いにしえの【世界】 − 舞台裏 【9】 BACK | INDEX | NEXT 2015/02/16 update |
舞台裏の慌ただしさは、奈落に入る以前の数倍に増している。 舞台映えのする化粧をした演技者達が足早に行き交う。 「いきなり上手《コテクール》からに変更だなんて」 兵士風の立派な衣裳を着た娘が呟きながら走る。 「こっちは下手《コテジャルダン》に回れってさ。マイヤーのヤツ、ワケワカンナイこと言いやがって」 逆方向へ小走りに向かっていた古びた皮鎧を着けた女が、娘とすれ違いに、 「位置を変えるだけでいい、なんて、言うのは簡単さ。慣れない方向から飛び出したら、回転《トゥール》の目安も跳躍《ソテ》のタイミングもずれまくりだよ」 吐き捨てた。 踊り手達は文句を言いながら、しかし戯作者と演出家を兼務している男の指示通りに動いている。 「全員、ご婦人ですね」 エル・クレールがぽつりと言った。その場に男性がいないというのではない。明らかに舞台衣裳と判るものを着ているのが女性ばかりなのだ。 「ここに入ってきたときから女気が多いたぁ思ってたが……ここまで徹底して女の園なのは確かに珍しい。真っ当な劇団は大概、野郎に女形をやらせないとならねぇぐらい女手不足なもンだ」 無精髭の顎をなでながら、ブライトも首をかしげた。 二人の部外者は、女兵士の群れが集合している舞台袖から舞台端へ出ると、形ばかりの楽団溜まり《オーケストラピット》に飛び降りた。 壮年の指揮者が白髪頭を掻いている。 「楽譜通りに、寸分違わずに、ね。アドリブ入れないで演るなんて、何年ぶりだい?」 文句の矛先にはマイヤー=マイヨールがいた。 「基本がしっかりできているからこその天下一品のアドリブだろう? 頼りにしてるよ、マエストロ。今の私《あたし》 にゃ泣き言を聞く耳の持ち合わせがないんだ」 褒め殺しと脅しを同時に言われた指揮者は、苦笑いするよりほかなかった。ため息を吐き吐き、ヴァイオリン弾きと打ち合わせを始める。 額の汗を拭うと、マイヤーはエル・クレールとブライトの顔を交互に見、照れくさそうに笑った。 「若様、もうホンの少しだけお待ち下さいな。それと……旦那のことはなんとお呼びすればよろしいですかね? 若様が旦那をお呼びになったお名前は耳に入ってますけども、まだお名前をちゃんと伺ってないもんですから」 ブライトは煩わしげに唇を引き結んだ。 「聞こえたとおりに呼べばよいことではありませんか?」 エル・クレールが怪訝顔で言う。 マイヤーはでれりと目尻を下げた。 「それがあまりに『出来過ぎた』お名前でしたから。……で、万一にでも間違いがあっちゃイケナイでしょう? もう二度とこちらの旦那の逆鱗に触れたくはありません。自分の腕や背骨が軋む音は聞いていて気分の良い音じゃありませんからね」 「出来過ぎ、ですか?」 エル・クレールはちらりとブライトの顔を見た。 彼は不興な顔で口をつぐんでいる。マイヤーが慌てて取り繕う。 「ああ、怒らないでくださいな。出来過ぎって言うのは言葉が悪かった。クレールの若様にお仕えになるには、ぴったりなお名前って言うことです」 この言い訳によってブライトの表情が変化することはなかったが、同様にエル・クレールの顔から疑問の色が消えることもなかった。 マイヤーは言葉を続ける。 「聞いた話ですがね。ブライトってのは、帝都より向こうの西の果ての、海を渡った先にあるっていう土地の方の言葉だそうじゃないですか。都の方じゃいくらか名字に使っている家もあるそうですけど、東の方じゃあんまり聞かない言葉なんで、最初は聞き間違いかと思ったくらいですよ。……だってそうでしょう? 確か『明るい』とか『輝いてる』とか『冴えている』とか、つまり『ピカッとした光』みたいな、まあそんな意味合いの言葉なんだから。つまり、主家のご家名のクレールと言うのと、ほとんど同じ意味だ……若様の方のは、もっと透明な『キラキラっとした光』って感じですから、ちょいと語感が違いますが、でもほとんど一緒ですよ――」 長々しゃべりながら、マイヤーはブライトの顔色をうかがっていた。 ブライトは、唇を引き結んでいた。沈黙がマイヤーにプレッシャーを与えている。 脇にねっとりとした汗がにじみ出た。 またあの腕が目に止まらぬ早さで自分の胸ぐらを掴むかもしれないことに恐々としつつも、しかしその不安を表に出さぬよう喋り続けた。 「――兎も角も、旦那は、自分の主の名前と同じ物を名前として使ってる。出来過ぎ……いやいや、ぴったりすぎて吃驚して、耳を疑っている、という按配です」 長台詞は最後まで中断されなかった。 マイヤーの恐怖は、しかし晴れない。 ブライトが無言のまま彼を見据えている。 ブライトの名が、クレールの名と同意であることは、偶然ではない。 ブライト=ソードマンの名は、物忘れの病で己の実の名を思い出せぬ彼が、必要に(つまりエル・クレールに)迫られたために己で付けた「符牒《ふちょう》」だ。クレール《明るい・光》という言葉からの連想が含まれたことは、意図的ではないが、多分に意識的ではある。 エル・クレールは自身が名乗る名が「仮のもの」であるのと同様に、彼の名前が「本物」でないことを理解している。彼は彼女に偽名を名乗るように忠言したその場所で、自分への命名を行ったのだ。 ただ、それに自分の名が重ねられていようとは思いもしないことだった。 故に聞いた。 「そういう意味なのですか?」 「そう言う意味なのですよ」 ブライトは鸚鵡返しに答え、薄く微笑した。 小さな笑みは、相合い傘の落とし文を見つけられた少年の照れ隠しに似ていた。 会話とも言えぬ短いやりとりは、当事者以外には内容の理解ができぬ物だ。 「つまり、どういう意味で?」 マイヤーが恐る恐る声を出すと、ブライトの微笑に違う色が混じった。 「偶然も必然の内ってことさ」 言葉と表情に反論を許さぬ圧力がある。 マイヤーは頬を笑顔の形に引きつらせ、 「と、言うことは、つまり旦那のことは、ブライトの旦那とお呼びすれば宜しいので?」 語尾が消える前に、ブライトが 「呼ぶな」 鋭く釘を差し込んだ。 「その名で呼んで良いのはウチの姫若さまだけだ。三文物書きなんぞに呼ばれたら、折角の名前の価値がすり減る」 マイヤーは身を縮め半歩後ずさりしたが、首だけはむしろ前に突き出すようにして 「ではどの様に?」 食い下がる。 マイヤーは言いたいことは言わずにおけない質だった。ただし、大上段に切り出すよりは、斜めからそっと訊ねるという言いようで物を訊ねるの常だ。 遠回しな物言いは物書きらしい一種の「卑屈さ」ゆえの事でもあるが、彼にとっては他人と衝突しないための策でもあった。 低い物腰と言葉で相手を懐柔し、相手が築かぬうちに自分の有利に話を進めてしまうことで、彼は世を渡ってきた。 万一、その遣り口が通用しない相手に出会えば、一目散に逃げるだけのことだ。大道具小道具機材の総てを捨てることも厭わない。尻をまくって遁走する。 役人共の手の届かない遠く遠くへ逃げ延びてみせる。何ヶ月か地下に潜って暮らすのもいい。ほとぼりが冷めるのを待って、また旗揚げする。それでも不都合があるなら、氏素性を偽って別の人間を演じてしまえばいいだけのことだ。 話術も逃げ足も、そして何より演技力も自信があった。現に、こうして首がつながっているじゃないか。 怪しげな旗印や規範を外れた演目を掲げたドサ回りの旅を、ここまで無事に続けてこられたという事実に基づいた自負だった。 策が通じず、逃げ切ることもできぬ相手がこの世にいるのだということを、彼は今日初めて知った。鉄板だと疑わなかった自信は、あっさり粉微塵になった。 しかも敵は二人もいる。 二人の内の一人が、もう一人から逃げる時におとりにするつもりで、自ら引き込んだ人間であることが、口惜しくてならない。 『若様の美しさがまぶしすぎて、野郎の方が翳《かす》んでいるように見ちまったのが私《あたし》 の運の尽き』 足掻いても仕方がない。 開き直ったマイヤーは普段の通りに行動することに決めた。今更別の作戦を立てたところで、付け焼き刃の「演技」を見抜けぬ相手ではないだろう。 「どうしても名前で呼びたきゃソードマンで良かろうよ」 ブライトが不機嫌に答えるのを聞いた彼の口は、反射的に、いつもの通り頭の中に浮かんだ軽口じみた台詞を吐き出した。 「何とも名が体を表す、珍しいご名字で」 言ってすぐ、彼は己の口を両手で塞いだ。そんなことをしても出してしまった声が止まるわけでも戻るわけでもない。 『全く今日の私《あたし》 ときたら調子が外れっぱなしだ』 上目でそっと「ソードマン」を見た。目玉がからからに乾いてゆく気がして、何度も瞬きをする。 ブライトは無言のまま彼を見据えている。 マイヤーの目には、彼がかすかに笑っているように見えた。その微笑が何を意味するのかまでは解らない。彼が腕を組み直し、あるいは僅かに足の位置を変える、その小さな動きが妙に恐ろしい。 あの腕が己の喉元を狙って伸びてくるのではなかろうか、あの脚がこちらの足下を救うのではなかろうか。 枯れた生唾を飲み込む彼の耳に、柔らかな声が流れ込んだ。 「良い名前でしょう?」 エル・クレールが婉然と笑んでいる。 途端、マイヤーは自身の全身を膜のように覆っていた脂汗が、僅かに残っていた自覚や自制と一緒にすぅっと流れ落ちてゆくのを感じた。それは彼の総身から別の汗が吹き出したためであるが、彼自身はそのことを気にとめなかった。 「ええ、全くその通りで」 マイヤーの脳漿は暴力への恐怖から解放されたという爽快な快楽を全身に感じさせることに専念していた。別の束縛によって雁字搦めに縛り上げたことを伝えるという重要な役目は、完全に放棄されている。 美の俘虜に打たれる縄目は、他の何よりも厳しく強固で厄介であるのにもかかわらず。 マイヤー=マイヨールの浮ついた心は、しかしすぐに現実に引き戻された。 功労者は楽団溜まり《オーケストラピット》の隅にいた大号《ホルン》奏者だ。 鼓膜を突き破る大音響を発生させた彼は苦笑しつつ、「巧く音が出ないので強く吹いた」とか「唄口に何かが詰まっていた」とか「吹いた勢いでゴミが取れた」とか「詰まりが取れた途端に音が出た」などと弁明していた。 楽団溜まり《オーケストラピット》の真ん中で指揮者が肩をふるわせている。どうやら彼の指示による「音あわせの一環」だったらしい。すなわち、舞い上がっていた戯作者の魂を還俗させるための手段としての、である。 マイヤーは苦々しげに大号《ホルン》を睨み付けた。憤慨したまま振り向いた彼だったが、「クレールの若様」と「ソードマンの旦那」が失笑しているさまを見つけ、気恥ずかしげに笑った。 「田舎者でしてね」 「いい喇叭《ラッパ》吹きを抱えているじゃねぇか。惜しむらくは力量に見合った楽器を与えられていねぇ」 ニタリと笑うブライトに、マイヤーは 「勅使サマ方を招いてのゲネプロが無事に済んだら考えますよ」 慇懃に頭を下げた。 「そいつはお前らの力量次第だろうよ。まずはウチの姫若さまを納得させてみることだ」 「それが一番ホネかもしれませんねぇ」 マイヤーの苦笑いが一層大きくなった。 楽団溜まり《オーケストラピット》からバラバラな音が上がり、舞台の裏側から言葉としては聞き取れないざわめきが漏れてくる。大道具小道具の係達が立てる玄翁《げんのう》の音はいくらか小さくなったが、それでも時折不規則なリズムを刻んだ。 五人しかいない楽団の音合わせ、緊張を紛らわすための踊り子達のつぶやき、背景の書き割りを運ぶ男達の足音、マイヤーは歩きながらそれらの音を全部聞き分けている。 彼はスタッフ達に的確な指示を出さねばならなかった。同時に、客人を席に案内する作業も行わないといけない。 マイヤーはゆっくり歩き出すと、エル・クレールとブライトを手招きした。 「若様に観ていただけるというのは、実に幸運なことだと確信しております。いつかは若様や旦那のような、ちゃんとした方――そいつはもう少し上! きっちりはめ込んで、ぐらつかないように。――つまりは本当の貴族の方が、私《あたし》の劇を観てどうお感じになるか、確認したいと思っていたんですから。いえ、さっきも申し上げましたけれど――マエストロ! そこはちょいとおとなしめの音にしておくれ。――ウチみたいな小さな一座なんぞには、本物の高貴な方がお見えになることがないですからね。――さっさと位置に付け! お前達が何を言おうと、あと百を三つ数えたら幕を上げる――常々、『解る』方に一遍観ていただきたいって、適わぬ願いと知りつつも……」 四方八方、上下左右、様々な方向に視線と言葉を投げながら、彼は客席のど真ん中に歩を進め、貧相な椅子を二つ客人に勧めた。そのうち一つの座面に恭しくハンカチを掛ける。 ハンカチの上に腰を下ろしたエル・クレールは、 「私があなたのお役に立てるとは限りません。私はこれとお芝居とを見比べるだけですから」 腕に抱えていた皮紙の束を膝の上に広げた。 「承知しております」 マイヤーは頭を掻いた。ちらりとブライトに目を遣ると、大柄な男は足を組み膝に肘をついた窮屈そうな前屈みの姿勢で、舞台に目を注いでいる。 彼らの目つきは真剣だった。舞台の隅から隅までしつこく突いて細かな粗までほじり出すつもりでいることが、マイヤーにはよくわかった。 彼が背筋を伸ばし、襟を正すのを横目で見たブライトが、小さく言う。 「俺たちのことはいないもンだと思って、あんたらが演りたいように演るこった。俺たちは芝居に口出ししたり止めたりするような野暮はしない。芝居が動いている間は、あんたに意見することもない」 「ご意見をいただけない?」 「言うだけ無駄だからな。どの道あんたらはあんたらの思う芝居しか演らないし、演れない。ここの踊り子たちはあんたの芝居以外は、逆立ちしても演れないようになっちまってる」 「お見通しですか」 マイヤーは中身を抜かれた皮袋のようにイスの上にへたり込んだ。落胆のあまり力が抜けたのは事実であるが、大仰な動作は九割方演技だった。つまり、それだけ自信という名の余力があるということに他ならない。 その証拠に、彼はすぐさますぅっと立ち上がった。 「私《あたし》はこれからあちら側の世界に参ります」 声は小さいが、張りがあった。目にも光が差している。マイヤーはニタリと笑うと、 「あちらの世界はこちらの声の届かない場所。ソードマンの旦那のご意見も、若様のお声も私《あたし》の耳には入らない。ええ、聞こえませんとも、聞きませんとも」 両の耳に両の人差し指を差し入れた。 そのまま深々とお辞儀をし、頭を下げた格好で後方に小走りに走りだす。イスを器用に避け、舞台の二歩手前までたどり着くと、ポンと床を蹴った。ふわりと浮いた彼の体は、舞台の上に音もなく降り立った。 つま先立ちの着地だった。ぴいんと背筋を伸ばしている。足下が暗いものだから、床から拳二つ分ほど浮かんでいるようにも思えた。 所作の総てが見えぬ糸で吊られた操り人形を思わせた。スムーズだが違和感のある、可笑しくも哀れな動作だった。操り手が彼自身であることすらも哀れを誘う。 舞台の端々に見え隠れしていた裏方の影が綺麗さっぱりなくなっていた。 袖から漏れていた神経質なざわめきもぴたりと止む。 管楽器も弦楽器も黙り込んだ。 重苦しい沈黙の奥で、僅かに衣擦れの音がする。 緞帳幕だった。 現実と虚構の境目を、それがゆっくりと塞いでゆく。 戯作者マイヤー=マイヨールは消えた。 舞台の上に身を置いた今、彼は小劇団の看板役者に変じたのだ。 |
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