立つ人間の肩に掛け渡しているように見えた。
 そう見えて当然だ。当たり前な思考を持っている者なら、頭の後ろから生えているモノを、一目で蠍の尾や触肢の類と見て取ることができようはずもない。
 それが自ずから動き、背後の人間の肩口に巻き付き、締め付けている光景を、瞬時に、見たそのままに納得するなど、不可能だ。
 ギュネイ皇帝の紋を刺繍した「錦の御旗」の旗竿を掲げていた従者だった。長い触肢が指物を持つ右腕の肩に巻き付き、先端が左の肩口に食い込んでいる。
 硬い物が圧力を加えられて潰される薄気味の悪い音が、彼の体の中から聞こえた。
 旗指物の竿を握った腕を中空に残し、従者は両膝を折って床にうずくまった。悲鳴は無かった。最初の絶叫の直後には、すでに彼は意識を……あるいは命を……失っていたのだろう。
 触肢の巻き付いた細長い肉の塊は、鉄の臭いがする赤い液体を滴らせながら、ゆっくりと空中を移動した。
 行き着く先に有るのは、腕のない女人像だった。黒い石像の右の肩口に右の腕の断面が、左の肩口に左の腕の断面が、それぞれ重ねられた。
 触肢が解けた。腕はその場に止まった。
 指先を僅かに痙攣させた後、腕はゆっくりと動いた。体の前に手を伸ばす。
 像の頭が前に傾いた。帽子が落ちた。
 頬の丸い少年の形をした真っ黒な顔面が、新しく生やした腕を眺め、うっとりと微笑した。
 唇が動いた。
「これだから脆弱な男の体は嫌よ。美しさが微塵もないもの……」
 耳障りのする……声の響く広いホールの人混みで聞いたような、雑音の混じった声だった。しかし、マイヤーには
「聞き覚えがある」
 声だ。否定しようにも否定しきれない。
「クレールの若様だ。……どうなっているって言うんだ。あの化け物、女の体の上に若様のような顔をくっつけて、若様のような声をひりだしていやがる」
 グラーヴ卿の厚化粧の下から化け物現れたことは、どうにか理解ができる。
 初手から薄気味悪いと感じていたグラーヴ卿がついに本性を現したのだと、マイヤーは確信している。
 しかも、この化け物は「別の姿を写し取る」能力を持っているらしい。
 さすがに化け物が生まれついてグラーヴ卿の姿だったのか、あるいは途中からグラーヴ卿に化けたのかまでは解らないが、
「あの化け物め、よりにもよって若様に化けやがった」
 マイヤーは拳を握った。今すぐにあの化け物に殴りかかってやりたい。だが彼は拳そ己の眉間に打ち付けることしかできなかった。
 フレイドマルが目を擦りながら怪訝な顔をマイヤーに向けた。
「何が誰に化けたって? 大体、こいつは何の騒ぎだ? ええい、忌々しい。莫迦共が走り回りおって、埃が目に入った」
 両腕に何か抱え込んでいる。一応、隠しているつもりらしい。上着を箱の上に掛け回してあるが、端の方がめくれ上がっていて、目隠しの意味がない。
 革張りの木箱だ。
 一見、ありふれた作りだが、蓋を開けるには複雑なカラクリを間違えずに動かす必要がある。手順を知っているマイヤーでなければ開けられない。
 大事に抱え込んでいる本人はおそらく知らないだろうが、中身は空だ。
 入っていた物はブライト=ソードマンという田舎侍に「奪われ」た。ブライトは主であるエル=クレールと名乗る若い貴族にそれを手渡した。
 その若様は今、楽屋にいる。
『恐らく乱入者を苦もなく打ち倒し、定めしお恙も無く、多分留まっておられる筈だ』
 それを知らない座長殿に対し、マイヤーは少々いやみたらしく
「あんた、なんでそんな物抱えてるのさ? いや、そんなことより、あんた目玉がどうかしちまったのかい? それともイかれたのは頭の方かね?」
「これは……」
 言いよどんで、フレイドマルは慌てて箱を背中側に隠した。
 いまさらそんなことをしても詮無いことであることを、彼も十分解っているようだった。その焦りや気恥ずかしさを何とか誤魔化そうと思ったのだろう、わざとらしく偉ぶった声を出した。
「そんなことよりも、だ。ほれ、閣下がお待ちなのだぞ。早いところ女共を舞台に引きずり出せ!」
「いくら阿呆でも、人間と、頭の後ろから尾っぽ生やした化け物の区別ぐらい付くだろう? この場所のどこに『閣下』なんて呼べる偉い『人間』がいるって言うんだ?」
 掠れ震えた小さな声だったが、妙にすごみがあった。襟を掴まれたフレイドマルは、亀の如く首を縮めた。
 彼にはマイヤーが戦きつつも怒っている理由が分からなかった。赤く濁った目をしばたたかせ、おどおどした口調で訊ねる。
「兄弟、どうしたっていうんだよ。いつものお前なら、お偉いさんの前で頭を下げないなんて利口じゃない真似はしないだろう?」
 マイヤーは駭然とした。
「マジで見えてないってのか? あんたの脳みそは、粕取りの酒精《アルコール》でイかれたらしい」
「私は酔っちゃいない。おかしいのは、兄弟、お前の方だろう?」
 フレイドマルは白目ばかりか黒目にまで赤い濁りが広がっている眼球を丸く見開いてマイヤーを見つめた。
 途端、マイヤーの背筋に悪寒が走った。
 丸い瞳孔は質の悪い赤鉄鉱を磨いた石鏡のようだった。鏡面には赤い筋が幾本も浮かんでいる。
 曇った鏡の中に、人の顔が映り込んでいた。
 卵形の柔らかな輪郭を持つ、真っ黒な顔だった。鼻筋の通った、少年じみた顔立ちをしている。
 明らかに、マイヤーの顔ではない。
 座長の目玉の中の顔は、優しげな、しかし冷たい微笑を浮かべた。
 青黒い唇が、ゆっくりと動く。
「役立たずの子豚ちゃん」
「ぎゃっ!!」
 フレイドマルが踏みつぶされた蛙のような悲鳴をを上げた。背に隠し持っていた木箱が落ち、装飾金具が床に大きな傷を付けた。
「目玉、目玉が焼ける!」
 顔を覆う両の手の短く太い指の間から、赤黒い光のような、あるいは闇のような、不可解なものが一条、漏れ出た。
「座長!? おい、フレイドマル、何だ? どうした!?」
 膝から崩れ落ちる肥体を、マイヤーが抱え起こそうとしたときだった。
「退きなさい」
 鋭い声が背後から聞こえた。いや、言葉の最後が聞こえたときには、すでにその声の主はマイヤーのすぐ側にいた。
 人間だった。少なくとも人の形をしている。頭から白い光があふれ出て、尾を引いて流れているように見えた。
 きらめく光の帯と見えたのが、流れる髪の毛が弾く輝きであると気付いた彼は、思わず声を上げた。
「若様!?」
 柳眉を釣り上げ唇を引き結んだ白い横顔は、しかし、彼が叫んだときには遠くへ去っていた。
 厳密に言えば、マイヤーの体の方がその人影から遠ざけられたのだ。
 猛烈な勢いで、彼は突き飛ばされていた。
 客席に落ちるぎりぎりの舞台隅まで弾かれたマイヤーは、若い貴族が深紅の光を放つ細身の剣をフレイドマルの顔面に突き立てるのを見た。
 何事が起きたのか、瞬時には理解できなかった。
 初めはエル・クレールの姿を「盗み取った」件の化け物が、フレイドマルに襲いかかったのではないかと疑った。
 だが座長の眼窩に剣を突き立てているのは間違いなく「クレールの若様」だ。マイヤーが「芸術と名声の守護神《ポリヒムニア》」とも思い決めた人物を、ことあろうかニセモノのバケモノと見まごうはずがない。
 マイヤーは身を起こし、エル・クレールを凝視した。
 人が人を襲う恐ろしい光景であるにも関わらず、マイヤーにはエル・クレールの姿が美しく思えた。
 赤い剣のような物の切っ先がフレイドマルの顔面に突き刺さる深さは、親指の長さの半分よりも浅いようだ。その深さでは、目玉を貫くことはできても、脳漿に傷を付けるには至らないだろう。
 つまり、クレールの若様はフレイドマルの命を脅かそうとしているのではないに違いない。
「あの方のやることに間違いはないはずだ」
 何の根拠もなく感じた。
 事実、エル・クレールにはフレイドマルを弑するつもりなど微塵もなかった。むしろこの彼を助けようとしている。
 エル・クレールは浅く付き入れた赤い剣――【正義《ラ・ジュスティス》】のアームを、跳ね上げるような動作でフレイドマルの顔面から引き抜いた。
 太った座長の丸い顔の中から、丸い塊が弾き出された。弧を描いて飛び、丁度マイヤー=マイヨールの目の前の亜麻仁油で固めた合板の床に、湿った音を立て落ちた。
 目玉ほどの大きさの腐肉の塊だった。
 初めは赤黒い潰れた玉の形をしていた。しかし見る間に形は崩れた。あっという間に、黄色みを帯びた濁った茶色の、粘りけのある、強烈な臭気を発する液体となって流れ出し、やがて床板の隙間に吸い込まれた。
 フレイドマルの肥体が床に崩落ちるのと、ほとんど同時に、化け物の悲鳴が再び響いた。
 マイヤーは思わず客席へ振り返った。
 薄汚れた石像もどきの化け物が、相変わらずそこにいた。
 右の手に旗指物の柄を握って杖に突き、残った掌で顔の半面を覆っている。
 さながら、天を仰いで号泣しているポーズだった。実際、指の間からは水っぽい物が流れ出ている。ただし、マイヤーの目の前で流れて消えた物と同じ色の、濁った茶色でどろりと粘った液体が、涙でないのは明らかだ。
 悲鳴を上げ、泣き叫びながら、化け物は笑っていた。快楽の歓喜に震えていた。
「テメェの『分身』をぶった斬られて、痛ぇ痛ぇと涙流して喜ぶたぁ、どうやらこいつがマジモンの変態ってヤツらしい」
 低く押し殺した声の主は舞台袖にいた。
 ブライト=ソードマンは腕組みをし、何故か安堵したような顔つきで化け物を眺めている。
 目玉が動いた。顔の向きを変えぬまま、彼はマイヤーに
「おい、チビ助。そこの丸いのを引っ張って外に出ろ」
 その口調は提案でも要求でもなく命令だった。もっとも理由や口調の如何を問わず、マイヤーがブライトに逆らえる道理はない。
 床を這い、倒れ込んでいるフレイドマルの襟首を掴み、ブライトが立つのと逆側の袖へ後ずさった。
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