いにしえの【世界】 − 黒い月 【14】 BACK | INDEX | NEXT

2015/02/16 update
 化け物は彼らが舞台から降りたことに気を止めていない様子だった。
「ああ、酷い男……『大切な人』が苦しんでいるのに、そんな言い種するなんて。なんて酷い、なんて酷い、ステキな人」
 甘ったるい粘った声で繰り言を呟き続ける。
 顔の上にあからさまな嫌悪を浮かべ、ブライトは石像もどきから顔を背けた。視線が移った先には、眉をつり上げて「鬼に堕ちた者《オーガ》」を睨み付けるエル・クレールがいる。
「こいつは、何だ?」
 ブライトに問われると、エル・クレールの眼が針のように細くなった。
 赤鉄鉱に似た色をしている。しかし鏡の原料ともなるその鉱石にあるべき金属光沢は、汚れた曇りに覆われてい、みられない。
 人の形をしているが人の息吹は感じられないその「モノ」の銘《ナマエ》が、彼女には読めた。
 その言葉を表す文字が、アレに書かれているわけでも刻み込まれているのでもない。
 見えている光景の他に別の情景が脳裏に浮かび、聞こえている物音の他に声が聞こえる。
 漆黒の空に朔の細い光が赤く滲む人里離れた沼地。遠く聞こえる獣の咆吼――。
「【月《ムーン》】」
 短く言い、エル・クレール=ノアールは武器の柄を握り直した。
 錆の浮いた金属質の触肢《しょくし》が彼女の目の前にあった。直線的に、風を切って、迫ってきた。
 蝕肢の切っ先は、形だけ言えば糸を巻いた紡錘《つむ》に似ていた。突端が鋭く尖り、次第に太さを増した後、また尻つぼみに細くなっている。
 それが多関節の長い触肢の先端にあり、【月】の、人の体で言えば後頭部にあたる部分に、繋がっていた。
 顔面のすれすれにまで伸びたとき、尖った先端が二つに割れた。蟹や蠍の爪の形さながらに開いて、得物を掴み引き千切ろうとする。
 標的は、
『私の、眼球』
 だとエル・クレールは直感した。
 上体を後ろに反らして避けた。
「二つも持っているのだから、一つぐらいアタシに別けてくれても良くないかしらん?」
 エル・クレールはその声を、聞いたことのあると感じた。
 妙に懐かしい音だった。しかし、嘘寒い。
 蝕肢は彼女の顔の上を通り過ぎたかと思うと、直角に進路を変更し、下降した。
 金属音がした。
 床を蹴って跳ね上げられたエル・クレールのつま先が触肢を蹴り飛ばしていた。
 はじき飛ばされた蝕肢は、弧を描いて舞い上がったが、軌跡をすぐに直線的なものに戻し、急速に後退した。
 【月】の背後まで戻ったそれは、またしても垂直に降下した。
「欲張りな子。お前の持っている物は後で全部もらってあげるのだから。それまでは、コッチで我慢ね」
 打ち倒されている旗手の頭に、蝕肢の先端が落下した。
 頭蓋が苦もなく割られ、その中身は周囲にまき散らされた。
 引き上げられた蝕肢の先は、丸い物を抓んでいる。白く、真ん中に茶色の円がある。
 蝕肢の先端が上を向き、大きく開いた。嘴の大きな鳥が餌を飲み込む仕草に似ていた。
 白い丸いものが開かれた中に落ち込み、飲み込まれて消える動きも、それを思わせた。
「この子、視力が良いとか腕力に自信があるとか、いつも言っていたのよ。……本当に嘘吐きで仕様のないこと」
 まるで生きている人間のことを話しているかのごとき口ぶりで【月】は言うが、「この子」と呼ばれた旗持ちは、目も当てられぬ無惨な様の死骸となって地面に転がっている。
 【月】はクスクスと笑いながら、半面を覆っていた掌を退けた。
 無機質な黒い顔の落ちくぼんだ眼窩の中に、そこだけ肉の質感を持った眼球が嵌っていた。
「もっとも、近眼だということには、とっくに、気付いていたのだけれどもね。だってこの子ったら、書類を読むときに眉間にこんなに皺を寄せていたのだもの」
 細い眉の形をした装飾の間に、【月】は三筋ばかりの溝を作って見せた。
「ああ、だからこうすると、アタシもあなたの顔が良く見えるのよ。横顔が……ちっともアタシを見てくれないつれない顔が」
 【月】の言葉の通り、ブライトは彼女(と表現して良いのか判然としないが)から完全に顔を背けていた。【月】から目を背けているというよりは、顔を向けた方角にいるエル・クレールを見つめていると表現した方が正しい。
 【月】はその存在すらも無視されている。
 【月】はこれを侮辱と受け止めた。耐え難い屈辱とも感じた。肉体的な苦痛を快楽と感じる彼女(?)だったが、精神的な苦痛は好まないらしい。
 掴んでいた幟旗の柄を投げた。
 刺繍で分厚く縫い上げられた重い錦の布きれが、風を叩く音を立てた。
 ブライト=ソードマンは上体を僅かに反らし、避けた。
 そうするだろうと【月】も考えていた。元より視界を遮るつもりで投げたのだ。
 こうすれば、投げつけられた側は少なくとも反射的に目を閉じるはずだ。
 その瞬きの僅かな間は「エル坊や」から視線が外れる。
 武芸者ならば、無意識に攻撃が発せられた方向を向くだろう。
「さあ、こちらを見なさい」
 雑音混じりの声を【月】が上げた。が、直後、【月】は自分の淡い期待が見事に裏切られたことを知った。
 彼は目の前を猛烈な勢いで横切ろうとする棒きれを、そこに置いてあるもののように掴んでいた。
 瞬きをすることもなく、攻撃者を確認することも全くなかった。
「人間サマの皇帝に対する敬意は、まるでナシ、か。ま、コッチもヒトのことを言えた義理じゃねぇが」
 ブライトは掴んだ竿を乱暴に振り、剣先形の飾りが付いた竿頭を下にして床に突いた。床にだらしなく広がった「錦の御旗」を、草臥れた革靴が踏みつけにした。
 この、まさに瞬きするほどの間、彼の黄味の強い茶の瞳は、視線を送る方向を変えていた。
 【月】に目を転じたのではない。
 彼はずっとエル・クレールから視線を外さずにいる。見つめる対象が動いた、その走る軌跡を忠実に追っていた。
 伸縮自在な蝕肢をかわしたエル・クレール=ノアールは、蜻蛉を切って身を立て直していた。彼女はアーム【正義《ラ・ジュスティス》】の抜き身をひっさげたままつむじ風の勢いで舞台から飛び降りた。
 打ち合わせを重ねた殺陣を演じているかの如く、滑らかな動作だった。
 客席の椅子を飛び越えて向かった先には、二人ばかりの男が震えて立ちつくしている。
 勅使グラーヴ卿の家臣達だ。
 目の前で主が得体の知れぬ化け物に変じ、それによって同僚が無惨な亡骸とされたことに、彼らは恐怖している。互いに寄り添い、抱き合うようにしてようやく立っている。
 一人の男はなめし革の鎧の上にギュネイ皇帝の旗印を縫いつけた上着を羽織り、長い剣を下げている。剣術の稽古で潰れたらしい耳朶に、赤い石の嵌った耳輪を付けている。衛兵のような役目を負っていたらしい。
 もう一人は体の幅の厚い男で、緑色のベストを着、鵞鳥の白い羽根が付いた赤いフェルト帽を片手に握りしめている。短く切りそろえたあごひげの下から、首に巻き付けられた短い首輪の赤い石の装飾が見える。これは勅書や触書を読み上げる伝令官であろう。
 エル・クレールの緑色の目が衛兵らしい男を睨め付けている。
 男は身を縮め、目を固く閉じた。
 エル・クレールは駆けながら無言で剣を振った。下からすくい上げられた切っ先が、衛兵の男の耳を刎ね飛ばした。
 べたりと湿った音を立てて地面に落ちたものは、初めは耳朶の形をしていたが、すぐに溶解しはじめ、やがて腐汁となって流れ出した。
 悲鳴が上がった。衛兵の喉からではなく、化け物と化した彼の主の口からだ。狂喜と歓喜にうちふるえる雄叫びだった。
 ほとんど同時に、他の叫び声も上がった。
 読み上げ係の伝令官だ。
 彼はしかし、同僚が斬りつけられたことに驚いて声を出したのではなかった。
 急に胸が焼けるように熱くなった。
 思わず掻きむしった指先に妙に柔らかい触感があった。
 己の手をまじまじと見た読み上げ係の伝令官は、腐った蕃茄《トマト》を握りつぶしたような赤と、融けた乾酪《チーズ》のような薄黄色が、指と言わず掌と言わず、べっとりまとわりついているのを見た。
 それらが元は己の血肉であり脂肪でああったことを、彼は理解できなかった。物事を考える余裕がなかったのだ。
 首輪が首を締めつけている。
 主から直々に賜った装飾品だった。
 赤い飾りの石が脈打つように蠢いているのは、彼には見えなかった。外そうと足掻いたその時には、もう呼吸ができなくなっていた。
「意識を保て!」
 エル・クレールは叫び、アームを振り下ろした。
 顎から胸までの肉ごと、この男を浸食し始めた【月】の汚れたアームの欠片をえぐり取るつもりだ。
 深紅の剣先は、はじき返された。
 勅書の中身を言葉として発させるのが「役目」であった伝令官の喉元から、別のモノ、見覚えのある蝕肢が突き出ていた。
「そうやって……己のアームを分け与えた他人の体を媒体にして……移動するのかっ!」
 間髪を入れず、真っ直ぐに己に向かってくる蝕肢をかわしつつ叫ぶエル・クレールに、
「ちょっと当たっていて、ちょっと違うわね」
 伝令官の喉の奥から、男のそれとは思えない声が発せられた。
「アタシは鏡。鏡はいろいろなモノを写す。例え小さな欠片でも、周囲をその表面に映し出す。アタシはそれを見る。それを聞く。そしてアタシ自身の肉体に投影する」
 グラーヴ卿の声ではなかった。柔らかく、優しげでいて、粘り着くように甘いその声は、しかし【月】の声に違いなかった。ただし先ほどまでのざらついた雑音が消えている。
 ブライトの耳には、聞き馴染んだ声に似て聞こえた。
 彼ははほんの一瞬【月】の本体のある場所に片方の目玉を向けた。
『姿だけでなく声まで真似られると来たか』
 エル・クレール=ノアールをモデルに匠が黒御影で性愛女神《アシュテレト》を彫り上げたなら……そしてそれが数百年の時を経たなら……おそらくこのような裸像ができるであろう物体があった。
『対象物を長く見、詳細に写し込むほどに、本物と虚像の差が縮まる……らしいな』
 【月】にとって不幸であったのは、この一瞬間、彼女が「よそ見」をしていたことだった。
 戦闘の相手を、衛兵や伝令に授けた小さな破片からのぞき見るのではなく、我が目で見、鏡本体、すなわち自分の体の表面に写し込もうとするあまり、彼女は邪恋の相手がこちらを見てくれたことに気付かなかった。
 ニセモノの横顔に浮かぶような恍惚の色が本物のエル・クレールの顔に広がった所を、少なくともブライトは見たことがない。それでも彼女がその表情を浮かべたとしたなら、それはこの石像もどきと同じ顔になるに違いなかった。
 本物が行っているところを直接映さずとも、本物と同様のことができる、ということらしい。
『この分だと、おそらく「能力」まで写し盗りやがるな。やれやれ、厄介な鏡の化け物め』
 ブライトの目玉はすぐに元の位置に戻った。
 直後、彼の眉間には深い縦皺が刻まれた。
 【月】の声を聞いたエル・クレール=ノアールが、おびえている。
「アタシはとっても好奇心が強いの。あれもこれも、総てを知りたいし、総てを手に入れたい」
 ブライトにエル・クレールの物真似と聞こえた【月】の声を、エル・クレールはかつて聞き覚えのある声と感じた。
 その声の優しさ、懐かしさ故に、彼女の体は強張っている。
 伝令官の喉元から、蝕肢ではない、もう一本の物が突き出た。どす黒いそれは左の腕の形をしている。手に、澱んだ赤の細身の剣を握っていた。
 蝕肢の直線的な攻撃は、どうにかかわした。かわした先に筋張った腕が待ちかまえてい、弧を描いて斬りつけてくるのも、何とか防いだ。
 それらはぎこちない動作だった。動きから精細さと柔軟さが失せていた。
 飛び退いて、着地を失敗し、椅子の列の中に倒れ込んだ。
 革靴の音がした。倒れ込んだ椅子を蹴り飛ばしながら、エル・クレールの側に寄って来る。
 良く磨かれた革靴を履いた伝令官の肉体は、上体を反らした安定感のない体勢になっていた。頭は真後ろに落ちこんでいる。
 彼の目に前が見えるはずはない。位置的にも、そして生物学的にも。
 にもかかわらず、ふらつきながら伝令官の「体」は歩いている。喉元から生えた腕の脇、蝕肢の根元に、大きなコブができていた。
 不気味な音がした。肉が千切れ、骨が砕ける音だった。
 コブが大きくなって行く。
 皮膚の下に、凹凸のある丸いものが埋め込まれているようにも見えた。
 【月】は笑いながら言う。
「あなたにもアタシの気持ちがわかるでしょう? だって、あなたはアタシだもの」
 ぬらした革製品が裂ける音が鳴った。ほとんど同時に、錆びた鉄と腐った肉の臭いが当たりに広がった。
 伝令官の首と胸の間、破れた皮膚の下から、血肉に塗れた女の首が現れた。
 額の丸い、彫りの深い、端正で、どこか幼い顔立ちの、真っ黒な女の頭が、男の体の胸の上に唐突に乗っている。
 上体を起こしたエル・クレールは、真っ白い顔を化け物に向け、唇を振るわせた。
「お母様《おたあさま》?」
 ブライトの耳朶がピクリと振れた。それ以外に表情の変化はない。
 しかし、彼は心中で叫びにも近い驚愕の声を上げていた。
『テメェの顔真似が、母親に見える、だと? いやそれ以前に、あの化け物の声を親の声に聞き間違えていやがったか』
 伝令官の体から生えた頭の造形は、ブライトにはエル・クレールそのものに見える。ただし、元の【月】の淫奔さが声にも表情にもにじみ出ている。それは今の彼女の肉体からはほとんど感じられないものだ。
 それがためにエル・クレールにはあれが自分の虚像だとは認識できないのだろうと、彼は考え至った。
 彼女の耳は自分と似た、自分よりもずっと大人びた声を聞き、目は大人びた女性を見たのだ。
 すなわち、彼女の母親の姿を。
 ブライトはエル・クレールの口から直接両親のことについて詳しく聞いたことはなかった。
 彼女が自ら話すことはないし、ブライトも聞き出そうとしなかった。
 聞き出す必要はないと考えていたのだ。
山奥の小さな集落に押し込められた老いた元皇帝と若い妃が、鬼《オーガ》共にどのように殺され、いかように拐《かどわ》かされたのか、あえて聞くまでもなく見当が付く。
『親父は真っ当な死に様じゃなかったろうし、お袋が着衣乱れぬまま連れ去れれたなんてことは到底ありえねぇ』
 鬼畜の所行という言葉はこの場合比喩ではない。童女であったクレール姫がどれほどのショックを受けたのか、想像に難くない。
 しかも、しくじりに際すれば己を責めるあまりに鬼《オーガ》に堕ちかけたことが幾度かあるほどに、責任感の強い彼女のことだ。親と故国が受けた辱めすらも、自分に力があれば防げたと、自分が非力であるが故に皆を救えなかったと、思い極めているのだろう。
 エル・クレール=ノアール、いやクレール=ハーン姫にとっては、両親、殊更生き別れてしまった母親という存在そのものがトラウマだと断じてもよい。
『ウチの可愛いクレールちゃんは、本人が見間違うくらいに母親似だってことか』
 ブライトは男の体から生えた真っ黒な女の顔らしき物体を睨み付けた。
 見る間に【月】の面に喜色が広がる。
「ああ、見て。アタシを見て」
 蝕肢と腕が攻撃の動きを止めた。
 エル・クレールが身を起こすのに十分な隙だった。それでも体勢を立て直すための猶予を与えてくれるほど【月】は情け深くなく、悠長でもなかった。
 ブライトが見ているのが彼女自身ではないと気付くのにそれほど時間はかからなかった。僅かの間休んでいた蝕肢はすぐにまた鋭角な動きを取り戻した。エル・クレールの顔面めがけて真っ直ぐに飛びかかった。
 避けつつ、撲つ――エル・クレールは判断し、行動した。
 蝕肢は白金の髪を二筋ばかり引き千切り、彼女の顔の横を通り過ぎた。
 すかさず剣を跳ね上げるように振った、筈だった。
 エル・クレールの腕だけが、天に向かって突き上げられていた。
 手の中には何もなかった。握り頼っていた武器がない。
 通り過ぎた蝕肢の先端が、U字に舞い戻ってきた。身を縮めてやり過ごし、床を転げてその場は逃げた。
 執拗な追撃が床にいくつもの穴を開けた。
 壁……といっても厚織りの天幕地だが……の際まで転がった。逃げ場がなくなった。
 顔を上げると、【月】は遠く離れた場所で顔面に焦慮を広げ、歯ぎしりしていた。
「本当に男の体という物は美しくない。重いばかりで動くことさえままならないなんて」
 よたよたと歩いている。
 どうやら乗っ取った伝令官の肉体が思うように動かないらしい。あるいは彼はまだかすかに意識を保っていて、必死に元の主に抵抗しているのやも知れない。
 兎も角、体を「操縦」している間は、攻撃の手を弱めなければならないらしい。
 エル・クレールは己の腰に手を伸ばした。
 その場所にアーム【正義】が封印されている。手の内から消えた武器が戻る場所はそこしかない。
 腰に触れた途端、鞭打たれたような音がし、指先に激しい痛みが走った。
 アームが力を解放することを拒んでいる。
 目の前が暗くなった。
「エル坊や、うふふ、あなたの武器は、とってもあなた思いなのね」
 【月】の声が徐々に近付き、
「あなたの武器は、あなたを傷つけたくないのよ。だからアタシを斬ることができない。だってそうでしょう? アタシはあなたそのものなんだもの」
 止まった。
 【月】はエル・クレールから五歩あまり離れた場所に立ち停まっていた。移動することを止めたのだ。すなわち、攻撃に専念するということだ。
 蛇蠍《だかつ》が気炎を吐き出すような、すれた音がした。
「厄介な」
 ブライトは小さく舌打ちした。
「男親というヤツは、娘とニセモノの区別が付かないもンかね? それとも、娘と一緒であの化け物にテメェの女房の影を見ちまったか?」
 焦思しているような言葉を吐き出しはしたが、実のところ彼はそれほどの危機感を抱いてはいなかった。
 それよりも気にかかるのは、背後に現れたはっきりとした殺気の方だ。
 彼は躊躇することなく戦いの中心から目をそらした。
 抜き身の刀にすがってようやく立っている痩せた男がいた。背後には不安げな顔をした踊り子が一人いる。
「よう、腰巾着。何しに来た?」
 イーヴァンは苦々しげに大柄な男を睨み付けた。
「チビ助は、どこだ」
 粗い息の下から、掠れた声が出た。
 ブライトは答えず、顎で客席側を指した。
 イーヴァンは杖のように床に突いていた長剣を持ち上げ、構えた。
 ブライトは若者……と言うよりは少年の、一途で混濁した目を見返した。
 目の中に嫉妬の火が揺れている。
 イーヴァンは、主人が執着しているのは美しい少年の方だけと信じている。
 呑み喰い屋で気勢を殺がれたことが先入観となっていた。
 自分を倒したあの「チビ助」が特別なのだ。崇拝していた主が固執していたのも、「彼」が特別な何かを持っているからに違いない。
 この若者は、よく言えば一本気、悪く言えば短絡的な性格だった。実際に剣を交えていない「下男」のことは、まるで見えていない。その存在すらイーヴァンの念頭になかった。
 その上不幸なことに、心身の衰弱が彼の心眼を狂わせていた。目の前の男がどれほどの力量を持っているのか、冷静に計ることができない。
「退け」
 肩で息をしている。膝も笑っていた。剣の重さにようやく耐えて、どうにか立っている。
 イーヴァンの霞む目に、男が貧相なまでに細い槍を左手に握り、みすぼらしい剣を一振り腰に下げているのが見えた。
 この男がチビ助の家来であるならば、主を守るため、槍で突くか、剣を抜くかして自分に攻撃する筈だ。そうでなければこちらの攻撃を身を挺して防ぐに違いない。
 ところが。
「ウチの可愛いおちびちゃんをぶっ倒して、あの化け物の寵愛を取り戻してぇってンなら、自由にするさ」
 ブライトは体を開いて道を空けた。
「何を言っている?」
 イーヴァンは目を見開いた。事態が飲み込めなかった。
「さっさと行けと言ってるのさ。てめぇと『愛しいご主人様』とが二人でかかりゃ、今のあいつになら或いは勝てるかもしれねぇぜ」
 驚くべき言葉だった。主が殺されることを望んでいるようにすら聞こえる。
「貴様、主君を守ろうという気がないのか? この不忠者め」
 イーヴァンの眼中の火が、嫉妬から怒りに変じた。彼は剣を振りかぶり、ブライトに斬りつけた。
 剣は中空で停まった。ブライトは右の掌で剣の身を受け止めていた。
 イーヴァンは愕然とした。
 片刃の長剣は、重さと腕力で相手を叩き伏せ、撃ち斬る武器だ。体力を失っている今のイーヴァンでは十分な勢いを与えることができなかったため、斬撃に本来の攻撃力はない。
 とは言え、抜き身の本身を、手袋一つの素手で受け止めることが、並の人間にできるはずはなかった。
 エル・クレールが剣を使って防いだことでさえ、イーヴァンにとっては信じられぬことであった。その剣が木刀であると知った時以上に彼は驚愕した。
「不忠者たぁ、面白い物言いだな」
 ブライトは長剣を掴むと、軽く引いた。釣られてイーヴァンの体が前へ倒れ込んだ。
 床に伏して振り仰ぐイーヴァンの顔を一瞥すると、ブライトは右手に掴んだ剣を軽く放り投げた。
 切っ先で半円を描き落ちてきた剣の柄を、彼は無造作に引っ掴んだ。
『死ぬ』
 イーヴァンは直感した。
 自分の剣で殺される。
 一撃でとどめを刺してくれるのか、嬲り者にされるのかわからないが、間違いなく死ぬ。
 悔しい。悔しく、情けない。一矢報いたい。しかし体は一寸も動かない。
 イーヴァンは目を固く閉じた。
 瞼の裏側に焼き付いた男の顔が、口元を歪ませた。吊れ上がった唇の下で、太く長く鋭い犬歯が白く光る。
「一匹を二人掛かりで倒すってのは面白くねぇから、員数あわせをしてもらおうと思ったンだが、テメェがそのざまじゃ数のウチには入れられねぇな」
 ブライトはどこか楽しげに言った。
「大体、俺サマにゃあいつに忠義やら忠誠やらを尽くす義理なんぞねぇんだよ」
「何、だと?」
 理解できない。疑念の色がイーヴァンの青白い顔の上に広がった。
「いや、そんな面倒臭ぇモノはいらねぇって言った方が良いかもしれんな」
 ブライトはイーヴァンから奪い取った剣と錦の御旗をはぎ取った旗竿とを左右の手に握ると、それぞれを肩に担うように構えた。
 両の目で別々の的に標準を合わせている。
 二筋の風が僅かな時間差で起きた。大気が悲鳴を上げた。
 剣は曇った鏡面の肌を持つ化け物の顔面へ、旗竿は武器を失った剣士の頭に、それぞれその切っ先を向けて真っ直ぐに飛んだ。
 人力によって投げられたなどはとても思えない。攻城戦用の連弩から撃ち出されたかのような猛烈な速さと重さを持っいる。
 右腕が発射した剣の方が僅かに早く目標に達した。【月】の眉間のど真ん中に、刃区《はまち》に至るほどに深く、剣が突き刺さった。
「ああっ!」
 叫んだのはイーヴァンだった。細い筋張った手指で顔を覆った。恐る恐る、指の隙間から「主であったもの」の様子をうかがう。
 【月】は無言だった。攻め手が止まっていた。両方の目を中央に寄せ、己の額に何が起きたのかを確認した。口元に浮かぶ悦楽の笑みが大きくなった。
 その耳に、別の風音が聞こえた。
 赤い、細い、何かが飛んでくる。
 申し訳程度に尖った切っ先が、エル・クレールのこめかみに突き立てられようとした。
「ああっ!」
 この悲鳴もイーヴァンのものだった。思わず目をつぶっていた。
 エル・クレールはこの「攻撃」を上体を僅かに反らしただけで、避けた。
 そして、左の腕を持ち上げると、目の前を猛烈な勢いで横切ろうとする棒きれを、そこに置いてあるもののように掴んでいた。
 彼女は瞬きをすることも「攻撃者」を確認することも全くしなかった。
 エル・クレールは爆ぜるように立ち上がった。
 手の腹に棘が刺さったような、小さな痛みを感じる。
 武器とするには心もとない細さの棒きれを握りしめ、身構えた。
 【月】はエル・クレールをじっと見た。
「ねえ、勇ましくて可愛らしい『アタシ』」
 エル・クレールは唇を真一文字に引き結び、【月】をにらみ返す。
「あなたのお付きの、あの逞しい方ね……それからあなた自身もだけれど……賢いのかそうでないのか、アタシにはさっぱりわからなくなったわ」
 蝕肢が、顔の形をした石くれに突き刺さっている剣の柄に巻き付いた。
「だってそうでしょう? こんなモノやそんなモノで、アタシを倒そうなんて……」
 蝕肢が前後左右に動いた。骨にこびり付いた肉を大包丁でこそげ落とすような、薄気味の悪い音がする。
 石くれの顔の表面がひび割れた。中からドロドロとした茶色い粘液があふれ出る。
 一際大きく深いひびが頭蓋を取り巻くように走ったかと思うと、半球型の石の塊がごとりと落ちた。
「まさか本気で思っているの?」
 眉から上の頭蓋がなくなった石像から、長い剣が引き抜かれた。
 腐汁に塗れた剣が、エル・クレールに向かって投げ付けられた。
 細い旗竿がしなる。剣の横腹を叩いた。
 鋼の塊を払い落とした木の棒は、折れて、その先端部分は文字通りに木っ端微塵となり、吹き飛んだ。
 降り注ぐ木切れの中から、蝕肢と赤黒い剣の形をしたものとが飛び出してきた。
 エル・クレールは残った半分の旗竿を両の手で握り、防ぐ。
 折れた棒きれごときで防ぎきれる攻撃ではなかった。竿は更に短く折れ砕けた。
 ナイフ程の長さになった旗竿を、エル・クレールは右手に握った
 【月】の左手が突き出される。
 旗竿で打ち払った。剣を握った形の手首が、普通の肉体ならば決して曲がるはずのない方向に折れた。
 淫猥な歓喜の悲鳴と同時に、蝕肢が伸びていた。先端の爪が開く。エル・クレールの頭に噛み付こうとした。
 エル・クレールは咄嗟に左の腕を振った。硬い外骨格を平手で打つ。
 金属と金属が当たる音がした。
 【月】の蝕肢は、それが旗竿を砕いた時と同じように、ひび割れ、粉砕され、吹き飛ばされた。
 そればかりか、【月】の本体も弾き飛ばされていた。
「なにごと!?」
 仰向けに倒れながら、【月】はエル・クレールの姿を探した。
 彼女の体は【月】が倒れる反対に向かって、やはり飛ばされていた。
[WEB拍手]

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