いにしえの【世界】 − 奈落の底 【8】 BACK | INDEX | NEXT 2015/02/16 update |
薄暗く埃っぽい舞台裏で、幾人かがあわただしく動き回っていた。 大部屋の楽屋にたむろしていた娘達よりは幾分年嵩らしい女性達と、劇団員とはとても思えない厳つい男達が数人、罵り合うような言葉を投げつけあい、それでいて和気藹々とした雰囲気で作業を行っている。 彼らにとってはそれがあたりまえの会話なのだろうが、エル・クレールは違和感を憶えた。 仕方のないことではある。 クレール=ハーン姫は世が世なら都の玉座に在している筈の、一級品の箱入りだ。 確かに、貴族と平民の垣根が低い山奥の小国に生まれ、農婦樵夫《しょうふ》とも親しく接する環境に育った身ではある。訛り、あるいは砕けた言葉を知らぬではない。 それゆえ、普段のブライトが口にする言葉程度の乱暴さであるなら、聞くことに問題はなかった。 そこには「慣れ」の部分がある。 生まれ育った国風の穏やかなミッド公国においての訛りや砕けかたや、好むと好まざるとに関わらず四六時中共に過ごし会話している男の口ぶりには慣れきっている。 ところが、ここにいる裏方達の言葉遣い、語気の強さ、イントネーションといったものは、箱入りのクレール姫にとっては未知のものであったし、国を出たエル・クレール=ノアールの旅行きの中でも耳にしたことのないものだった。 「西の方の……北側の海っ縁だな」 ぼそりとブライトが言った。 帝国に住まう人々は、己の国土を大雑把に五つほどの地域に分けて呼んでいた。 その呼び名はすこぶる単純だった。 帝都のある「西の方」、そこから大陸の反対側の「東の方」、古い都ガップがあるあたりは「北の方」、南方の海沿いは「南の方」、そして国土の中央あたり、すなわち亡国ミッドがあった地域は「山の方」とか「高い所」といった具合だ。 この単純な区分けは、帝国の主がギュネイ家になる以前からなされていたものだ。 新しい主になってから、それに仕える役人達は彼らなりの行政区分を設定した。 ブライトの言った「西の方の北側の海っ縁」にしても、「西部北西郡内務省港湾警備局特別行政区北地区」という名前がある。政府直轄の港町の北側ということを言いたいために、こういう長ったらしい名前になっているようだが、その煩雑さが四百年の習慣に勝てるはずもない。 当の役人達が、書類の上には長々と文字を連ねながら、頭の中ではそこに昔ながらの呼び方のルビを振り、音読する。 その方が通じるのだから仕方がない。現に、エル・クレールも古い地名が持つイメージから、ブライトの言わんとしていることを汲み取ることができた。 都に近い港町は、各地から荷駄と人が集積する。港も町も人があふれかえり、騒がしい。 騒音の中では、指示を出す声もそれに答える声も、大きく簡潔でなければ相手の耳に届かない。職場と町中の風習はそのまま家の中に入り込む。大人も子供も男も女も、普段から怒鳴るような大声で会話するようになり、やがてはそれがその土地での「当たり前」となる。 人の出入りの激しい土地柄であるから、特殊な「当たり前」はそれを見聞きした人々が各地に伝える。よって、「西の方の北の港町」と言えば「喧嘩腰の言葉」と、「山の方」の人間であるエルにもすぐに得心できるのだ。 彼らが争いごとそしているわけでも、怒りを持って言葉を発しているのではないということが、である。 これを「西部北西郡内務省港湾警備局特別行政区北地区」と言ってしまっては、連想ができない。 とはいうものの。 納得がいったからといっても、すぐに慣れてしまえるものではない。 エル・クレールは肩をすぼめるようにして、裏方達の横を通り抜けた。 見知らぬ若者を見かけた裏方達は、一様に一瞬不審顔になった。直後、暗がりに目をこらしてその「不可解な美しさ」を見いだすと、ある者は息を飲み込み、あるいは嘆息し、ある者は口笛を吹いた。 下品な声を掛ける者もいた。肩幅の広い、下腹の出た、一寸年齢のつかめない顔立ちの男が、ブライトに向かって 「金剛の旦那、その子はどこの流行子《ハヤリコ》だい?」 舌なめずりしながら言うその言葉の意味が、エル・クレールにはわからなかった。ただ、ブライトが物も言わずに声の主の禿頭を殴りつけたのを見て、どうやら相当に「佳くない言葉」なのだろうということは理解した。 「痛ぇ!」 喚いた禿頭は殴った相手を凄まじい形相でにらみ返した。文句の三つ四つを言うつもりだったらしいが、そいつの口元に浮かんだ笑みと目の奥に揺れる激怒を見た途端、愛想よく後ずさりすることに方針を転換した。 彼は助勢を求めてマイヤー=マイヨールを見た。戯作者は彼を一別すると、忌々しげに舌打ちした。禿頭は青ざめ、器用なことに後ろ向きのまま大道具の影へ走り込んだ。 マイヤーはちらりと振り返り、小さく頭を下げた。 「こういうシゴトをしてますとね……つまり、女の踊り子ばかり集めた劇団の裏方みたいなシゴトですが……女共の喧しさやら化粧臭さやら面倒くささやらに嫌気がさす野郎も出てくるんですよ」 「女性嫌いになる者も多いと?」 エル・クレールはマイヤーではなくブライトに訊ねた。 「……まあ、そういうことで……」 彼は何とも表現しがたい顔つきで、歯切れ悪く答えた。 その表現しがたい顔を彼はマイヤーに向け、 「そういうこともあるだろうってのは理解してやるが、だからってうちの姫若さまを色子呼ばわりしてもらっちゃ困るンだ。俺がこいつを抜かなかったって事を、有り難がってもらいてぇな」 下げた大刀の柄を軽く叩き、低い声で言う。 声を潜めたのは多分に脅しをきかせるためであるが、同時に、話の内容を当のエル・クレールに聞かれたくはなかったからであった。 『このオヒメサマときたら、下々の者の下の方のスラングはまるきり知らない温室育ちだ。そのくせ妙に向学心が高いから、解らないことがあると説明しろと迫りやがる。不承不承教えてやればやったで、穢らわしいだの不潔だのと騒ぎ立てときてる。そんなヤツにテメェが男色家に男娼扱いされたなんてことが聞こえたら、俺まで癇癪に巻き込まれて半殺しにされかねん』 であるし、また、 『そういうウブで潔癖なところが可愛いンだ。世の中の小汚ねぇところに触らせてたまるか』 だった。 マイヤーは古びた刀がカチリと鳴るのを聞くと、生唾を飲み込んだ。 「何分、裏の連中はホンモノの貴族様なんてものを拝んだことがありませんもので。つまり区別が付かないんですよ。貴族の格好をしてる人間全部が、貴族の格好をした下賤に見えてしまうという按配で」 「痛ぇ皮肉を言いやがるな」 薄く笑うブライトに、 「イヤですよ旦那。そんなつもりで言ったんじゃありません。政府のえらい人がおしなべて似而非《エセ》貴族だなんてこと、私《あたし》 ゃ一言も申し上げちゃいませんから」 マイヤーはからりと笑って返した。 舞台の真裏まで来ると、マイヤーは床板の一部を捲りあげた。薄暗い縦穴に縄が一筋垂らされている。 深さはそれほどでもなさそうだった。人が立てば頭の先が見えるか見えないかぐらいの、むしろ浅い穴だった。 穴はその深さのまま横に掘り進められ、その先が舞台の下に通じている。 裏方が下げていた鯨油ランプを一つ奪うようにして取り上げたマイヤーは、点けた火が消えぬよう慎重に、しかし素早く穴の中に飛び込んだ。 覗き込んだブライトは 「掛け小屋のクセに、ずいぶん大がかりな奈落を掘ったものだ。土地の者に文句を言われたンじゃないのかい?」 言いながらふわりと飛び降り、穴から腕を一本突き出す。その手を握り、エル・クレールも飛び降りた。 「顔役に木戸銭の半分をせびられましたよ。全く商売あがったりで」 背筋を伸ばして歩くマイヤーの後ろを、ブライトとエル・クレールは背を丸めてついて行く。 「あれだけの踊り子を抱えて、喰ってゆくのが大変そうだな」 パトロンが付いているのだろうことは、ブライトもエルにも想像が付いた。 ただ、ブライトはそれ以外にもなにか収入源があるだろうと見ていた。それもあまり公にできない方法での稼ぎが、だ。 「さぁて。そっちのハナシは座長サンに訊いてくださいな。私《あたし》 の知った事じゃない」 マイヤーは面倒そうに答えた。この男は本当に芝居以外のことには興味がないらしい。 長い道のりではない。ほんの十歩で舞台下にたどり着いた。 マイヤーがランプをかざすと、太い柱が円形に並んだ空間がぽっかりと浮かび、その周囲を埋め尽くすハンドル、レバー、すり減った木の巨大な歯車などが落とす影がゆらりと揺れた。 エル・クレールにとっては見たことのないものばかりだ。素直に驚嘆し、声を上げた。 「これは、一体?」 「回り舞台ってやつでございますよ、若様。そこの丸く並んだ柱が丸い床を支えてましてね。それぞれにに力自慢の道具方が取り付いて押しますと、舞台の上の丸い床がセットも役者も乗せたままぐるりと回るという按配です。そうやって場面転換をすると、時間も場所もあっという間に飛び越えられるというダイナミックな仕掛けでございます」 喜々としてマイヤーが答え る。 「それからあっちのハンドルで道具幕……つまり背景を書いた布きれですが……それを上げたり下げたり。あっちのレバーでいろんなもの、太陽やら月やら、描き割りの群衆やら、そういう仕掛けを出したり引っ込めたり。言ってみたら、ここは劇場の心臓です。お客さんからはまるきり見えない地べたの下だが、ここが真っ当に動いてくれなきゃ、いくら役者や踊り子が舞台の上で頑張っても見栄えの良い芝居にはならない……逆もまた、ですけどね」 「常設の大劇場ならまだしも、旅回り一座の掛け小屋にゃあっちゃならない小細工だ……」 ブライトは立廻し柱の一本を軽く叩いた。 「……運ぶのも大変だろう。荷物が増える」 刺すような視線をマイヤーに投げる。 「ええ、大変ですよ」 マイヤーは一瞬目を閉じた。いや、閉じる直前で瞼は止まった。 針のように細くなった目は、柔和に笑っているとも、鋭く睨んでいるともつかぬ表情を作った。 しかし彼の団栗眼はすぐに大きく見開かれた。円形に並ぶ柱の中央までひょいと跳び、そこに据えられた革張りの木箱に取り付く。 木箱にはなにやら機関《からくり》が仕掛けられているらしい。マイヤーは二人の客に向かって尻を突き出す格好で前屈みにななり、箱のあちこちを押したり引いたりした。 やがて小さな金属音と共に箱が開くと、マイヤーはゆっくりと中に手を突っ込み、羊皮紙の束を取り出して仰々しく掲げた。 束には細い大麻《ヘンプ》の紐が十字に掛けられていた。紐は束の上面中心で結び止められているが、そことは違う場所にももう一つ結び目があった。 別の結び目には赤い蝋で封緘された後が残っている。 封蝋は真ん中が丸くへこんでいた。何者かの印影が刻まれている。 暗がりに目を凝らしたエル・クレールは、そこに見覚えのある紋章を見た。 六芒の星の中で二匹のヘビが絡み合い、牙を剥いて睨み合う意匠。 幼い頃にその印影を刻まれた蜜蝋で閉じられた書簡を目にしたことがあった。 書簡は必ず父が開封し、目を通すと、一部は母に渡された。 母は手渡された分を微笑みながら読んでいたが、父は時折残った便箋に暗い視線を落とし込んでいた。 極希に、彼女にも彼女宛の一葉が分け与えられることがあった。そこには、年若い貴族の筆跡による優しく楽しい文面がある。 「良くないところは自分以外には見せないのだろう」 ことは、幼いクレール姫にも想像がついた。 ただ、父が見せてくれない部分にどんな「良くないこと」が書かれていたのかは知れない。 少なくとも、後年大公の書斎に忍び込んだお転婆姫が、鍵の掛けられていない手文庫の中に見つけた手紙の束には、人を悲しませるような言葉は一語も書かれていなかった。 姫の年若い叔父、ヨルムンガント・フレキ=ギュネイの手紙は、総じて希望と理想と力に充ち満ちていた。 「叔父上」 思わずぽつりと漏らしたエルの一言だったが、それがマイヤーの耳に届くことはなかった。 ほとんど同時にブライトが 「わざわざ封緘《ふうかん》を崩さずに別のところで紐を切ったのは、証拠残しのためか、中身のすり替えをやりやすいようにするためかか、どっちだね?」 後頭部を掻きながら、いやみたらしく言ったからだ。 「本当に非道いお人だね、あんたは」 マイヤーが苦笑いすると、ブライトも同じように笑い、 「なにしろウチの姫若さまは人を疑うことを知らない。こういう純な方をお守りするにゃあ、どんな物でも疑ってかからねぇと追いつかねぇんだよ」 「どうせ私は鈍うございますから」 拗ねた口ぶりのエル・クレールに 「いや、姫若さまは綺麗なお心でいてくれなくては困るンでね。それがお前サマの良いところなンだ。汚れごとはぜんぶ俺サマに任せておきゃぁいい」 これはブライトの本心でもあった。 「そうやって、いつまでも私を子供扱いするのですか?」 「そうやっていつまでも子供扱いするンですよ。でなきゃこっちの立場が危うい……。このところ剣術の稽古も真剣でやるのが恐ろしいくらい、お前サマは成長していらっしゃるから」 これも本心だった。 エル・クレールが反論の言葉を探している間に、ブライトは話題を元に戻すことに努める。 「封印の紋章は多分本物。これは姫若さまも同意見」 彼がちらりと視線を送ると、不機嫌に唇を尖らせたエル・クレールは小さく頷きを返す。 「……まさかあんた、俺が外見を見ただけで納得する素直な人間だとは思っちゃいないだろう?」 指先を切った革手袋を嵌めた大きな右手が、マイヤーの鼻先へ突き出した。 「ついさっきまではちょびっとだけ『そうだと良いな』と期待してたんですがねぇ」 戯作者は渋々掛け紐をほどき、ブライトの掌の上に羊皮紙を乗せた。 右手は水平に半円を描いて動いた。エル・クレールの目の前になめし革の束を突きつけるための動作だ。 「この俺が、ガップの殿様の筆跡《て》を知っているとは……思いたくもありませんでね」 ブライトは自分の手と、そこに乗っている「穢らわしいもの」から顔を背け、言う。 羊皮紙の束を受け取ったエル・クレールはその表面に目を落とした。 古い写本の表面を削り、なめし直したものだった。 大きさが不揃いで、肌触りが少しずつ違っている。色目も違う。なめし具合も一定でない。材料となった動物の種類も統一されていない。 一冊の書物をばらしたものではないことは明らかだった。おそらくは、新しい書き手が入手した時には、すでに本の体裁を保っていない、数冊の書物の残骸だったのだろう。 それを「保存の必要がある書き付け」として再利用したものであるらしい。 『長期に保存するつもりがなければ、羊皮紙ではなく紙を使うはず』 エル・クレールは刻まれた鵞ペンの跡を目で追った。 マイヤーが言ったとおり、文章の断片や単語、数字などが、走り書きにされている。 その筆跡は「クレール姫宛の手紙」に書かれた文字とは違っていた。 それは幼い姪が読むことを考え、ことさら丁寧に、一文字ずつ書き付けたものであったから、当然ではある。 しかし、父の手文庫の中にそっと仕舞われていた私信の中には、急ぎ書き送ったものも含まれていた。 強い筆圧で、且つ素早く書かれた筆記体の手紙は、幼子宛の大きな文字とは印象が違い、いたずらな姫君は大いに驚いたものだった。 「おそらく皇弟殿下のお筆跡《て》でしょう。殿下は急いで文字を書かれたときには書き進むにつれて右上がりになる癖と、縦の線を極端に短く書かれる癖がおありでしたから……ああ、ちょうどここや、それからこのあたりの文字が良く特徴が出ていてわかりやすい……」 彼女は羊皮紙の何カ所かを指で指し示した。マイヤーは細い指先をじっと覗き込んで 「いやあ、若様がフレキ殿下と文通なさっていたとは」 少々的外れなことを言いつつ、盛んに頷いて見せる。 一方ブライトはそっぽを向いたまま、 「ふん……」 少々不機嫌に鼻を鳴らし、エル・クレールの手から皮紙の束を乱暴に取り上げた。 マイヤーは当然それが自分の所に戻ってくるものと思い、両の手をブライトの前に差し出した。が、予想は外れた。 ブライトはそれを己の両手でしっかりと掴んだのだ。それでいて、汚らしいものを眺めるように眉間にしわを寄ている。 黄檗色の目玉は、「特徴が出ている」という箇所を睨み付けていた。 ややあって、彼は小さく舌打ちすると、皮の束をエル・クレールの手の中に押し戻した。 あっけにとられるマイヤーに対して、彼は 「字は殿様のものだってのは間違いなさそうだ。ただし、中身をよぉく読んで見ねぇことには、あんたの芝居が殿様の原作にどの程度忠実かが解らんよ」 「旦那は本当に本当に非道い人だ」 マイヤーはあきらめの口調で吐き出した。正論に対する仕方なしの承知を意味するうなずきは、落胆の項垂れにも似た力ないものだった。 羊皮紙を受け取ったエル・クレールは 「……解っています。内容の確認は私がいたしましょう。皇弟殿下にゆかりのあるものを、あなたに任せるなんて、とんでもない」 その言葉に、マイヤーは尖ったものを感じた。彼はそれを「高慢な家臣に対する少しばかりの厭味」と受け取った。ブライトが薄く笑ったものだから、余計にそう信じ込んだ。 「主に厄介ごと押しつけるなんて、旦那は本当に本当に本当に非道い人だ」 マイヤーは少しばかり腹が立った。 大体、こういう面倒な仕事というヤツは、家臣がやってのけたものを主君の「功績」にするというのが、当たり前のことだろう。 主が年若い場合は、ことさらだ。 エル・クレールがため息をついている。 『こんなに美しい方を悩ませるなんて、とんでもない』 意見をしてやらないと……マイヤーはブライトの広い胸板の真ん中あたりへ拳を一発打ち付けた。 無論、本気の一撃ではない。本気で殴り付けるほどの立腹ではないのだ。 本気で殴ったところで、痛むのは自分の拳の方だということは解っている。 初手から力を込める気などなかった。 仲の良い友人のちょっとした悪意に対して、軽い突っ込みを入れてやろうと言うだけのことだ。 この世慣れした剣士には、そういう冗談が通じる。他愛のないじゃれ合いで、双方苦笑いして終わる……。 ところが。 気がつくとマイヤーは地べたに這い蹲っていた。 背中側にねじ上げらた右腕からは、骨が軋む音が聞こえる。 「冗談は面だけにしやがれ」 低い声が彼の頭上から振り、背中に重い衝撃が落ちてきた。 マイヤーは沼の魚が喘ぐように、口をぱくぱくさせた。 呼吸ができない。 目玉を動かして周囲を見回す。 エル・クレールの足先が見えた。 視線を持ち上げる。 白い顔に困惑が満ちていた。 眼差しの先を追う。 ブライト=ソードマンがこめかみに青い血管を浮き立たせ、憤怒と苦悶の表情を浮かべている。 「旦那……」 漸く声を絞り出したが、後が続かない。唇を動かして、 『ご勘弁を』 音の出ない一言を形作るが精一杯だった。 途端、マイヤーの右腕の戒めが解かれ、背中を押さえつけていた「重さ」が無くなった。 一気に新鮮な空気が配布に流れ込み、その急激さ故に、むしろ彼の呼吸は激しく乱れた。 唾を吐き出しながら咳き込んだ彼は、それを押さえ込みつつ徐々に呼吸を整え、体を起こして顔を上げた。 ブライトが不機嫌顔でまた右手を突き出している。 「貴様が書いた方」 原本との突き合わせをするために台本を寄越せ、と言っているのだ。 「紙に書いた分は、ここにゃありません」 マイヤーは地面に胡座を掻いた。肩口をなでさすり、情けなくも力ない声で言う。 「座長がお役人の所に出しに行ったきりで」 「台本というのは、役者の人数分作る物ではないのですか?」 訊ねたのはエル・クレールだった。 マイヤーの頬に朱が差した。少しばかり元気な声で 「字の読める者の分だけこさえるのが、ウチのやり方なんです。読めない連中に配ったところで、読めないんだから意味がないでしょう? 連中には、私《あたし》が直接演技指導するんで、問題はありませんしね。つまり、台本なんてものは私《あたし》 と座長の分、併せて二冊作れば、ウチでは十分なんですよ。それを、あの禿頭と来たら、両方とも持って行きやがった……。もっとも、私《あたし》の頭の中には全部筋が入ってますし、役者も踊り子も全幕暗記してます。何の不都合もない」 「それにしちゃあ、ずいぶん慌てているようじゃないか」 突き出していた手に何も渡されないと知ると、ブライトはその腕をさらに伸ばし、マイヤーの襟首を掴んで引き上げ、彼を強引に立ち上がらせた。 「そりゃ、誰だって慌てもします。今まで憶えたことと違うことを、急にやらなきゃならなくなったんですからね」 「『台本』と違う演技、か?」 「少しばかり。ま、大人の事情ってやつで」 マイヤーは脂汗をぬぐい、答える。 「どういう事ですか?」 エル・クレールはブライトへ向けて質問を投げた。 「この阿呆が書いた筋書きの通りの芝居は勅使の前で演るわけにはいかないってことに、どうやらこの阿呆も気付いてはいるらしいと言うことですよ、姫若。そんなことをしたら、手鎖じゃ済まない。獄門晒し首になってもおかしくない。だからこの阿呆は慌てて筋を書き直した」 ブライトの目玉が、マイヤーのそれを睨み付ける。 彼は頬を引きつらせつつ、 「そんなに阿呆阿呆と繰り返さなくても……。大体、直したと言っても、それほど大きく変更した訳じゃありません。役者の衣裳やら振り付けやら、そのあたりを少しだけ、ね」 右の人差し指と親指を重ね、一寸ばかりの隙間を作ると、愛想良い笑顔を頬の上に浮かべた。 彼は胸を張って、声音を高くし、 「その少しの違いが踊り手には厄介なもですから、騒ぎ立てているってだけですよ。筋そのものは変わってません。ガップの皇弟殿下の書いたものと、実際の芝居とを見比べていただけば、それで原本と台本の突き合わせをしたのと同じ事です」 そう言い終えると、急に背を丸めて、声を落とした。 「勅使様方が見える前に、一遍通し稽古をします。そいつを若様にご覧いただいて……それでもし妙なところがあれば、仰ってください。すぐに直しますから」 マイヤー=マイヨールは頭を深々と下げて見せた。そして、ブライトとエル・クレールが何か言いかける前に、 「ああ忙しい、大変だ、慌ただしい」 わざとらしく大声で叫びながら踵を返し、ばたばたと元来た方へ駆けだした。 「あの野郎、すっかり俺たちを『味方』に付けたと思いこんでいやがるな」 ぼそりと言うブライトに、エルが訊ねる。 「と、仰いますと?」 「規制が緩くて、袖の下の効果が絶大な田舎ばかり回ってきたもンだから、連中、感覚が麻痺していやがる。どこまでやったら不味いのか、テメェじゃわからない。で、ものを見る目のが真っ当で、なおかつテメェらの肩を持ってくれる『外の人間』に意見して貰おうってのさ」 「あなたの審美眼が見込まれたのですね。あの方、どうやらあなたのことを気に入っているようですから。でなければ、あれほど痛い目に会わされたというのに、あなたへの態度を変えないでいられるわけがない」 エル・クレールはクスリと笑った。ブライトは苦虫を噛み潰したような顔つきで、 「お前さんのご身分に目を付けたんだ。呑み屋での騒ぎで、お前さんが勅使連中よりも立場が上だと見たんだ。で、こっちがあの勅使殿に口利きしてくれると踏んだんだろうよ。その上で、いざとなったら『こちらの若様がお墨付きをくれました』てな具合に、こっちに責任を押しつけて逃げる腹積もりさ」 「あなたがお嫌いな帝都の役人に味方しないだろうと言うことも、どうやら織り込み済みのようですし」 「そこまで頭が回るかね?」 訝しむブライトの顔を、エル・クレールは 「似たもの同士のご様子ですから」 莞爾《かんじ》として見つめた。 「どこが!」 一瞬、声を荒げたブライトだったが、エル・クレールの掌が鼻先に突き出されると、 「よく見てやがる」 妙におとなしくなった。 彼は 彼はたおやかな掌の上に、己の拳を突き出した。 「あの阿呆、俺にアレを渡すって時に、素早く丸めて袂ンなかに仕舞い込みやがった。ヒトサマが隠したがるものは、見てみたくなるのが人情ってもンだ」 「だからといって、あれほど乱暴なやり方をすることはなかったと思うのですけれども。あれでは掏摸《スリ》ではなく強盗ですよ」 エル・クレールは持っている物を早く出すよう、差し出した手を軽く上下させて促す。 ブライトは握り拳を上向きに開いた。 逞しい掌の上に、赤い蝋の欠片が付いた、紐の塊が乗っている。 エル・クレールがそれを取りあげようとした途端、再び拳が握られた。 疑問と驚きで顔を上げたエル・クレールは、ブライトの表情が硬く、真剣であるのを見た。 「隠すからにはそれなりの訳があると見てのことだったンだが……」 封蝋に不可解な部分を見つけたのだろうことは察しが付く。エル・クレールには彼がそれを隠す意図が解らない。 「殿方の手は熱が高いそうですから、長く握りしめていると、蝋が溶けてしまいます。ギュネイの家に由来するもので、お手を汚されても宜しいのですか?」 彼女にしては珍しく婉曲な物言いをすると、ブライトは少しばかり口角を持ち上げ、 「手の冷たい自分《おんな》の方へ寄越せ、か?」 拳を開いた。 開きはしたが、その中のものをエル・クレールへ渡そうとはしない。 彼は麻紐から封蝋を剥がし取ると、人差し指と親指の間につまんだ。 赤い顔料が練り混ぜられた蜜蝋の塊を、彼女の目の高さに持ち上げ、紋章が刻印された側を示す。 しっかりと押された印影は、間違いなく皇弟自らが使う紋章だった。 「何か問題が?」 エル・クレールは小首をかしげる。ブライトは無言だった。 中指で封蝋を軽くはじく。 上下を指に挟まれたまま、それは反転した。 麻紐の縄目が濁った赤い蝋の表面に刻まれている。 蝋の内側で鈍い光が跳ねた気がした。 「灯りが反射した……? 何に?」 滑らかな蝋の表面がはじいたにしては、鋭い光り方だった。 鋭角な、そして硬い何かが、蝋の中に埋没している。 地下の暗がりに目を凝らした。 直後。 黒く伸びた爪。赤く濁った目。 エル・クレールは確かにそれを見た。 彼女は猛烈な勢いで上体を後ろに反らした。 真後ろにあった柱に、背中が激しく打ち付けられた。 エル・クレールは己の体を抱き、うずくまった。体が小さく震えている。 背を打った痛みは感じていない。 そんなものよりもはるかに痛烈な「恐怖」が痛覚を麻痺させている。 封蝋の奥から突き出された腕が彼女の顔面を掴み、眼差しが彼女の全身を睨め付ける。冷たい指先が頬に触れる、生暖かい吐息が耳元に吹きかけられる。 あるはずのない感触に彼女の総身は粟立っている。 肩口が掴まれた。それを実感した。 「ひっ」 しゃくり上げるような悲鳴を上げ、彼女は顔を上げた。 闇の向こうで、ブライト=ソードマンが静かに笑っていた。 「誰かの魂の『断片』だ。これ自体にゃお前さんに悪さをするほどの力はねぇさ。悪夢を見せるが精々ってところだろうよ。実害は……ちぃとばかりあったが……ま、その程度だ」 彼は、彼が言うところの「魂の断片」を硬く握った拳を、エル・クレールの前に示した。 黒い爪の幻視も、まとわりつくような体感幻覚も消え失せていた。 彼女にそれを感じさせていたある種の波動じみたものが、ブライトの肉体に阻まれ、封じ込められているのやも知れない。 「あなたに対しては?」 薄気味の悪い「感触」が、彼に悪影響を与えてはいないのか、エル・クレールは疑問にも思ったし、案じもした。 「どうやら俺は、死んだ野郎どもには嫌われる体質らしい。連中は俺に対してすこぶる攻撃的だ。お前さんの『父親』もそうだが、こいつも爾《しか》り」 ブライトは拳を一層強く握る。 エル・クレールの顔に不安が広がった。彼の拳に指先を添えた。 かすかに震える手を、ブライトのもう片方の掌が覆った。 「まあ、微々たるものさ。お前さんの『父親』の比じゃねぇよ」 反射的に、エル・クレールは己の左の腰骨の上へ左の手を乗せた。 飲み込まれればその「力」に操られ、受け入れれば「力」を操ることが適う、赤い刃がそこに眠っている。 彼女が【正義《ラ・ジュスティス》】と呼ぶ「武器」は現世に思いを残して逝かねばならなかった人間の魂が凝華し、変じたものだ。 ブライト=ソードマンもまた、同様の「武器」を持っている。 両の掌の中、黒い革手袋の下に刻み込まれたそれを、彼は【恋人達《ラヴァーズ》】と呼んでいる。 エル・クレールの【正義《ラ・ジュスティス》】は、彼女の実父、すなわちミッド大公ジオ・エル=ハーンの無念の結晶である。ブライトが持つ【恋人達《ラヴァーズ》】は、彼の友人であったミハエルという男性とガブリエラという女性が変じたものであるという。 この世に未練を残し、死しても死にきれぬ者の魂が変じた結晶……【アーム】などと呼ばれる物体は、ある種の意思を持っていると見える。 その意思に沿わぬ者、あるいは理解せぬ者は、【アーム】の力を解放することも、使いこなすこともできぬ。 厄介なのは、【アーム】の意思が偏執的であることだ。死せる魂は彼らが「死ぬ」直前の心残りのみを内に抱いて凝華しているらしい。 クレール姫の父親は、たった独り残さねばならない愛娘の身を案じていた。【正義《ラ・ジュスティス》】と呼ばれるようになった今でも、彼は娘の身を案じ続けている。 今の彼には只その一点しかなく、それ以外の感情も理性もありはしない。 すなわち、彼にとっては己がこそが唯一娘の守人であり、それ以外の存在は、誰であろうとも総て排除すべきものなのだ。 凝り固まった「意志」に、娘の呼びかけは届かない。 たとえエル・クレールが信頼を寄せる人物であっても、あるいは彼女が全く感心を持っていなくても、【正義《ラ・ジュスティス》】の刃はその相手に激しい攻撃を加えてしまう。 その攻撃をよく喰らうのが、ブライト=ソードマンであった。 ちょっとした拍子に(あるいは、ちょっとした拍子を装って意識的に)彼女の腰のあたりに手を触れたとしよう。そこに【正義《ラ・ジュスティス》】の力が封じられている場所に、である。 途端、バチリと火花が発する。さながら絹地とウール地を擦り合わせたかのような瞬間的な痛みが、ブライトの側にのみ走る。 爪が割れ、皮膚にやけどの跡が残ることもある。 蜜蝋の中に埋もれている【アーム】の欠片について、ブライトが「【正義《ラ・ジュスティス》】ほどではない」と前置きしつつも「攻撃的」と言うからには、何かしらの刺激があるのだろう、とクレールは想像した。 その想像は当たっていた。 ブライトの指先は、ごく僅かな痛みを感じている。 小さな欠片にも、他者に対して牙を剥かねばならない「意志」があるのだ。 その「意志」が何を訴えているのか、ブライトはおぼろげに察していた。 それはあまり認めたくない「理由」ではあった。 試みに、心の奥で拳の中の小さな欠片に問いかけた。 『俺が末生り瓢箪の野郎《ヨルムンガント・フレキ》を嫌っているってのが、気に入らンかね?』 小さな切っ先は、彼の指を刺し貫かんとしているらしい。 皮膚が裂けることも血がにじむこともない小さな痛みは、しかし明確な返答だった。 『ウチの姫様《クレール》にちょっかいを出した上に、俺が野郎を嫌うのが気に喰わねぇと抜かしやがる。しかも野郎の書いた物の封緘にめり込んでたと来たら……』 小さな【アーム】の欠片が、生前は皇弟と深い縁を持っていた人物であることは間違いない。 『それどころか、野郎本人の可能性がある』 確かにヨルムンガント・フレキ=ギュネイが死んだという報はない。 正室も嗣子もいない今上皇帝《フェンリル=ギュネイ》にとって、腹違いながらすぐ下の弟である彼は、皇太子に準ずる存在である。万一彼が薨《こう》じたとなれば、すぐさま大葬が執り行われてしかるべきだ。 同時に、彼が生きていると証明する報がないのも、また事実であった。 というのも、ここ数年彼は封地ガップから一歩たりとも出ておらず、あまつさえ、書簡の一通も発していないのだ。 ガップは半ば鎖国の状態であるとも言う者すらいるが、実際には彼の地に人の出入りがない訳ではない。 ただ、君主に謁見できた者がいないだけだ。 そのため、病を得て重篤な状態だという噂もある。その病のために、二目と見られぬ容姿に変じてしまったのだという噂もある。 乱心して岩牢に閉じこめられているなどいう説は、彼が兄に帝位を「奪われた」ころから、延々ささやかれ続けている。 妙な噂が流れる度に帝国政府はそれを否定している。 「誤報である」「誤謬である」「径庭はなはだしい」「事実と異なる」 「皇弟は病を得てなどいない。重篤な状態ではない。容姿が損なわれたということはない。乱心などしていない」 そのくせ、続いてしかるべき「健勝である、壮健である」などの語句は一切出てこない。 依って、人々の疑念は深まる。 だがそれを口にすることを皆が憚り、押し黙っている。 今、ブライトも押し黙っている。 彼が帝室を畏れているからでは無い。 『相棒が動揺する』 彼が嫌う件の人物は、エル・クレールにとっては唯一残されたと言っていい「家族」に他ならないのだ。 とはいえ、いつまでも黙っているわけにも行かない。 時として沈黙は詭弁よりも雄弁でだ。察しのよい人物に対してであれば、なおのことだ。 深い緑の瞳に不安の影が揺れている。 「あの男はテメェの城の外側にシンパが集ってくるタイプだからな。範囲が広すぎて、簡単にゃこいつの正体を絞り込めやしねぇよ」 彼は呟きながら、封蝋とその中の「魂の破片」を己の腰袋の中に押し込んだ。 「そう、ですね」 エルの唇の端が、小さく持ち上がった。 目の奥の不安は消えていない。こわばった作り笑いであっても、表情を変えるという行動によって、己を納得させようとしているのだ。 「さて――」 ブライトは声と呼吸音の混じった音を吐き出すと、 「奴《やっこ》サンの誘いに乗ってみようかね。当然、あいつの思惑通りの行動をする気はねぇが」 エル・クレールの背中を平手で軽く叩いた。 押し出された彼女の足がちいさく一歩踏み出すのとほとんど同時に、ブライト=ソードマンも広い歩幅で歩き出した。 入り口の縦穴にたどり着く頃には、彼は完全にエル・クレールを先行していた。 助走をせず、膝を深く曲げることもなく、頭上に切り取られた四角い空間へ垂直に飛び上がる。 彼の巨体は音もなく地上へと舞い戻った。 向き直り、膝をついて、右の腕だけを穴の中に差し入れる。 無言だった。足下のエル・クレールにわざわざ声を掛ける必要はない。彼女も問いかけの必要性を感じていなかった。 大きな掌にひんやりとした白い指が絡まる。 彼女の体は軽々と持ち上がり、ブライトの傍らにふわりと着地した。 一言の礼の代わりに、小さな、しかし自然な微笑が返ってきた。 |
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