煎り豆 − 【2】 BACK | INDEX | NEXT

2015/05/20 update

 鍛冶屋は村で一番の金持ち長者の家に着いて、大きな門の呼び鈴を鳴らしました。
 疲れた顔の痩せた召使いが出てきましたが、何も言わずにすぐに顔を引っ込めてしまいました。
 主人に呼ばれたわけでもないのに屋敷へやってくる者は、おおよそ集金人だと解っています。そして主人が集金人が好きでなく、会う気が無いと言うことも解っています。
 会いたくない人を取り次ぐと、主人は召使いたちを怒鳴りつけるのです。
 だれだって怒られるのはいやですから、使用人も牧童も作男も、集金人が来ても知らんぷりで、挨拶すらしません。
「ちょっと待っておくれ」
 鍛冶屋は召使いを呼び止めて言いました。
「今日はお金のコトじゃないんだ。長者様に珍しくて面白いお話をしたいんだよ」
 召使いは口の中でもごもごと何かを言うと、屋敷の中に戻ってゆきました。
 ずいぶん長い時間、屋敷の中から人が出てくる気配はありませんでした。
 日が昇りきって、お昼が過ぎても、門は愛来ませんでしたが、鍛冶屋は辛抱強く待っておりました。
 不思議なことに、老夫婦の豆のスープのおかげで、おなかはちっとも減らないのです。
 ようやく重たい門がゆっくりと開きましたのは、太陽が西の方へ駆け足で走り出した頃でした。
 鍛冶屋が案内されたのは、台所の隅でした。
 もちろん、村で一番の金持ち長者がそこにいるはずはありません。やせっぽちの料理人たちがいるだけです。
 料理人の長は威張った声で言いました。
「おい鍛冶屋、ここのナイフを全部研ぐんだ。一本だって残らずだぞ」
 実を言いますと料理人たちは、村一番の金持ち長者から宴会の料理を百皿作れと言い渡されているというのに、錆びたナイフのせいで作業が進まず、昨日の夜から食べたり休んだりしていないのです。
「解った解った。その代わり、全部研いだら長者様に会わせておくれよ」
 台所には百と五本の錆びたナイフがありましたが、鍛冶屋はあっという間に全部研ぎ上げました。
 道具が治ったので、料理人たちは大喜びして仕事にかかりました。
 オーブンに火が入り、鍋がグツグツと煮え、見る間に料理ができあがってゆきます。
 料理長がたいそう驚いて、
「これは一体どうしたんだ?」
 とたずねますので、鍛冶屋は煎り豆の詰まった袋を取り出して、神殿の合唱団のように節を付けて話しました。
「よぼよぼのじいさんとよぼよぼの婆さんが、朝一番にでかけた。
 二人揃って杖を突いて、神殿まで歩いていった。
 空っぽのお財布のそっこから、銅貨を一つ捧げた。
 心を込めてお祈りしたら、天から御使いが降りてきて、
 じいさんとばあさんに子供ができると仰った。
 それから煎った豆を植えろと仰った。
 酸っぱい上澄みで育てろと仰った。
 言われたとおりに豆をまき、言われたとおりに上澄みをかけた。
 すると不思議、煎り豆から芽が出た。
 不思議不思議、あっという間に木になった。
 あっという間に花が咲き、あっという間に実がなった。
 それがその豆、たくさんの豆。
 夕べたらふく食べて、今朝たらふく食べてもまだ減らない。
 なんて幸せな煎り豆だろう」
 鍛冶屋が歌うように話すのを聞いているうちに、料理長の威張ってとんがった顔が、楽しそうで角の取れた表情になってゆきました。
「これは不思議だ、なんだか元気が湧いてくる」 
 なぜだか心がうきうきし、じっと立っていられなくなって、終いに料理長は節に会わせて足を踏みならして踊っておりました。
「さあ、長者様の所に案内しておくれ」
 鍛冶屋は小袋から煎った空豆をひとつ出して、料理長に渡しました。
 料理長は豆を口の中に放り込み、
「よし、長者様の所に案内しよう」
 元気に言いますと、前掛けのどんぶりの中にフスマの混じった粉で焼いた堅焼きのビスケットを詰め込みました。
 鍛冶屋と料理長は肩を組み、小さな袋から煎った空豆をつまんでかりかりかじり、前掛けのどんぶりからビスケットを出してぽりぽりかじりしながら、台所を出て行きました。
 鍛冶屋と料理長が行き着いたのは、刈り取った毛玉牛の毛を糸に紡いで布に織る作業場の隅でした。
 もちろん、村で一番の金持ち長者がそこにいるはずはありません。やせっぽち女織工たちがいるだけです。
 織工長の老嬢は威張った声で言いました。
「ねえ鍛冶屋、ここの鋏を全部研いでおくれ。一本だって残らずだよ」
 それから料理長に向かって、やっぱり威張った声で言いました。
「ねえ料理長、ここの織工たち全部に何か食べさせてやっておくれ。一人だってのこらず腹一杯にだよ」
 実を言いますと織工たちは、村一番の金持ち長者から美しい織物を百反つくれと言われているのに、錆びた鋏のせいで作業が進まず、一昨日の夜から食べたり休んだりしていないのです。
「解った解った。その代わり、全部済んだら長者様に会わせておくれよ」
 鍛冶屋と料理長は声を揃えて言いました。
 作業場には百と五本の錆びた鋏があり、百と五人の織工がいましたが、鍛冶屋はあっという間に鋏を全部研ぎ上げ、料理長はみなに堅焼きのビスケットを配って回りました。
 道具が治ったうえにおなかが一杯になったので、織工たちは大喜びして仕事にかかりました。
 糸車が回り、手機が音を立て、見る間に反物ができあがってゆきます。
 織工長がたいそう驚いて、
「これは一体どうしたんだい?」
 とたずねますので、鍛冶屋は煎り豆の詰まった袋を取り出して、料理長と二人で口を揃えて、神殿の合唱団のように節を付けて話しました。
「よぼよぼのじいさんとよぼよぼの婆さんが、朝一番にでかけた。
 二人揃って杖を突いて、神殿まで歩いていった。
 空っぽのお財布のそっこから、銅貨を一つ捧げた。
 心を込めてお祈りしたら、天から御使いが降りてきて、
 じいさんとばあさんに子供ができると仰った。
 それから煎った豆を植えろと仰った。
 酸っぱい上澄みで育てろと仰った。
 言われたとおりに豆をまき、言われたとおりに上澄みをかけた。
 すると不思議、煎り豆から芽が出た。
 不思議不思議、あっという間に木になった。
 あっという間に花が咲き、あっという間に実がなった。
 それがその豆、たくさんの豆。
 夕べたらふく食べて、今朝たらふく食べてもまだ減らない。
 なんて幸せな煎り豆だろう」
 鍛冶屋と料理長が歌うように話すのを聞いているうちに、織工長の威張ってとんがった顔が、楽しそうで角の取れた表情になってゆきました。
「これは不思議だ、なんだか元気が湧いてくる」
 なぜだか心がうきうきし、じっと立っていられなくなって、終いに織工長は節に会わせて足を踏みならして踊っておりました。
「さあ、長者様の所に案内しておくれ」
 鍛冶屋は小袋から煎った空豆をひとつ出して、料理長は前掛けのどんぶりからビスケットを一つ取り出して、織工長に渡しました。
 織工長は豆とビスケットを口の中に放り込み、
「よし、私も一緒に長者様の所へ行きましょう」
 元気に言いますと、スモックのポケットの中に毛玉牛の毛を細く細く紡いだ糸を一綛押し込みました。
 鍛冶屋と料理長と織工長は肩を組み、煎った空豆をかじりビスケットをかじりしながら、作業場から出て行きました。
 鍛冶屋と料理長と織工長が行き着いたのは、大きな風車のある粉碾き小屋の前でした。
 もちろん、村で一番の金持ち長者がそこにいるはずはありません。やせっぽちの人足たちがいるだけです。
 人足頭の中年男はほつれた上着の胸をグンと反らせて怒鳴りました。
「おい鍛冶屋、ここの歯車を全部磨くんだ。一つだって残さずにだぞ」
 それから料理長に向かって、やっぱり威張った声で言いました。
「こら料理長、ここの人足たち全部に何か喰わせるんだ。一人だってのこらず腹一杯にだぞ」
 それから織工長に向かって、やっぱり威張った声で言いました。
「やい織工長、ここの麦袋を全部を繕うんだ。一袋だって残さずだぞ」
 実を言いますと人足たちは、村一番の金持ち長者から蔵の麦を百袋分だけ粉に碾けと言われているのに、錆びた歯車が回らないせいで作業が進まず、の夜から食べたり休んだりしていないのです。
「解った解った。その代わり、全部済んだら長者様に会わせておくれよ」
 鍛冶屋と料理長と織工長は声を揃えて言いました。
 粉碾き小屋には百と五個の錆びた歯車があり、百と五人の人足がいて、百と五つの袋がありましたが、鍛冶屋はあっという間に歯車を全部研ぎ上げ、料理長はみなに堅焼きのビスケットを配って回り、織工長は瞬く間に袋を縫い上げました。
 道具が直った上に、お腹が一杯になり、袋も整ったので、人足たち大喜びして仕事にかかりました。
 風車が回り、臼が動き、見る間に粉が碾きあがって袋に詰められてゆきます。
 人足頭がたいそう驚いて、
「これは一体どうしたっていうんだ?」
 とたずねますので、鍛冶屋は煎り豆の詰まった袋を取り出して、料理長と織工長と三人で口を揃えて、神殿の合唱団のように節を付けて話しました。
「よぼよぼのじいさんとよぼよぼの婆さんが、朝一番にでかけた。
 二人揃って杖を突いて、神殿まで歩いていった。
 空っぽのお財布のそっこから、銅貨を一つ捧げた。
 心を込めてお祈りしたら、天から御使いが降りてきて、
 じいさんとばあさんに子供ができると仰った。
 それから煎った豆を植えろと仰った。
 酸っぱい上澄みで育てろと仰った。
 言われたとおりに豆をまき、言われたとおりに上澄みをかけた。
 すると不思議、煎り豆から芽が出た。
 不思議不思議、あっという間に木になった。
 あっという間に花が咲き、あっという間に実がなった。
 それがその豆、たくさんの豆。
 夕べたらふく食べて、今朝たらふく食べてもまだ減らない。
 なんて幸せな煎り豆だろう」
 鍛冶屋と料理長と織工長が歌うように話すのを聞いているうちに、人足頭の威張ってとんがった顔が、楽しそうで角の取れた表情になってゆきました。
「これは不思議だ、なんだか元気が湧いてくる」
 なぜだか心がうきうきし、じっと立っていられなくなって、終いに人足頭は節に会わせて足を踏みならして踊っておりました。
「さあ、長者様の所に案内しておくれ」
 鍛冶屋は小袋から煎った空豆をひとつ出して、料理長は前掛けのどんぶりからビスケットを一つ取り出して、人足頭に渡しました。
 人足頭は豆を口の中に放り込み、ビスケットをほおばり、
「長者様の所に案内してやりたいが、こんなぼろを着た格好では、きっとあってくれないだろうよ」
 とつぶやきました。
 そこで織工長がシャツのほつれを美しく繕いました。
 人足頭はたいそう喜んで、
「よし、長者様の所に案内しよう」
 元気に言いますと、何故かその場にどっかりと座り込みました。
「一体どういうことだね?」
 鍛冶屋がたずねますと、人足頭はにこにこと笑って言いました。
「案内はするが、連れては行かないよ」
「一体どういうことだね?」
 料理長が聞きますと、人足頭はにこにこと笑って言いました。
「ここにいるのが何よりの案内だからさ」
「一体どういうことだね?」
 織工長が聞きますと、人足頭はにこにこと笑って言いました。
「もうじき長者はここに来るんだ。だって、風車が回ったからね。きっと粉のことで催促にくるに違いないのさ」
「なるほどそれはそうかもしれない」
 鍛冶屋と料理長と織工長はそれぞれにうなずくと、人足頭を囲むようにしてその場に座りました。
 何しろみながみな、今朝や昨晩や一昨日や一昨昨日から働きづめに働いていましたから、すっかり疲れていたからです。
 脚は棒のようにかちこちですし、目は兎のように真っ赤です。
 それでもお腹の中から力が湧き上がってきて、黙りこくってはおられないほど楽しい気持ちが体に満ちておりました。
 ですから、誰が指揮をとるでもなく、誰が口火を切るでもなく、自然にみんなで歌を歌い出したのです。
 石の小屋の老夫婦が歌うように語ったあの話を、その場所にいた者全員が、大きな声で合唱したのでした。
「よぼよぼのじいさんとよぼよぼの婆さんが、朝一番にでかけた。
 二人揃って杖を突いて、神殿まで歩いていった。
 空っぽのお財布のそっこから、銅貨を一つ捧げた。
 心を込めてお祈りしたら、天から御使いが降りてきて、
 じいさんとばあさんに子供ができると仰った。
 それから煎った豆を植えろと仰った。
 酸っぱい上澄みで育てろと仰った。
 言われたとおりに豆をまき、言われたとおりに上澄みをかけた。
 すると不思議、煎り豆から芽が出た。
 不思議不思議、あっという間に木になった。
 あっという間に花が咲き、あっという間に実がなった。
 それがその豆、たくさんの豆。
 夕べたらふく食べて、今朝たらふく食べてもまだ減らない。
 なんて幸せな煎り豆だろう」
 大きな歌声は、風車小屋の壁に跳ね返り、織物の作業場の壁に跳ね返り、台所の壁に跳ね返り、敷地を囲む塀に跳ね返って、益々大きくなりました。
 風車小屋では人足たちが声を揃えますし、織物の作業場では織工の娘たちが声を揃えますし、台所では下働きの者達が声を揃えました。
 歌声は村一番の金持ち長者さまの屋敷中に響きました。そればかりか、屋敷の外の麦の畑や、ぶどうの畑や、亜麻の畑や、チーズの加工場や、ぶどう酒の酒蔵や、リネンの保管庫や、遠く遠くの毛玉牛の牧場にまで響いたのです。
 仕事をしている人たちの疲れた顔が、楽しそうで角の取れた表情になってゆきました。
「これは不思議だ、なんだか元気が湧いてくる」
 みんななぜだか心がうきうきし、じっと立っていられなくなって、終いには長者の屋敷で働いている人々全員が、節に会わせて足を踏みならして踊り出しました。
 これに驚いたのは、誰ありましょう、村で一番の金持ち長者です。
 長者はお屋敷の門から一番遠い棟の、一番高い所にある、一番日当たりの良い、一番広い部屋におりました。
 部屋の四方はみな窓が開いていて、お屋敷の中も、遠くの畑も、無効の牧場も、それから村中の全部が手に取るように見渡せます。
 長者が東の窓から顔を出しますと、麦畑で働く者たちが、みな楽しげに歌い踊っているではありませんか。
「これは一体何事だ?」
 西の窓から顔を出しますと牧場で働く者達が、みな楽しげに歌い踊っているのが見えました。
「これは一体何事だ?」
 北の窓から顔を出しますと、織物の作業場で働く者達が、みな楽しげに歌い踊っているのが見えました。
「これは一体何事だ?」
 最後に北の窓から顔を出しますと、大きな風車がぐるぐると回ってい、その下で粉碾きをして働く者達が、みな楽しげに歌い踊っているのが見えました。
「これは一体何事だ?」
 長者はあわてて番頭を呼びました。番頭はいつも長者の部屋の隣にある狭い控えの部屋におりますので、小さな呼び鈴をチリンチリンチリンと三度振れば、すぐにやってきます。
 すぐに来なければ長者が酷く怒るので、番頭は一度目の小さなチリンで部屋から飛び出すようにしているのです。
 ところが、今日に限っては番頭はやってきません。
 なにしろ、屋敷の内外でみなが歌って踊っておりますから、その声も足音も、耳が破けてしまいそうなくらいに大きくて、小さな呼び鈴のチリンチリンチリンという音はきれいさっぱりかき消されてしまい、番頭の耳にはちっとも聞こえなかったのです。
 実を言いますと、番頭も外から聞こえる歌の声を聞いているうちに、なんだか心がうきうきし、じっと立っていられなくなって、終いには狭い控えの部屋の中で歌い踊っていたのですけれども。
 屋敷中、牧場中、畑中、工場中のみなが歌い踊るその声と足踏みとは、長者にはそれはそれは酷く騒がしい音に聞こえました。
 村で一番の金持ち長者は両の手で両の耳を塞ぎました。ほんの少し音が小さくなったような気がしましたので、長者は大声を上げました。
「誰かいないのか!? このうるさい音は、いったい何の騒ぎだ!」
 誰の返事も聞こえませんので、長者は脚をドタバタと踏みならして、声をギャンギャンと張り上げました。
「ええい、うるさい! 静かにしないか!」
 ですが、ドタバタはみなの踊りの足音でかき消されましたし、ギャンギャンもみなの歌の声でかき消されてしまいました。
 村で一番の金持ち長者は両の人差し指を両の耳の穴に差し込みました。だいぶん音が小さくなったような気がしましたので、長者はもう一度叫びました。
「誰かいないのか!? このうるさい音は、いったい何の騒ぎだ!」
 それでも誰の返事も聞こえませんでした。
 もっとも、誰かが返事をしたところで、長者は両耳を塞いでいるのですから、返事の声など聞こえるはずもないのですけれども。
 屋敷中、牧場中、畑中、工場中のみなが歌い踊るその声と足踏みは、終いには長者の屋敷の壁という壁、柱という柱をビリビリと揺すぶり始めました。
 天井からぱらぱらと、埃のような砂粒のようなものが降ってきて、村一番の金持ち長者の頭の上に白く積もりました。
 長者は音と揺れとに耐えられなくなって、お屋敷の門から一番遠い棟の、一番高い所にある、一番日当たりの良い、一番広い部屋から飛び出しました。
 村一番の金持ち長者は、両の人差し指で両の耳の穴を塞ぎ、長い長い階段を駆け下りて、長い長い廊下を駆け抜けて、広い広い中庭を突っ切って、広い広いお屋敷中を走り回りました。
 何処に行っても騒がしい歌は聞こえますし、何処に行っても騒がしい足音は止みません。
 走り回った長者は疲れ果てて、顎が上がり、ぜいぜいと息を吐きました。
「これは一体どういうことだ」
 思わず、天を仰ぎますと、南に向かって羽を広げる背の高い大きな風車が、ぐるりぐるりと勢いよく回っているのが見えました。
 長者は一昨々日の夕方、粉碾きの人足頭に麦を挽いて粉を百袋作るように命令したことを思い出しました。
 村一番の金持ち長者はフラフラとした足取りで、粉碾き小屋に向かいました。
 粉碾き小屋の前では、人足頭と職工長と料理長と、それから鍛冶屋が、車座になって座っておりました。
 そして口を揃えて、石の小屋の老夫婦が歌うように語ったあの話を、不思議な節廻しで歌っておりました。
「よぼよぼのじいさんとよぼよぼの婆さんが、朝一番にでかけた。
 二人揃って杖を突いて、神殿まで歩いていった。
 空っぽのお財布のそっこから、銅貨を一つ捧げた。
 心を込めてお祈りしたら、天から御使いが降りてきて、
 じいさんとばあさんに子供ができると仰った。
 それから煎った豆を植えろと仰った。
 酸っぱい上澄みで育てろと仰った。
 言われたとおりに豆をまき、言われたとおりに上澄みをかけた。
 すると不思議、煎り豆から芽が出た。
 不思議不思議、あっという間に木になった。
 あっという間に花が咲き、あっという間に実がなった。
 それがその豆、たくさんの豆。
 夕べたらふく食べて、今朝たらふく食べてもまだ減らない。
 なんて幸せな煎り豆だろう」
 村一番の金持ち長者は驚きました。そして腹が立ちました。
「一体お前たちはなにをしているんだ。こんなところで、仕事もせずに!」
 精一杯の大きな声で怒鳴りつけたのですが、人足頭も、職工長も、料理長も、鍛冶屋も、長者に気がつきません。
 みなが声を合わせて歌う大きな響きに、他の声は全部かき消されてしまって、ちっとも聞こえないのです。
 とうぜん、誰も返事をいたしませんから、長者はますます腹を立て、脚をドタバタと踏みならして、声をギャンギャンと張り上げました。
「一体お前たちはなにをしているんだ。こんなところで、仕事もせずに!!」
 長者は喉が破れて血が出るのではないかと思うくらい、大きな声で叫びました。
 すると、粉碾きの人足頭が顔を上げました。
「おお、長者様がいらした。ほうら、俺の言ったとおりだろう?」
 粉碾き小屋はいつも歯車や石臼の回る大きな音が響いていますから、人足頭の耳は大きな音の外から聞こえる別の音を聞き分けるのが達者なのです。
 職工長も頭を上げました。
「おや、長者様がいらした。人足頭の言ったとおりね」
 織物の作業場はいつも機織りの機械や糸紡ぎの車が動く大きな音が響いていますから、職工長の耳は大きな音の外から聞こえる別の音を聞き分けるのが達者なのです。
 料理長も顔を上げました。
「おや、長者様がいらした。人足頭の言ったとおりだ」
 お屋敷の台所はいつもカマドの大なべやオーブンの金具がぶつかり合う大きな音が響いていますから、料理長の耳は大きな音の外から聞こえる別の音を聞き分けるのが達者なのです。
 それから鍛冶屋も顔を上げました。
「ああ、長者様がいらっしゃった。人足頭の言ったとおりに」
 鍛冶の仕事場はいつもごうごうと燃える炉や鉄を打つ槌の大きな音が響いていますから、鍛冶屋の耳は大きな音の外から聞こえる別の音を聞き分けるのが達者なのです。
 四人の職人は同時に顔を上げ、同時に腰を上げ、同時に声を上げました。
「長者様、長者様、お話があります、きいてください」
 村で一番の金持ち長者が怒鳴り声を上げようと口を開きかけたその時に、粉碾きの人足頭が言いました。
「長者様、長者様。すっかり遅くなりましたが、小麦の粉が百袋できました。さあさあ粉碾き小屋の中に入って、袋の数を数えてください」
 長者は大変驚きました。つい今朝方まで、風車が真っ当に回らなかったことも、粉の袋が全部破れていたことも、長者はちゃんと知っていたからです。
 それでいて長者は、石臼が回らなくても麦を碾けと命じ、入れても入れても穴から溢れるので満杯にならない百の袋を粉で満たせと命じていたのでした。
 人足たちができないと泣きついてきたら、仕事ができないことを理由にして、全員をクビにするつもりだったからです。
 そうすれば、人足たちに給料を払わずに済むだろうと考えていたのです。
 長者の目論見は外れてしまったのですが、命じた仕事が終わっているのですから、大声で怒鳴るわけには行きません。
 村で一番の金持ち長者は、怒鳴るために開けた口から、
「ああそうかね」
 という声をようやく出しました。すこし口惜しい気分でしたから、声は小さくてもとげとげとしていました。
 すると小さな声を出した口が閉じきるその前に、織工長の老嬢が言いました。
「長者様、長者様。すっかり遅くなりましたが、美しい反物が百反できあがりました。さあさあ作業場にいらして、布の数を数えてください」
 長者は大変驚きました。つい今朝方まで、鋏が真っ当に切れなかったことも、手機が動いていなかったことも、長者はちゃんと知っていたからです。
 それでいて長者は、糸が切れなくても布に織れ、糸がなくても機を動かして百の織物を織り上げろと命じていたのでした。
 織工たちができないと泣きついてきたら、仕事ができないことを理由にして、全員をクビにするつもりだったからです。
 そうすれば、織工たちに給料を払わずに済むだろうと考えていたのです。
 長者の目論見は外れてしまったのですが、命じた仕事が終わっているのですから、大声で怒鳴るわけには行きません。
 村で一番の金持ち長者は、閉じかけていた口を開いて、
「ああそうかね」
 という声をようやく出しました。とても口惜しい気分でしたから、声は小さくてもとげとげとしていました。
 すると小さな声を出した口が閉じきるその前に、やせっぽちの料理長が言いました。
「長者様、長者様。すっかり遅くなりましたが、美味しい料理が百人前できあがっています。さあさあ食堂にいらして、皿の数を数えてください」
 長者は大変驚きました。つい今朝方まで、包丁が真っ当に切れなかったことも、ナイフが全部さび付いていたことも、長者はちゃんと知っていたからです。
 それでいて長者は、食材を刻めなくても料理を作れ、料理がなくても百の皿を満たせと命じていたのでした。
 料理人たちができないと泣きついてきたら、仕事ができないことを理由にして、全員をクビにするつもりだったからです。
 そうすれば、料理人たちに給料を払わずに済むだろうと考えていたのです。
 長者の目論見は外れてしまったのですが、命じた仕事が終わっているのですから、大声で怒鳴るわけには行きません。
 村で一番の金持ち長者は、閉じかけていた口を開いて、
「ああそうかね」
 という声をようやく出しました。大変口惜しい気分でしたから、声は小さくてもとげとげとしていました。
 すると小さな声を出した口が閉じきるその前に、鍛冶屋が言いました。
「長者様、長者様。すっかり遅くなりましたが、今日はお話があってまいりました」
 村で一難の金持ち長者は、鍛冶屋の顔を見てたいそう驚きました。
 鍛冶屋には、広いぶどう畑を耕すためのたくさんの鋤と、広い麦畑をを刈り取るためのたくさんの鎌と、広い敷地を見回るためのたくさんの馬具と、広いお屋敷の戸締まりをするためのたくさんの錠を作らせたのですが、その代金をまだ銅貨一枚分だって払っていなかったからです。
 ですから長者は、鍛冶屋が代金を取りに来たのだと思いました。そうして、どうしても払いたくないとも思いました。
 払うお金がないのではありません。何しろ村で一番の金持ち長者ですから、金蔵にはたくさんの金貨や銀貨や銅貨が袋に入って、小箱に入って、大箱に入って、鍵をかけられて、しまわれています。
 村で一番の金持ち長者は、しまったお金を金蔵から取り出すことが、何よりも嫌いだったのです。
 鍵を外すのも、大箱のふたを取るのも、小箱のふたを開けるのも、袋の紐をほどくのも、絶対にやりたくないことでした。
 そんなことをしたら、折角貯め込んだお金が、減ってしまうからです。
 長者は閉じかけていた口を大きく開いて、
「金などないぞ、金などないぞ。お前に払う金などは、一文だって有りはしない」
 と怒鳴りました。
 それからげんこつを握って振り上げました。
 それで鍛冶屋を殴るつもりはありません。
 人を殴ったら手が痛くなります。長者は痛いのは大変嫌いでした。それに万一ケガでもしたら手当をしなければなりません。高い薬や治療の代金を医者に払ったりするのはもっと嫌いです。
 普段でしたら、長者がげんこつを振り上げるのを合図に、番頭や若い使用人が出てきて、長者のようにげんこつを振り上げ、長者のかわりにげんこつを振り下ろすのですけれども、今日は誰一人長者のところにやってきません。
 みな不思議な歌を歌い、不思議な拍子で踊るのに夢中で、長者が何を言っても聞こえず、何をやっても見えないのです。
 仕方なく長者は、げんこつを振り上げたまま、大きな声で鍛冶屋に怒鳴りつけました。
「さあこの屋敷から今すぐ出て行け!」
「それは残念です。石の壁の小屋のおじいさんとおばあさんが、神殿で御使いのからお告げを受けて、言われたとおりに育てたなら、お告げの通りにその日の内に実った、食べても別けてもちっとも減らない、不思議な豆の話をお教えしようと思っていましたのに」
 鍛冶屋は煎り豆の詰まった小袋を、顔の前に持ち上げました。
「何だって!?」
 長者は怒鳴るのとは別な色の大きな声を出しました。
 そうして、振り上げたげんこつをほどいて、その手を鍛冶屋の肩の上にのせますと、
「面白そうな話だ。ぜひとも聞かせておくれ」
 目を輝かせて言いました。
 村で一番の金持ち長者が話を聞きたいと思ったそのわけは、顔を見知っている石壁の小屋の老夫婦のことだからではなく、神殿の御使いの話だからでもなく、お告げの通りに豆が育った不思議な話だからでもありません。
 食べても別けてもちっとも減らないというのに、心惹かれたのです。
 村で一番の金持ち長者は、たくさんの畑と、たくさんの家畜と、たくさんの使用人の働きで、たくさんの蓄えを持っています。
 ですが、パンを食べれば麦の粉は減りますし、服を作れば布や糸が減りますし、買い物をすればお金は減ってしまいます。
 長者はそれが口惜しくてなりませんでした。
 端から見ますと、長者の蓄えは減った以上に増えておるように思えます。畑はどんどん広がっていて、毛玉牛はどんどん数が増えていて、使用人はどんどんクビになっているのですから。
 しかし長者は満足できません。
 できることなら麦の粒一つ、毛玉牛の毛一本、銅貨の一枚だって外に出したくはないのです。
 なにしろこの長者は、吸い込んだ息を吐き出すことがもったいなくて、どうすれば息を吐かずにしゃべれるのかを、医者や学者に調べさせたことがあるくらいの人なのです。その方法が判れば、医者や学者はたくさんの礼金をもらえるという約束でした。
 もちろん、息を吐かずにしゃべることなどできません。そのことを正直に申した医者や学者は、礼金をもらうどころか、屋敷から文字通りにけり出されてしまったのですけれども。
 そんなわけですから、村で一番の金持ち長者は、鍛冶屋が「食べても減らない豆」と言ったのに、心を惹き付けられたのでした。
 長者は鍛冶屋の両の肩をがっしりと掴んで言いました。
「もったいを付けるな。早く話せ」
 あんまり強く掴まれたので、鍛冶屋は肩が痛くて仕方がありません。
「もったいなど付けませんよ。今最初から話しますから」
 なだめるように言いますと、すぅっと息を吸い込んで、
「よぼよぼのじいさんとよぼよぼの婆さんが、朝一番にでかけた」
 と、歌うような調子で話し始めました。
 ところが、まだ最初の一言を言い終わる前に、長者が掴んでいた鍛冶屋の両の肩を前後に揺さぶって
「年寄りの話などどうでも良い! 豆の話をするんだ」
 大きな声で怒鳴りました。
 肩は痛みましたし、耳はキンキンとしましたので、鍛冶屋は少し驚きましたが、
「二人揃って杖を突いて、神殿まで歩いていった」
 と続きを話しました。
 すると、その言葉が終わる前に、長者は鍛冶屋の両の肩を、こんどは左右に揺さぶって、
「神殿などどうでも良い! 豆の話をするんだ」
 もっと大きな声で怒鳴りました。
 鍛冶屋はかなり驚きましたので、少し慌てて
「心を込めてお祈りしたら、天から御使いが降りてきて……」
 と言いかけました。
 すると、言葉の途中だというのに、長者は鍛冶屋の両の肩を、前後左右に揺さぶって、
「御使いなどどうだって良い! 豆の話をするんだ」
 もっともっと大きな声で怒鳴りました。
 肩はとても痛みましたし、耳はビリビリとしましたので、鍛冶屋はとても驚きました。そうして、
「判りました、豆の話だけしましょう。ですから肩を揺さぶるのは止めてくださいまし」
 残念そうな声音で言いました。
 長者は大変嬉しそうに笑い、鍛冶屋の肩から手を放しました。
 鍛冶屋は一つ息を吐いてから
「煎った豆を蒔いて、酸っぱい上澄みで育てましたら、たくさんの豆が実りました」
 早口で言いました。
「煎った豆を蒔いて、酸い水で育てるのか?」
 鍛冶屋が何か言いかけましたが、村で一番の金持ち長者は、まるで怒鳴り声で彼の口を口を塞ぐような勢いで続けました。
「それだけ判れば充分だ。さあもうお前には用はない。さっさと屋敷から出て行くがいい」
 鍛冶屋は、一番大切なことをちゃんと話していないと思いましたけれども、長者はもう何を話しても聞いてくれないだろうとも思いましたので、肩を落としてとぼとぼと屋敷の門へ歩いてゆきました。
 鍛冶屋がいなくなってしまったので、お屋敷の敷地と畑と牧場とで響いておりました大きな声も、いつの間にか消えてしまいました。
 鍛冶屋があのうねりのような歌の中心だったからです。
「煎り豆はどこだ!? 我が家で一番大きくて、一番つやつやしていて、一番上等な煎り豆を持ってこい!」
 あたりはすっかり静かになっっているというのに、長者は前と変わらない大きな声で言いました。
 料理長と職工長と人足頭は慌てて耳を塞ぎ、口々に、てんでバラバラに、ちっとも揃わない声で言いました。
「台所で探してみます」
「納戸で探してみます」
「蔵で探てみます」
 料理長と職工長と人足頭は三つの方向に駆け出しました。
 使用人たちの食事を作る狭い台所に着いた料理長は、台所中を探し回りました。
 戸棚の中、床下の倉庫、鍋の中、お皿の一枚一枚、カップの一つ一つ……。
 そうしてやっと大きなパン焼き窯の隅っこの灰の中から、ころりと一粒の黒くて焦げ臭い硬くなった空豆を見つけました。
 料理長は豆を前掛けに包んで、長者の元に駆け戻りました。
 織物の材料と布と道具をしまう小さな部屋に着いた職工長は、部屋中を探し回りました。
 棚の上、戸袋の中、行李の中、小箱の一つ一つ、麻袋の一つ一つ……。
 そうしてやっと小さな窓の枠の上の綿埃の中から、ころりと一粒の灰色でカビ臭い硬くなった空豆を見つけました。
 職工長は豆をエプロンに包んで、長者の元に駆け戻りました。
 小麦以外の雑穀を積み上げておく古い蔵に着いた人足頭は、蔵の中を探し回りました。
 レンズ豆の袋の下、ひよこ豆の袋の下、イナゴ豆の袋の下、箱と箱の間の一個所一個所、袋と袋の間の一隙間一隙間……。
 そうやってやっと土壁に開いた鼠の穴の土埃の中から、ころりと一粒の土気色で獣臭い硬くなった空豆を見つけました。
 人足頭は豆を前掛けに包んで、長者の元に駆け戻りました。
 戻ってきた三人は、それぞれに持ってきた豆を、長者の前に差し出しました。
 長者は三つの豆を奪うようにして受け取りました。
 そうして今度は、
「酸っぱい水はどこだ!? 我が家で一番酸っぱくて、一番濁っている、一番上等な上澄みの汁を持ってこい!」
 あたりはすっかり静かになっっているというのに、長者は前と変わらないどころか、前よりも一層大きな声で言いました。
 料理長と職工長と人足頭は慌てて耳を塞ぎ、口々に、てんでバラバラに、ちっとも揃わない声で言いました。
「台所で探してみます」
「納戸で探してみます」
「蔵で探てみます」
 料理長と職工長と人足頭は三つの方向に駆け出しました。
 台所に着いた料理長は、台所中を探し回りました。
 飲み水の桶、お酒の壺、油の瓶、お鉢一つ一つ、お椀の一つ一つ……。
 そうしてやっと生ゴミを捨てるバケツの中から、硬くなったチーズをひとかけら見つけました。
 料理長はチーズを水差しに入れてふたをしますと、長者の元に駆け戻りました。
 納戸に着いた職工長は、部屋中を探し回りました。
 染料の桶、色止め薬の壺、機械に指す油の瓶、染料皿の一枚一枚、糸くず入れの一つ一つ……。
 そうしてやっと麻を浸けたあとの酸っぱい臭いのする水を見つけました。
 職工長は豆を手桶に汲んで桶の上をボロ布で覆いますと、長者の元に駆け戻りました。
 古い蔵に着いた人足頭は、蔵の中を探し回りました。
 葡萄のお酢の瓶、林檎のお酒の樽、菜種の油の樽、瓶と瓶の間の一個所一個所、タルトたるの一隙間一隙間……。
 そうやってやっと雨漏りのしたたりが溜まった濁った水たまりを見つけました。
 人足頭は濁った水を瓶にすくってコルクで栓をしますと、長者の元に駆け戻りました。
 戻ってきた三人は、それぞれに持ってきた水を、長者の前に差し出しました。
 長者は三つの水の入れ物を奪うようにして受け取りました。
 そうしてにんまりと笑って言いました。
「豆が三粒、水が三杯もあるのだから、実も三倍に成るだろう。蔵の中が豆であふれて、しかも減ることはない」
 村で一番の金持ち長者は、料理人に向かって言いました。
「もうお前など用無しだ。食べてもなくならない豆があるのだから。さっさと屋敷から出て行くがいい」
 料理長は、豆は料理しないと食べられないのだということを話そうとは思いましたけれども、長者はもう何を話しても聞いてくれないだろうとも思いましたので、肩を落としてとぼとぼと屋敷の門へ歩いてゆきました。
 次に、村で一番の金持ち長者は、職工長に向かって言いました。
「もうお前など用無しだ。決して減らない豆という財産があるのだから。さっさと屋敷から出て行くがいい」
 職工長は、豆があっても布がなければ着る物がなくなるということを話そうとは思いましたけれども、長者はもう何を話しても聞いてくれないだろうとも思いましたので、肩を落としてとぼとぼと屋敷の門へ歩いてゆきました。
 それから、村で一番の金持ち長者は、人足頭に向かって言いました。
「もうお前など用無しだ。蔵一杯になってもまだ余る豆があるのだから。さっさと屋敷から出て行くがいい」
 人足頭は、豆はそのままでは腐ってしまうのだということを話そうとは思いましたけれども、長者はもう何を話しても聞いてくれないだろうとも思いましたので、肩を落としてとぼとぼと屋敷の門へ歩いてゆきました。
 それぞれの頭がみなお屋敷を出て行きましたので、それぞれの下で働いていた者達もみなお屋敷から出て行きました。
 村で一番の金持ち長者は、三粒の豆を握りしめ、三種類の入れ物を抱えますと、自分の持っている畑の中の、一番土の肥えた、一番日当たりの良い、一番水の豊富な場所に行きました。
 ちょうど小作人たちがが鍬で地面を耕しているところでしたが、長者は押し退けるようにして彼等を追い払ってしまいました。
「もうお前など用無しだ。いくら食べてもいくら使っても減らない豆を蒔くのだ。もう畑を耕す人間はいらない。さっさとこの土地から出て行け!」
 小作人の頭は、豆を蒔いたらその後に肥をやったり草取りをしたりとたくさんの世話をしないとならないのだということを話そうとは思いましたけれども、長者には何を話しても聞いてもらえないだろうとも思いましたので、肩を落としてとぼとぼと屋敷の門へ歩いてゆきました。
 頭がお屋敷を出て行きましたので、下で働いていた者達もみなお屋敷から出て行きました。その様子を遠くから見ていた他の畑の小作の人たちも、仲間と一緒に出て行きました。
 誰もいなくなった畑に残った長者は、
「さあ蒔くぞ、豆蒔くぞ。食べても減らない豆蒔くぞ」
 と、口の中でもごもごと言いながら、畑の真ん中の良く耕された地面に、大きくて深い穴を三つ掘り下げました。
 一つの穴に毛玉牛の子が一匹丸々入りそうな暗いに、大きくて深い穴でした。
 穴を掘り終わりますと長者は、
「さあ蒔くぞ、豆蒔くぞ。食べても減らない豆蒔くぞ」
 と、口の中でもごもごと言いながら、それぞれの穴に一粒ずつ豆を投げ込みました。
 一つの穴の底に真っ黒焦げの豆がぽつんころころ、真ん中の穴の底にカビだらけの豆がぽつんころころ、残りの穴の底に鼠の糞まみれの豆がぽつんころころと落ちました。
 種を巻き終わりますと長者は
「さあ蒔くぞ、豆蒔くぞ。食べても減らない豆蒔くぞ」
 と、口の中でもごもごと言いながら、それぞれの穴にたっぷりと土を投げ込んで、最期にその上に飛び乗って踏みつました。
 一つの穴の上で三度、次の穴の上で三度、最期の穴の上で三度、どすんどすんと飛び跳ねましたので、地面は鏡のように固く平らになりました。
 土をならし終わりますと長者は
「さあ蒔くぞ、豆蒔くぞ。食べても減らない豆蒔くぞ」
 と、口の中でもごもごと言いながら、古いチーズの溶けた水と、麻の茎を腐らせたあとの残り水と、雨漏りの泥水を、一度に全部撒きました。
 硬く踏まれた地面には、水が中々浸みませんので、三種類の水が混じった物は、そのまま水たまりになりました。水たまりからは、酸っぱいような腐ったような埃っぽいような、へんてこで厭な臭いが立ち上りました。
 村一番の金持ち長者は
「さあ蒔いたぞ、豆蒔いたぞ。食べても減らない豆蒔まいたぞ」
 と、口の中でもごもごと言いながら、水たまりを真上から覗き込みました。すぐにでもここから芽が出て、育って、花が咲いて、いくら食べてもいくら使っても減らない豆が実ると思ったからです。
 おかげで長者は、酸っぱいような腐ったような埃っぽいような、へんてこで厭な臭いを胸一杯に吸い込んでしまいました。とても気分が悪くなって、吐き気もしてきましたので、長者は顔を背けて、そこから逃げ出したい気分になりました。
 それでも、すぐに芽が出て、育って、花が咲いて、いくら食べてもいくら使っても減らない豆が実るのだと思いましたので、ぐっと堪えて踏ん張って、中々浸みてゆかない水たまりをじっと見つめておりました。
 日がとっぷりと沈み、空は暗くなりました。
 固い地面の水は中々浸みてゆかず、深いところに埋められた豆は土の中でからからに乾いておりました。
 すぐにでも芽が出て、育って、花が咲いて、いくら食べてもいくら使っても減らない豆が実ると思っておりました長者でしたが、
「三倍の豆を蒔いて三倍の水を撒いたのだからきっと三倍の時間がかかるに違いない」
 と思い直しました。そして、暗闇の中に目を凝らし、
「さあ芽吹け、豆芽吹け。食べても減らない豆芽吹け」
 と、口の中でもごもごと言いながら地面を睨み付けました。
 細い細い月が頭の上まで登り切って、遠くで山犬が遠吠えする声が聞こえるようになった頃、へんてこで厭な臭いのする水がぜんぶ地面に染み込んで、ようやっと水たまりがなくなりました。
 じつは、長者が穴を深く掘りすぎておりましたので、水が全部浸みても、豆は土の中でからからに乾いておりました。
 そのようなことは、土の上から眺めている長者には判らないことでした。けれども、すぐにでも芽が出て、育って、花が咲いて、いくら食べてもいくら使っても減らない豆が実ると思っていたものですから、すこしイライラとしてまいりました。
 それでも、
「三倍の豆を蒔いて三倍の水を撒いたのだからきっと三倍の時間がかかるに違いない」
 と思い直し、
「さあ芽吹け、豆芽吹け。食べても減らない豆芽吹け」
 と、口の中でもごもごと言いながら地面を睨み付けました。
 どんなに地面を見つめていても芽が出るどころか、土の固まり一つ、砂の粒一つ動く気配はありません。
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